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帯とけの平中物語
「平中物語」は、平中と呼ばれた男の詠んだ古今集には載せられなかった和歌を中心にして、その生きざまが語られてある。平中は、平貞文のあだ名で、在中将(業平)に次ぐ「色好みける人」という意味も孕んでいる。古今和歌集の編者の貫之や躬恒とほぼ同世代の人である。
和歌は、仮名序にいう「歌の様を知り、言の心を心得える人」には、わかるおかしさがある。今の人々にも、そのおかしさを感じてもらえるように紐解きながら、色好みな歌と物語の帯を解いてゆく。「歌の様」や「言の心」については、理屈より慣れることで、おいおいわかる。
平中物語(九)また、この男、おとぎきに聞きならしつつ・(その二)
されば(それで……話を聞きましょうと女が言ったので)、男、急いで来たので話などしてその夜は、よそよそしく帰ったのだった。朝に、女の許より、
吹く風になびく草葉とわれは思ふ 夜半におく露退きもかれずな
(吹く風になびく草葉と一緒だと、わたくしは・自分を・思う、夜の半ばにおく露、退きも涸れもしないでね……君の心に・吹く風になびく草の端くれと、わたしは自分を思う、夜の半ばに少しでも退いたり、白つゆ涸れたりしないでね)。
言の戯れと言の心
「風…心に吹く風…ここは春風か」「草…ぬえ草のめ・若草の妻と表現された大昔から草の言の心は女」「は…葉…端」「と…と共…と一緒」「夜半…暁ではない時…春は曙では未だない時…中途半端な時」「露…ほんの少し…おとこ白つゆ」「かれ…枯れ…離れ…涸れ」「ず…打消しの意を表す」「な…禁止する意を表す…自己の願望を表す…汝…ねえあなた…親しきものの代名詞」。
かかれば(こうであったので……こんな歌だったので)、「とっても口惜しい、ちぎられぬること(契り結んでしまえたことよ……女に契らされてしまったことよ」と言って、男、返し、
深山なる松はかわらじ風下の 草葉と名のるきみはかるとも
(深山の松は・風が吹いても常に・変わらない、風下の草葉と名のる貴女は枯れようとも……深く高き山ばの女は常に色変わらない、そこへ送り届けよう・風下の草葉と名のる貴女は声が嗄れても・我は涸れ尽きても)。
言の戯れと言の心
「山…山ば」「松…待つ…女」「風…心風」「草…女」「は…葉…端…身の端」「かる…枯れる…涸れる…嗄れる」。
そうして、夕暮れに来たのだった。夜、明けたので帰った。かの女の親族、男を見つけたのだった。そして、「おのがめに、これよりいでていぬるは(自分の目で、ここより出て帰ったのは・見たぞ……おのれのめに、めより出でて去ったのは・覯したな」、女、「しらず(知らないわ……知らない心地だった)、よにあらじ(全然ありもしないことよ……この世のことではないような)」、「よし、こうなったからには、この出て行った男に問おう・我が娘をどうするおつもりかと」と言ったのだった。そうであったので、女・「母親が・其処に行って問うでしょうきっと、今朝、お出になられたのを見たことよ、もし問えば、このように応えてね」ということで、言った、
ちはやぶる神てふ神もしらるらむ 風の音にもまだ知らずてへ
(千早ぶる神という神が御承知でしょう、そんな人・噂にも未だ聞いたことない、と言って……血はやぶる女という女は御承知でしょう、娘さんは・風の便りにも未だ・そんなこと・知らない、と言って)。
言の戯れと言の心
「め…目…女」。
歌「ちはやぶる…神の枕詞…千早ぶる、血早振る(血気お盛ん)、血は破る(業平の歌、ちはやぶる神世も聞かずたつたかは、の場合はこれ)」「かみ…神…女…天照大御神の始めから女神がこの国の母である、岩戸にお隠れになると、この国は闇となることは万人が経験した。神という言葉が女という意味を孕んでいても何の不審もない」。
と遣った返り事、
白川のしらじともいはじ底清み 流れてよよにすまむと思へば
(白川の、しらじらしく知らないと、嘘は・言わないでしょう、底清く流れて、心澄んで・世々に暮らそうと思うので……白く染まった女が、それ知らないとは言わないでしょう、貴女は・心清らかなので、流れて夜々に住もうと思うので・妻としたい)。
言の戯れと言の心
「白…しらじらしい…おとこのものの色」「川…女」「すまむ…澄もう…心澄もう…住もう…妻としよう」。
とだ、あったのだった。(つづく)
原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。歌の漢字かな表記は必ずしも同じではない。
以下は、平安時代の物語と歌を読むための参考に記す。
仮名序で紀貫之の言う「歌の様(和歌の表現様式)」については、藤原公任に学べばいい。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあるとわかる。これが「歌の様」である。
「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それを一つ一つ心得ていけばいいのである。