帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百十三)(四百十四)

2015-09-24 00:08:00 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。勅撰集に採られるような歌には、必ずこの三つの意味が有る。

今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておくが、やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な解釈とその方法であることに気付くだろう。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

はらへしに、あき、からさきにまかりてふねのまかりけるを見侍りて

恵京法し

四百十三  おく山にたてらましかばなぎさこぐ ふなきもいまはもみぢしなまし

祓えしに、秋、唐崎に行って、舟が来たのを見て    (恵慶法師・国分寺講師という・元輔や宣能らと交流のあった人)

(奥山に立っていたならば、渚漕ぐ舟を造る木も、今は紅葉しているだろうに……妻の山ばに立っていれば、なぎさこぐ夫根の気も、今は、飽き色しているだろうになあ)

 

言の戯れと言の心

「おく…奥…奥方…言の心は女」「山…山ば…感情などの山ば」「まし…仮に想像する意を表す」「なぎさ…渚…汀・浜などと共に言の心は女」「こぐ…水をおし分けすすむ…こく…放つ」「ふなき…舟木…舟を造る木材…夫な気…夫根の気」「舟・木…言の心は男」「もみぢ…紅葉・黄葉…秋の色…飽きの色…厭きの色」「まし…仮に想像する意を表し、後悔や安堵感などの意を含むことが有る」

 

歌の清げな姿は、秋、唐崎にて、渚を漕ぐ舟を見た感想。

心におかしきところは、己の男性としての思いを、渚漕ぐ舟に寄せて詠んだ。

 

 

題不知                         躬恒

四百十四  もみぢばのながるるときはたけがはの ふちのみどりも色かはるらむ        

題しらず                       (凡河内躬恒・古今和歌集撰者)

(もみじ葉の流れる時は、竹河の淵の緑も色変わっているだろう・今頃……おとこの・飽き色、流れる時は、常磐の・多気川の、奥深いところの色情も変わるだろう)

 

言の戯れと言の心

「もみぢば…もみじ葉…紅・黄などの秋の色…飽き色の身の端」「ときは…時は…常磐…常に変わらない」「岩・磐・石の言の心は女」「たけかは…竹河…川の名…名は戯れる。長かは、多気川、多情な女」「川…言の心は女」「ふち…淵…深い所…奥深いところ…川淵は女の奥深いところ」「みどり…緑…常禄」「色…色彩…色情」「らむ…現在の情況を想像する意を表す…推量の形で婉曲に述べる」

 

歌の清げな姿は、もみじ葉流れる竹河の淵の風情。

心におかしきところは、飽き満ち足りた和合の情態を、願望をまじえて想像した。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌の表現様式について述べる


  紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って、平安時代の
和歌の表現様式を考察すると次のように言える。「常に
複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸である。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様子なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式である」。


帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百十一)(四百十二)

2015-09-23 00:17:28 | 古典

          

 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読んでいる。

公任の歌論は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。

今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

さがのにすみ侍りけるころ、房の前栽を見に女どものもうできたり

ければよみはべりける                  遍昭

四百十一  ここにしもなににほふらんをみなへし 人のものいひさがにくきよに

嵯峨野に住んでいた頃、僧房の前栽を見に女たちが詣で来たので詠んだ、(僧正遍照・仁明天皇の崩御とともに三十五歳で出家した蔵人頭)

(こんな所に、どうして色艶やかに咲くのだろうか、女郎花、女の噂の口うるさい世間なのに……こんな所に、なんで色っぽく咲き匂うのだろう、をみな圧し人の噂ばなし、手に負えない、男と女の世の中なのに)

 

言の戯れと言の心

「にほふ…色美しい…艶ややかである…魅力ある香りがする」「をみなへし…女郎花…草花の名…名は戯れる。をみな圧し、女を押さえつける」「草花の言の心は女」「人…世間の人々…女」「ものいひ…噂ばなし…風評」「さがにくき…意地悪い…口やかましい…手に負えない」「よ…世…男と女の世」「に…場合や情況を表す…原因理由を表す…なのに…なので」

 

歌の清げな姿は、どうして集まってきたのだろう、色香麗しい女たちよ、堕落したと、意地悪な噂がたつ世なのに。

心におかしきところは、をみな圧した人の噂が、たち悪く手に負えない、男と女の世なのに。


 

古今和歌集の秋歌上にある遍昭の歌を聞きましょう。題しらず。

なに愛でて折れるばかりぞ女郎花我おちにきと人にかたるな

(名が愛でたいので、手折っただけだぞ、女郎花よ、あの僧、堕落したと他人に語るな……汝を愛でて、わがもの折っただけだぞ、をみな圧し、あの僧逝けに・堕ちたと人と噂するな)

 

 

題不知                          躬恒

四百十二  あきののははなのいろいろとりすゑて わがころもてにうつしてしかな

 

題しらず                        (凡河内躬恒・古今和歌集撰者)

(秋の野は、花の色彩取り揃え置いてあって、我が衣の袖に、移してしまうなあ……飽きとなったひら野は、おんな花の色香いろいろ取り揃え置いてあって、我が心と身の端に移して欲しいなあ)

 

言の戯れと言の心

「あき…秋…飽き」「の…野…ひら野…山ばでないところ」「はな…花…草花…言の心は女」「いろいろ…色々…色彩豊か…匂うごとき艶やかさ…色情多々」「ころもて…衣手…衣の袖…心と身の端」「衣…心身を被うもの…心身の喚喩…心身」「てしかな…(移)してしまうなあ…完了と詠嘆を表す…(移)して欲しいなあ…願望と感動を表す」

 

歌の清げな姿は、秋の草花の色彩豊かに色艶匂うが如く咲いた景色。

心におかしきところは、尽き果てたひら野で、なおも色情を我がそでに移して欲しいと願望するおとこのさが。

 

この両歌、立場は違うが、歌の心は、断ち難きおとこのさがと、絶えて欲しくないおとこのさが。

対比するように並べ置くのは、歌集編者のひとつの業(技)。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百八)(四百九)(四百十)

2015-09-22 00:05:35 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。藤原公任の歌論は『新撰髄脳』に「優れた歌の定義」として、「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし」と示されてある。

今の国文学の和歌の解釈方法は棚上げしておく。やがて、それは平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。

 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首 


         躬恒忠岑にとひはべりける             伊衡朝臣

四百八  白露はうへよりおくをいかなれば はぎのした葉のまづもみづらん

躬恒と忠岑に問うた               (伊衡朝臣・藤原伊衡・父は藤原敏行)

(白露は上より降りるのに、どうして、萩の下葉が先ず黄葉するのだろうか……白つゆは、上より降りる、を・おとこ、どうして、端木の下端が、先に飽きの色になるのだろう)

 

言の戯れと言の心

「白露…白つゆ…おとこ白つゆ」「おく…置く…(露霜が)降りる」「を…のに…お…おとこ」「はぎ…萩…秋の草花…端木と聞き、飽きに白い花を咲かせるので、おとこ。すすき(薄・おばな・すす木)と同じ」「した葉…下の葉…下端…おとこ」[端…身の端…おとこ]「もみづ…紅葉・黄葉となる…飽き色と成る…色情が衰える」「らん…原因理由を推量する意を表す…(どうして秋の色に)成っているのだろう」

 

 

こたふ                      みつね

四百九  さおしかのしがらみふする萩なれば したはやうへに成りかへるらん

答える                     (凡河内躬恒・古今和歌集の撰者)

(さ牡鹿の、足・からみついて、伏せる萩なので、下葉、上に成り代わったのでしょうか……さ男肢下が、つまに・しがみついて伏す端木、飽きに・成れば、下のつまは、上にとなり代わっているのでしょうか)

 

言の戯れと言の心

「さおしか…さ牡鹿…さお肢下…おとこ」「しがらみ…し絡らみ…からみつく」「した…下…体位が下」「上…体位が上」

 

 

(こたふ)                    ただみね

四百十  秋はぎはまづさすはよりうつろふを 露のわくとは思はざらなん

(答える)                   (壬生忠岑・古今和歌集の撰者)

(秋萩は、先ずさし出る葉より衰え色変わるので、露が分別していると思はないでほしい……飽きの端木は、先に、さし入れる端より、色衰え果てるので、白つゆが分けへだてするとは思わないでほしい)

 

言の戯れと言の心

「秋…飽き…厭き」「はぎ…萩…秋の草花…(端木と聞き)おとこ。すすき(薄・おばな・すす木)と同じ」「草…言の心は女」「木…言の心は男」「まづ…先ず…先に」「さす…さし出る…さし込む」「は…葉…端…身の端」「うつろふ…移ろう…色衰える…色褪せる」「露…白つゆ…おとこ白つゆ」「わく…分ける…分別する…差別する…分けへだてする」「ざら…ず…打消しの意を表す」「なん…なむ…強く望む意を表す」


 

これらの歌の清げな姿は、歌による、たわいない「なぞなぞ」問答である。

それぞれ、おとなの「心におかしきところ」が有る。それを楽しんでいる。

千年隔てられた我々も、言の戯れと言の心を心得れば、「にやり」と微笑むことはできるはずである。

 

「あき・はぎ・は・つゆ」という言葉が、「秋・萩・葉・露」と言う漢字で示される意味にしか聞かない今の国文学の和歌解釈は、「歌の言葉は浮言綺語の戯れに似ている」という平安時代の解釈と、大きく相違している。その間違えた俎上で、和歌を分析しても得られるのは、和歌のほんとうの意味を包んでいる清げな衣の、ひだ、しわ、模様である。それを、掛詞、縁語、序詞などと名付けたのである。これらは、和歌の「心におかしきところ」を知るには全く無力である。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。

 


帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百六)(四百七)

2015-09-21 00:10:08 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

         (題不知)                      (読人不知)

四百六  いたづらにおいぬべらなりおほあらきの もりのしたなる草葉ならねど

         (題しらず)  (よみ人しらず・男の歌として聞く・拾遺集では躬恒)

(むだにむなしく老いてしまいそうだ、大荒木の森の下の草葉ではないけれど・駒にも喰われず……役にも立たず感極まってしまいそうだ、大いに荒れたおとこの盛りの、下のおんな、頂天に・成れないのに)

 

言の戯れと言の心

「いたづらに…むなしく…はかなく…役立たず」「おいぬ…老いてしう…極まってしまう…感極まり果ててしまう」「ぬ…完了した意を表す」「べらなり…しそうだ…のようすだ」「おほあらきのもり…大荒木の森…森の名…名は戯れる。大いに荒れた男木の盛り、大いに荒れたおとこの盛り」「木…言の心は男」「したなる草葉…駒もすさめぬ下草…馬も賞味しない草…(こまも)食わない女」「草…言の心は女」「葉…端…はしくれ…身の端」「ならねど…ではないけれど…成らねど…京(感の極み)に成らないのに」

 

拾遺抄の歌の第五句は「草にはあらねど」となっている。字余りなので、「草葉ならねど」と聞いたが、第三句「おほあらきの」も字余りなのに、歳老いて数もわからぬ、しどろもどろな感じを出すためかも。

 

歌の清げな姿は、男の老いの嘆き。

心におかしきところは、はかなくもむなしい、おとこのさがの嘆き。

 

古今和歌集巻第十七、雑上の「下草」の歌を聞きましょう。題しらず、よみ人しらず。

おおあらきのもりのしたくさおいぬれば こまもすさめずかる人もなし

(大荒木の森の下草、老いてしまったので、駒も賞味せず、刈る人も居ない……おおいに荒れたおとこの盛りの、下の女、感極まったので、わが・股間も、賞味しない、かりして、めとる男もいないし)

「こま…駒…股間…おとこ・おんな」「ま…間…言の心は女」「すさめず…賞味しない…喜んで喰わない…嫌う」「かる…刈る…狩る…猟する…あさる…めとる」

 歌は、女の老いの嘆きと思いきや。それだけではない「心におかしきところ」がある、おんなの感の極みの果てのありさま。

 

 

(題不知)                    (読人不知)

四百七  あひ見ずてひとひも君にならはねば たなばたよりも我ぞまされる

        (題しらず)     (よみ人しらず・拾遺集では貫之の躬恒への返歌・ここでは戯れて女の立場で詠んだ歌として聞く)

(逢えなくて、一日でさえも君に親しく馴染めないと、七夕星よりも、我ぞ、待ち遠しさ・増さるよ……合えなくて、一日でも君に親しく馴染めないと、織姫星より、わたしが、合いたさ増さる)

 

言の戯れと言の心

「あひ…相…逢い…合い」「見ず…対面せず…お目にかからず…まぐあわず」「見…覯…媾」「ならはね…ならはぬ…親しまない…馴染まない…むつましくしない」「たなばた…七夕星…一年に一度しか逢えない両星…七夕姫」「まさる…増さる…勝る…逢いたさ増さる…合いたさまさる」

 

歌の清げな姿は、歌についての思いを同じくする同志の友情。

心におかしきところは、また一人、織姫を恋におとしたな、色男め。

 

『拾遺集』では、七夕後朝(八日の朝)躬恒より寄こした歌の返事に、貫之が詠んだ歌。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(以下再掲載)

 

江戸時代の国学から始まる国文学の古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。そのことにさえ気付かない程。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。


帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百四)(四百五)

2015-09-19 00:09:00 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

坂上郎女につかはしける         大伴たむらの御女

四百四  ふるさとのならしのおかの郭公  ことづてやりきいかにつげきや

坂上郎女に遣わした  (大伴田村の御女・姉の大伴田村大嬢)

(古里の奈良しの丘のほととぎす、わたしが・伝言して遣ったのよ、何て告げたかなあ・かつ恋うと鳴いた?……振るさ門の寧楽思の山ばの、かつ恋う妹よ、彼に・言伝えたの? 何て告げたのよ)

 

言の戯れと言の心

「ふるさと…古郷…ふる里」「里…言の心は女…さ門…おんな」「ふるさとのならしのおか…古郷之奈良思乃岳(万葉集巻第八夏相聞の表記)…坂上…寧楽を思う山ば」「郭公…鳥の名…鳥の言の心は女…名は戯れる。且つこう、(別れた後)すぐに恋しい、もうまた恋しい、一方ならず恋しい」「こう…恋う…乞う…求める」

 

歌の清げな姿は、わたしが告げさせたの・かつ恋うと鳴いたでしょう、帰った後すぐに恋しくなったので。

心におかしきところは、ならしの山ばの且つ恋う妹よ、彼に・告げたか、何と告げたの。


 

「相聞」は、ほんとうの心根を聞かせ聞きあうこと。当然の生な心は言葉の綾模様に包んである。それが「相聞歌」である。清少納言は言う「包ま(慎ま)なくてもいいならば、千の歌であろうと、今からでも、詠んでみせますわ(枕草子九十五)」。

 

 

題不知                      読人不知

四百五  あしひきのやまほととぎすさとなれて たそがれどきになのりすらしも

         題しらず                    (よみ人しらず・男の歌として聞く)

(あしひきの山ほととぎす、出てきた・里に慣れて、たそがれ時に、かつ恋うと・名を告げているらしい……あの山ばの女、さ門慣れして、おとこの・たそがれ時に、且つ乞うと・告げているらしいなあ)

 

言の戯れと言の心

「あしひきの…枕詞」「やま…山…山ば」「ほととぎす…鳥の名…鳥の言の心は女」「さと…里…さ門…おんな」「たそがれどき…夕暮れ時…彼が訪れる夕方…ものの果て方」「な…名…ほととぎす…ほと伽す…郭公…且つ乞う」「らし…確信ある推定の意を表す」「も…感動・感嘆・詠嘆を表す」

 

歌の清げな姿は、夏も深まり、ほととぎすが馴れ馴れしく鳴いている。

心におかしきところは、あの・山ばの妻よ、あれが・涸れそうになると、且つ乞うと名のりするにちがいないなあ。


 

この歌の作者、拾遺集では、大中臣輔親(三代、伊勢神宮祭主・父は能宣・祖父は頼基)となっている。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(以下再掲載)


 江戸時代の国学から始まる国文学の古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。