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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。
歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。
古今和歌集 巻第四 秋歌上 (234)
(躬恒)
をみなへし吹すぎてくる秋風は 目には見えねど香こそしるけれ
(歌合の歌と思われる) (みつね)
(女郎花・咲く野を、吹き過ぎて来る秋風は、目には見えないけれど、香が、あの花と・はっきりしていることよ……をみな圧し、吹き過ぎてくる、厭きの心風は、目には・女には、見えないけれど、香こそ、しるっぽいことよ)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「女郎花…草花…女花…をみな圧し」「秋…飽き…厭き」「風…季節風…心風(心に吹く厭き風)」「め…目…女…おんな」「しる…著る…はっきりしている…汁…しる…つゆ…おとこ白つゆ」「けれ…けり…感嘆・詠嘆の意を表す」。
女郎花咲く野を、吹き過ぎて来る秋風は、目には見えないけれど、香りで、あの草花と・はっきりわかることよ。――歌の清げな姿。
をみな圧し、吹き過ぎて来る厭きの心風は、おんなには見えないけれど、香こそ、はっきりしている、白しるだなあ。――心におかしきところ。
歌の「清げな姿」は皮相な部分である。うわの空読みすれば、誰でもわかる。歌の真髄は「心におかしきところ」にある。人のエロス(性愛・生の本能)の表出である。
歌の様(表現様式)を知り、言の心(この文脈で通用していた意味)を心得れば、おとこの、はかなく果てるさがを詠んだ歌だろうとわかる。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)