帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの平中物語(一)今は昔、男二人して女一人を ・その二

2013-10-10 00:02:33 | 古典

    



               帯とけの平中物語



 「平中物語」は、平中と呼ばれた男の詠んだ古今集には載せられなかった和歌を中心にして、その生きざまが語られてある。平中は、平貞文のあだ名で、在中将(業平)に次ぐ「色好みける人」という意味も孕んでいる。古今和歌集の編者の貫之や躬恒とほぼ同世代の人である。

この物語は、今では一般には、ほとんど知られていない。その原因は色々あるけれども、国文学の助けを借りて現代語にして読むと、面白くないからである。登場人物の心情を伝える和歌が、国文学的解釈では、清げな姿しか見えず、「色好み」な部分がすべて消えるためである。

和歌は、古今集仮名序にいう「歌の様を知り、言の心を心得える人」には、わかるおかしさがある。それを今の人々にも感じらように紐解きながら、色好みな歌と物語の帯を解いてゆく。「歌の様」や「言の心」については、理屈より慣れることで、おいおいわかる。


 

平中物語(一)今は昔、男二人して女一人をよばひけり ・その二 
 
 
この男(官職を取り上げたられ、女にも飽きられた平中)の友達が、この男の家に・集まって来て、言葉で慰めたりしたので、酒飲ませていた間に、宵になったので、少しばかり、けぢかき遊びなどして(身近な楽器を奏でたりして)、

身のうみの思ひなぐ間はこよひかな うらに立つ波うち忘れつつ

(わが身の憂みの思いが凪になっている間は、今宵だなあ、心に立つ波を忘れながら……みの海のように深い思いが、凪ぐ間は今宵だなあ、女に立つ汝身、うち見捨て、筒)。


言の戯れと言の心

 「み…身…見…覯…媾…まぐあい」「うみ…海…女…深い…憂み…憂身…憂見」「うら…浦…女…心」「なみ…波…心波…汝身…わがおとこ」「わすれ…忘れ…見捨て…うち尽きてしまって見を捨てる」「つつ…反復・継続の意を表す…筒…おとこ中空…心も身も空しい」。

 

とあり(と平中の歌があり)、これを、あはれがりて(感心して……可哀そうになって)、友達は・遊びあかしける(管絃を奏でたりして夜を明かした……音楽で慰め夜を明かしたのだった)。

そして、次の夜の、(大空の月……月人壮士)、世にも珍しく趣があったので、よろずの感慨を催して、縁側に出て座って、独り・空を眺めていた間に、夜が更けゆくので、風はいと心細く吹きて(秋風はとっても寂しく吹いて……心風はとってももの寂しく吹いて)、苦しく感じたので、もののゆゑ(こうなった経緯……ものの情趣)知る友達のもとに、あいつも・寝ないで月を見ているだろうと思って、いひやる(言い遣る……歌を詠んで家の使用人に持って行かせる)。

なげきつつ空なる月をながむれば なみだぞ天の川とながるる

(嘆きながら大空の月を眺めていれば、涙がよ、天の川となって流れる……嘆き筒、中空のささらえおとこを、眺めれば、なだみぞ、乳白色の・天の川となって流れ、汝涸れる)。


言の戯れと言の心

「つつ…継続を表す…筒…中空…むなしい」「月…月人壮士…ささらえをとこ…立派なおとこ」「ながるる…流れる…汝涸れる」「な…汝…親しきもの…わがおとこ」。

 

そうして、また別の友達が来たのだった。世間話などしていう、「きのせ川きのふのふちぞ、という言(歌)をだ、誰も・知ることはできない。そのように、この度、司(官職)を取りあげられたことをだ、何の罪でだと、知り得ないので、このきのせかはになむ(子の木の背かはになむ……おとこが木のように堅い背骨あるとかいう・君の所にだ)来たのよ」と言って、来た人、このように、

 世の中の淵瀬の心いままでに きのせ川をぞ知らず経にける

(世の中が淵瀬のように無常であるという心は、今までに・知っていた、きのせ川なんて、知らずに暮らしていたことよ・わけのわからいことがあったなあ……男と女の仲が、淵瀬のように心移ろうことは今までに・知っていた、あの女を得た君のものは・木の背かは、今まで知らなかったなあ)。


言の戯れと言の心

「世の中…男女の仲」「の…比喩を表す…主語を示す」「きのせかは…いたずらに付けた川の名…あすか川なら無常の象徴として誰でも知っている…木の背かは…木のおとこなのか…常に堅く強い背の君なのか」「かは…川…なのか…疑問を表す」。


 返し、

きのせ川われも淵瀬を知らねばぞ わたるとやがて底に沈める

(きのせ川なんて、我も淵瀬を知らないからね、渡るとたちまち川底に沈んでしまった……いやあ、よくしらない女よ、われも深み浅みを知らないからな、ゆき通っているとたちまち、生涯の・どん底に沈んでしまったよ)。


言の戯れと言の心

「きのせ…意味不明・わからない・知らない、木の背」「かは…川…女」「やがて…すぐに…ただちに」。


 こうしているうちに、冬になったので、いとつれづれに世の中のうらめしきこと(全くすることも無く退屈で、世の中の・男女の仲の、恨めしいこと)ばかり思うので、苦しいのに、仏道修行は、親に・許されない。(つづく)


 

文は、小学館 日本古典文学全集平中物語による。歌の漢字かな表記は必ずしも同じではない。



 以下は、物語と歌を読むための参考に記す。


 仮名序で紀貫之の言う「歌の様(
和歌の表現様式)」については、藤原公任に学べばいい。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べた。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてある。これが「歌の様」である。


 「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それをただ心得ていけばいいのである。