帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 二月十日・十一日(障ることありて)

2013-02-20 00:01:02 | 古典

    



                         帯とけの土佐日記


 土佐日記 二月十日・十一日(障ることありて)

 
十日。さし障る事があって上らない。

 
十一日。雨が少しばかり降って止んだ。かくて(こうして…水嵩少し増して)、上ってゆくときに、ひむがしのかたにやまのよこほれるを(東の方に山が横たわっているのを…嬪が肢の方に山ばが横になっているお)見て、「やはたのみや(八幡の宮…八果ての身や)」という。これを聞いて喜んで、ひとびとおがみたてまつる(人々拝み奉る…女たちおが身立てまつる)。

山崎の橋が見える。嬉しいこと限りなし。ここで、相応寺の辺りで、しばらく船を停めて、何かと定めておくことがある。

この寺の岸の辺に、やなぎ(柳)が多くある。或る人、この柳の影が、川の底に映っているのを見て詠んだ歌、

さざれなみよするあやをばあおやぎの かげのいとしておるかとぞみる

(細れ波の寄せる綾模様をば、青柳が影の糸で織っているのかと思える……さざれ汝身、心に寄せる喜びの色模様をば、吾おやぎが陰の細枝で折り成すのかと見る)。

 
言の戯れと言の心

「ひむがしの方…東の方…嬪が肢の方」「やまのよこほれる…山が横になっている…やまばがまどろんでいる…やまばが横になっている」「やはたのみや…八幡の宮…石清水八幡宮…八果たの身や…多く果てた男の身や」「み…身…見…まぐあい」「ひとびと…人々…女たち」「おがみたてまつる…拝み奉る…男神たてまつる…男が身立てまつる」。

「なみ…波…汝身…並み…おとこ」「柳…男木…梅も桜も柳もこきまぜて木の言の心は男」「川…女」「影…陰…かくれたところ」「あや…綾…波紋の綾模様…彩…色模様」「あおやぎ…青柳…青年男子…吾お八気…わがおとこの多情」「おる…織る…折る…挫折する…はてる」「見…覯…まぐあい」。

 

古今集 春歌上の柳の歌を聞きましょう。

 青柳の糸撚りかくる春しもぞ 乱れて花のほころびにける   貫 之

 (青柳が細枝の糸に撚りをかける春だからこそ、乱れて花が綻び咲いたことよ……若者が井門に寄りかかる、青春だからこそ、みだれておとこ花がほころぶのだなあ)。

 「いと…糸…細枝…井と…女」「い…井…女」「と…門…女」「より…撚り…寄り」「春…季節の春…情の春…青春」「花…木の花…男花…おとこ花」「ける…けり…気付き・詠嘆などの意を表す」。

 

 浅緑糸よりかけて白露を 珠にも貫ける春の柳か       素性法師

(浅緑の糸に撚りをかけて、白露を真珠のようにも貫いた、春の柳だなあ……浅緑の細い身の枝、よれよれになって、白つゆを白玉のようにも貫いた青春の男だなあ)。

 「よりかけて…撚り掛けて…より欠けて…よれよれになって」「白露…白つゆ…おとこ白つゆ」「か…感動・詠嘆などの意を表す」。

 

これらの歌でも、柳が同じ意味に戯れていることを知れば、柳の「言の心」を男だと心得ることが出来る。貫之のいう「言の心」は、この文脈に於いて通用していた言の意味である。心得ると、藤原公任のいう「心におかしきところ」が聞こえる。


 伝授 清原のおうな
 聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系 土佐日記による。


帯とけの土佐日記 二月九日(心もとなさに)

2013-02-19 01:36:53 | 古典

    



                          帯とけの土佐日記


 土佐日記 二月九日(心もとなさに)

 
九日。不安で、じれったいので、未明に船を綱で曳いてのぼるけれども、川の水がないので、座って進むよう。この間に、わだのとまりのあかれのところ(和田の泊のあかれ…所の名)という所があって、よね(米)、いを(魚)などを乞うので与えてやった。こうして船を曳きのぼるときに、なぎさの院(渚の院)という所を見ながら行く。その院、昔を思いやって見れば、おもしろいところだったのである。しりへ(後方)の丘には、まつのきどもあり(松の木々があり…女たちがいて)。なかのには(中の庭)には、うめのはな(梅の花…男花)が咲いていた。そこで人々の言うことは、「これ、むかし名高かったところである。故惟喬親王のお供で、在原の業平の中将が、
 よのなかにたえてさくらのさかざらば はるのこころはのどけからまし(世の中に絶えて桜が咲かないならば、春の心は長閑でしょうね……夜の仲に耐えて、さくらが・おとこ花が、咲かなければ、春の情はのどかだろうなあ)という歌を詠んだ所だったのだ。今、けふあるひと(今日或る人…興ある人)、ところに相応しい歌を詠んだ。

ちよへたるまつにはあれどいにしへの こゑのさむさはかはらざりけり

(千代経た松ではあるけれど、昔の松風の音のさむざむとした感じは変わっていないことよ……千夜経て待つ女だけれど、むかしの小枝の冷ややかさは今も変わらないことよ)。

 また、あるひと(ある人…或る女)が詠んだ、

きみこひてよをふるやどのうめのはな むかしのかにぞなほにほひける

(君を恋いして世を経る宿の、梅の花、昔の香になおも匂っていたことよ……業平の君を恋しがって夜を経るやどの、おとこ花、むかしの色香になおも匂っていたことよ)、

と言いながら、都の近づくのを喜びながら上る。

 

言の戯れと言の心

 「わだのとまりのあかれ…所の名は戯れる。和多の泊の別れ、和合多数の女との朝の別れ、遊び女の集まるところ」「よ根・いを…言の心はおとこ」「渚の院…離宮の名…女のいん」「なぎさ…汀…浜…言の心は女」「ゐん…院…やど…陰…女」「しりへ…後ろ辺…尻辺」「松…待つ…女」「なかのには…中庭…ものごとの行われるところ…おんな」「うめのはな…梅の花…木の花…男花…おとこ花」「世…夜」「中…仲…男女の仲」「絶え…耐え」「桜…男花…おとこ花」「さかざれば…咲かざれば…放かざれば…離かざれば」「春…季節の春…心の春…春情」。

「けふ…今日…きょう…興…興味」「まつ…女…待つ」「声…音…小枝…身の枝…おとこ」「さむさ…寒さ…冷やかさ…待つ心細さ」「君…業平の君」「世…夜」「やど…宿…女」「梅の花…男花…おとこ花…業平の君」「か…香…色香…萎める花の色なくて匂ひ残れるが如し(古今集仮名序)というほどの業平の君とその歌の色香」。


 
こうして上る人々の中には、京より下ったときに、皆に子供がいるのではなかった。行った国で子を産んだ人たちもいた。その人たちみな、船の停泊する所で、子を抱いて乗り降りする。これを見て、むかしのこのはゝ(故人となった児の母…以前の武樫のこの君の女)、悲しくて堪えられずに、

なかりしもありつゝかへるひとのこを ありしもなくてくるがゝなしさ

(居なかった人も生れて帰る人の子よ、居たのに亡くして帰り来ることの悲しさ……なくなっても在りつつ反るひとの子の君よ、在ったものも果てて、さぐるかなしさ)、

と言って泣いたのだった。ちち(父…この君の親)もこれを聞いて如何でしょうか。かうやうのこともうたも(このような戯れ言も歌も)、好んでこの世の中にあるのではないでしょう。唐でもこの国でも、おもふことにたへぬときのわざとか(心に思う諸々のことに耐えられなくなったときの人の業であるとか)。今宵、鵜殿に泊まる。

 

言の戯れと言の心

 「むかしのこのはは…故女児の母…以前は健在だった子の君のはば」「あり…有り…所有している…在り…存在している」「つつ…継続の意などを表わす…していて」「かへる…帰る…返る…くりかえす…反る…そりかえる」「ひとのこ…他人の児…男の子の君」「なくて…亡くして…無くして」「くる…来る…帰り来る…暮る…ことが果てる…繰る…たぐる…さぐる」「かなしさ…悲しさ…哀しさ…せつなさ…くやしさ…愛しさ」「ちち…父…男…男性」「こと…事…事柄…児を亡くした母の悲しみ…言…このように戯れる言葉」「わざ…業…ごう…人間の行い…技…術…文芸の術…思いを見るもの聞くものに付けて言い出す芸」。

 


 このような歌は、「思う事に耐えられなくなった時のわざであるとか」というのは、古今集仮名序冒頭のやまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中に在る人、こと、わざ、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものに付けて、言い出せるものなりと同じ主旨。


 伝授 清原のおうな
 聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)


 原文は青谿書屋本を底本とする新 日本古典文学体系 土佐日記による。


帯とけの土佐日記 二月八日(川上りになづみて)

2013-02-18 00:04:46 | 古典

    



                            帯とけの土佐日記


 土佐日記 二月八日(なほ川上りになづみて)

 八日。やはり、川のぼりに難渋して、鳥飼の御牧という辺に泊まる。今宵、船君、例の病が起こって、たいそう悩む。或る人、新鮮な食物を持って来た。米でお返しをする。男ども、ひそかにいふなり(秘かに言うのが聞こえる)。「いひぼしてもつゝる(飯粒でもつ釣る…飯粒ほどの物持っている)」とか。かうやうのこと(このような物々交換…このような船君の悪口)、ところどころである。せちみ(節忌の潔斎)しているので、いを不用(魚いらない…井お、不用なのよ)。


 言の戯れと言の心

「なづみて…泥みて…行き患う…難渋する」「いひぼ…飯粒…米粒ほどの物…(持ち物が)小さい…男のものを、さげすむ言葉」「して…でもって…の状態で」「もつ…物…食物…臓物…持つ」「つる…釣る…つの連体形…(きっと飯粒ほどになって)しまったに違いない」「せちみ…節忌…節日にする精進潔斎…生臭物不用の日…井お不用の日」「いを…うお…魚…井お」「い…井…おんな」「お…おとこ」「不用…いらない…つかわない」。


 悪口や辛辣な言葉、生々しい言葉は、清げに包まれて、おかしみが添えられてある。歌と同じ表現方法である。


 伝授 清原のおうな
 聞書 かき人知らず (2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新 日本古典文学体系 土佐日記による。


帯とけの土佐日記 二月七日(今日、川尻に船いりたちて)

2013-02-16 00:06:53 | 古典

    



                         帯とけの土佐日記


 土佐日記 二月七日(今日、川尻に船入りたちて)

 
七日。今日、川尻に船が入って漕ぎ上るときに、川の水、干上がっていて、思案にくれ困りはてている。船が上ることは、たいそう難しい。このようなときに、船君の病人、もとより、こちこちしき(武骨な…露骨な)人で、かうやうのこと(これまで述べて来たような歌のこと)、さらさら知らなかった。それでも、淡路の御老女の歌について愛でて、みやこほこりにもやあらん(都が誇らしいからかしら…宮こ自慢かしら)、かろうじて、あやしげな歌を捻り出した。その歌は、

きときてはかはのぼりぢのみずをあさみ ふねもわがみもなづむけふかな

(やっとやって来たところが、川上り路の水が浅くて、船もわが身も難渋する今日かな……宮こを見せようとやって来たのに、かはのぼり路の、みづ浅くて、ふ根もわが身もゆき患う京だなあ)。

 これは、病をしているので詠んだのでしょう。ひと歌では飽き足りないので、いまひとつ、

とくとおもふふねなやますはわがために みづのこゝろのあさきなりけり

(早く都へと思う船を困らせるのは、我が為に、水の心が浅かったのだ……早く京へと思う夫根悩ませるのは、我が為に、をみなの情が浅さかったのだ)。

この歌は、みやこちかくなりぬ(都が近くなった…宮こ近く成りぬ)喜びに堪えられずに、言ったのでしょう。淡路の御老女の歌に劣っている。

 「ねたき、いはざらましものを(ねたましい、言わなかったらよかったなあ)」と悔しがるうちに、夜になって寝たのだった。


 言の戯れと言の心

「こちこちしき…骨骨しき…武骨な…露骨な」「みやこ…京…宮こ…絶頂」「ほこり…誇り…自慢」「かは…川…水…女」「ぢ…路…女」「あさみ…浅いために」「浅…少ない…十分でない」「ふね…船…おとこ」「けふ…今日…京…絶頂」「みづのこころ…水の心…女の心…女の情」「ねたき…妬き…(老女の艶情の歌が)妬ましい…寝たき…(病なので)寝たい」「たき…たし…希望する意を表す」。


 
歌は清げな姿がない。歌の心は、宮こ(絶頂)へと思うものの、難渋する男の有り様の説明であり言い訳である。心におかしいとは思えない。
 
こちこちしき(露骨な)歌である。淡路の御老女の歌にさえ劣っている。このような批評だとして、妥当だと思えれば、歌が正当に聞こえているのである。


 伝授 清原のおうな
 聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系 土佐日記による。


帯とけの土佐日記 二月六日(みをつくしのもとより出でて)

2013-02-15 00:06:42 | 古典

    



                                   帯とけの土佐日記


 土佐日記 二月六日(みをつくしのもとより出でて)

 六日。みをつくし(澪標)の、もとを出て、なには難波)に着いて、かはじり(川尻…所の名…女のしり)に入る。みな人々、婆さん爺さんも、額に手を当てて喜ぶこと、ふたつなし(二つと無い…比べるもの無し)、彼の船酔いの、あはぢのしまのおほいご(淡路の島の大御…老女のあだ名)、みやこちかくなりぬ(都近くなった…宮こ近くなった)と言うのを喜んで、船底より頭をもたげて、こう言ったのだ。

いつしかといぶせかりつるなにはがた あしこぎそけてみふねきにけり

(何時だろうかと気がかりだった難波潟、葦漕ぎ分けて御船来たことよ……何時かしらと、気を揉んでいた何は方、脚こぎ退けて、身夫

根来ましたわあ)

まったく思いがけない人が言ったので、人々あやしがる。そのなかで気持ちを悪くしていた船君が、いたくめでて(たいそう愛でて…このような歌が好きで)、

 「船酔いしていらっしゃるお顔には、似合いませんなあ」と言ったのだった。

 

言の戯れと言の心

 「あわじのしまのおほいご…淡路の島の大御…淡路島のご老女…合わじの肢間のおお井ご(あだ名)」「あわじ…合わない…和合しない」「しま…肢間…女」「大…ほめ言葉ではない」「井…女」「御…尊称」「みやこ…京…宮こ…絶頂」。

 「なにはがた…難波潟…所の名…名は戯れる、何は方、あれのあたり」「葦…脚」「こぎ…漕ぎ…おし分け進み」「そけ…避け…退け」「み…身…御」「船…ふ根…夫ね…おとこ」。

 


 歌の姿は、難波潟、葦原、澪標、船の景色、清げである。歌の心は、二つと無いほどの深い喜び、添えられた情の「心におかしきところ」は、性愛にかかわる情感である。

この歌と優れた歌との違いは、性愛にかかわる情感の品の良し悪しにあるらしいけれども、どう違うか、いわく言い難いので、貫之が歌のひじり柿本人麿と同等に評価した山部赤人の歌を聞き、比べてみる。

わかのうらにしほ満ちくれば潟をなみ あしべをさしてたづなきわたる

(和歌の浦に潮満ちくれば、干潟無くなって、葦辺をさして鶴が鳴き渡ってゆく……若人のうらに、士お満ち来れば、堅お汝身、脚べをさして、たづ泣きつづける)。

 「うら…浦…女…心…裏」「しほ…潮…しお…士お…肢お」「かたをなみ…潟を無み…片お波…堅お汝身」「葦…脚」「さして…指して…差して」「たづ…鶴…鳥…女」「鳴く…泣く」「わたる…渡る…つづく」。

 この歌ならば、「玄之又玄」「絶艶之草」と言った批評になるでしょう。


 伝授 清原のおうな
 
聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)
 
 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系 土佐日記による。