帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの平中物語(二)また、この男の懲りずまに ・その一

2013-10-12 00:09:56 | 古典

    



               帯とけの平中物語



 「平中物語」は、平中と呼ばれた男の詠んだ古今集には載せられなかった和歌を中心にして、その生きざまが語られてある。平中は、平貞文のあだ名で、在中将(業平)に次ぐ「色好みける人」という意味も孕んでいる。古今和歌集の編者の貫之や躬恒とほぼ同世代の人である。

和歌は、仮名序にいう「歌の様を知り、言の心を心得える人」には、わかるおかしさがある。今の人々にもおかしさを感じらように紐解きながら、色好みな歌と物語の帯を解いてゆく。「歌の様」や「言の心」については、理屈より慣れることで、おいおいわかる。

 


 平中物語(二)また、この男の懲りずまに・その一


 また、この男が、こりずまに(懲りもせずに・女を憎からず思う心やまぬままに)、いひみいはずみある人(言い交わしたり交わさなかったりする人……言葉を交わし情けは交わさぬ女)がいたのだった。その人は、この男を憎しとは思っていなかったものの、色よい・返事もしなかったので、「この奉る文を見てくださったならば、色よい・返事を頂かなくても、ただ、見つ(見た)とだけ、おっしゃってください」と言って遣ったのだった。そしたら、女、「みづ」とだ返事をやった。男もやる、

夏の日にもゆるわが身のわびしさに みづにひとりのねをのみぞ泣く

(夏の日に燃える我が身の辛くてやりきれない時に、貴女を・見ずに、独り声をあげて泣いています……撫づの火に燃える我が身の辛くてやりきれない時に、返事の・見ずに、独りの根をの身ぞ、泣く)。

 

言の戯れと言の心

「なつ…夏…なづ…撫づ…愛しいと思う」「日…火…恋の炎」「みつ…見つ…見た…みづ…見ず…見ない…まぐあわない」「ね…音…声…根…おとこ」「を…おとこ」「のみ…だけ…限定する意を表す…の身」。

 

また、女の・返事、

いたづらに溜まる涙の水しあらば これして消てとみすべきものを

(無用に溜まる涙の水があるので、これで暑さ消しておしまいと、水と書いて見せてもいいでしょうに・何を泣いてるの……君に・無用に溜まる、おとこ涙の水があるならば、これして消せども・消えないと、見するべきでしょうに・できないのね)。


言の戯れと言の心

「消て…消せ(命令形)…消せども(已然形)」「みす…見せる」「見…覯…媾…まぐあい」「べき…当然・適当などの意を表す」「ものを…なので…なのに」。

 

このように、言い交わしながら、日時は経ったけれど、あふことは(逢うことは……合うことは)、とても困難であったので、男、

なげきをぞこりわびぬべきあふごなき わがかたききて持ちしわぶれば

 (投木・薪をですね、伐りだしづらいでしょう、荷い棒の無い、我が肩きつくて持ちづらくては……嘆きおとこがですよ、凝りては辛いでしょう、合う機会もなくて、我が堅、利きて、持つのさえ困難なので・何とかしてください)。


言の戯れと言の心

「なげ木…薪…嘆き…ため息…かなしみ…嘆願」「木…男」「を…おとこ」「こる…伐る…伐り出す…懲りる…失敗を反省して再びしないと思う…凝る…固くこりこりする」「あふご…にない棒…逢う期…あう機会」「あふ…逢う…合う…まぐあう」「かたきき…肩効き…肩にこたえて…堅利く…堅く役立つ」。


 女、返し、

たれによりこるなげきをかうちつけに 荷なひもしらぬわれにおほする

(誰によって伐り出す薪なのか、突然に、荷ない方も知らないわたくしに、負わせるのは……誰の所為で、懲りて・凝固してる嘆きおとこなのよ、だしぬけに、引き受け方も知らないわたくしに、身に・負わせるのは)。


言の戯れと言の心

「になひ…荷ない…担い…負担」「おほする…負わせる…責任を負わせる…身に受けさせる」。


 このように言う間に、秋になったのだった。(つづく)

 

十八歳ぐらいの若者と、その憧れの年上の女の人との、裏も表もある言葉のやり取りと読める。表の清げな意味から歌の心情を臆測しているだけではわからない、「心におかしきところ」が、歌にはある。そのきわどさをも楽しむ。

それに、この女人は誰であろうか、ほんとうに逢い合えば、男は都には居れないことになるかも。その危うさは、若者は知っていたであろう。なるようになれという心境だったか、懲りない男、さてどうなることか。




  原
文は、小学館 日本古典文学全集平中物語による。歌の漢字かな表記は必ずしも同じではない。



 以下は、物語と歌を読むための参考に記す。


 仮名序で紀貫之の言う「歌の様(
和歌の表現様式)」については、藤原公任に学べばいい。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあるとわかる。これが「歌の様」である。

 

「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それを一つ一つ心得ていけばいいのである。

 

歌も物語も、今では「色好み」な部分がすべて消えて、清げな姿しか見せていない。その原因は色々あるけれども、一つは、鎌倉時代に和歌が秘伝となって埋もれたことにある。古今伝授として秘密裏に継承されたがそれも消えてしまった。秘伝など論理的に解明することなど不可能であるから見捨てて、原点の貫之・公任の歌論に帰るのである。

また、あたらしい解釈の方法を作り出して、和歌を理解しょうとしてはならない。歌のここまでは序詞、これとこれは掛詞、あれとこれは縁語などと指摘しても、解釈にはならない。歌のおかしさは見えない。清少納言や紫式部が古今集の歌を、ほんとうに、そのようにして聞いていたと思うのか。