帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

伊勢物語の秘儀(一)

2013-02-27 06:02:42 | 古典

    


             伊勢物語の秘儀



 和歌を中心とした古典文芸は、国学や国文学によって解き明かされてきたけれども、それは表層の意味である。『伊勢物語』『枕草子』『新撰和歌集』『金玉集』などを「帯とけの」と称して伝授聞書のかたちで、その深秘なるところを書き続けてきた。この間、聞書き人として気付いた事柄を断片的に記すことにする。


 伊勢物語や古今和歌集などの歌のほんとうの意味は、鎌倉時代になると一般には解らなくなった。歌の享受の方法や歌言葉の意味は、秘事となって、幾つかの歌の家に埋もれた。それらは、伊勢物語伝授や古今伝授と称する個人的講義(相伝)によって、秘義が口伝として伝授されることになった。和歌には、もとより字義から聞きとれるような意味だけではない秘儀に成り易い意味があったためである。絶艶、心におかしきところ、余情、下の心、秘々中の深秘などと古来から云われてきた事柄である。それらは口伝を受けても「秘すべし」といわれるままに、埋もれ木となってしまった。秘儀は今も埋もれたままである。国学も国文学もそれを明らかにはできていない。


 歌の意味が秘義となる以前に帰って、平安時代の人々は、物語や歌をどのように享受していたかということからはじめよう。

 

 

 清少納言の伊勢物語読後感

 
 「伊勢物語」を清少納言は、どのように読んでいたか、その読後感を窺える記述が枕草子(第七十八)にある。要約して示す。

 

 頭の中将藤原斎信が、あらぬ噂を聞いて恨んいた。恨まれるようなことは言っていないので、笑って聞き過ごしていたところ、出逢っても声がすると袖で顔を隠すなどして顔も見せたくないというありさま、そんな頃、「これ、頭の中将より。すぐにご返事を」と使いが文を持って来た。ひどく憎んでいるものを、如何なる文だろうと思ったが、そのうちに返事はすると、使いを帰したところ、立ち返り来て、返事をもらえないのなら、その文をすぐ取り戻せといわれたと言うので、「いせのものがたりなりや(伊勢の物語だろうか)」と思って開けて見れば、清よげに漢詩など書いてあった(予想は外れた)、心ときめきしつる(胸がどきどきしてしまった)さまにもあらざりけり(内容ではなかったのだった)。

 

「伊勢物語」は、女を侮辱し、時には罵倒することや、男女の心と身の赤裸々な有り様が描かれてある、と読んでいれば、「心ときめきしつる」はその為だとわかり、女を恨んでいる男の書きそうな「伊勢の物語なりや」と思ったのは当然と思える。しかし、国文学は「伊勢物語」を、そのように読まないので、「いせのものがたりなりや」を理解できない。伊勢物語の現在の国文学的解釈は、ほぼ正当であると誰もが思っていて、決して、国文学の伊勢物語解釈が間違っているのではないか、別の読み方をすれば清少納言と読後感を同じくできるのではないかという方向には進まない。清少納言の言う「いせのものがたり」は誤写かと疑い別の物語の事だろうとして、この場面を一件落着にしてしまう。

今では、「伊勢物語」の清げな姿しか読み取ることが出来なくなって、清少納言の読後感とは異なってしまっているために、「伊勢物語なりや」の意味も読み取れなくなったのである

 

紫式部の伊勢物語読後感


 紫式部は、「伊勢物語」にどのような印象をもっていたかを、窺い知ることの出来る場面が「源氏物語」の絵合の巻にある。
左右に別れ、絵巻物の「伊勢物語」と「正三位物語」について優劣を論じ合う場面である。


 右方の「正三位物語」は、おもしろく、賑わいがあって、内裏の周辺の近き世のことが書いてあるのは興味があって、見所が勝っている。

左方の平内侍「伊勢の海の深き心をたどらずてふりにし跡と波や消つべき。世の常のあだごとの、ひき繕ひ飾れるにおされて、業平が名をや腐すべき(伊勢物語の海のような深い心を辿らずに、古い過去のことと世の波などが消していいのでしょうか。世の常のあだごとが取り繕い飾られてある正三位物語ごときに圧倒されて、業平の名を腐していいのでしょうか)」と争いかける。

右方の典侍「雲の上に思ひのぼれる心には千尋の底も遥かにぞ見る(正三位の雲の上のような心に比べますと、伊勢の主人公の心なんて、遥か下、千尋の底、最低と思いますわ)

藤壺の宮「兵衛の大君の心高さは、げに、捨てがたけれど、在五中将の名をば、えくたさじ(正三位物語の主人公の気高さは、確かに捨て難いけれど、在五中将〈業平〉の名を貶し朽ちさせることはできません)」と仰せになって、宮、

みるめこそうらふりぬらめ年へにし 伊勢をのあまの名をや沈めむ

(海松藻こそ、寂しがるでしょう、年経た伊勢の海女が、業平の名声を沈めるのでしょうか……見る女こそ寂しいでしょう、疾しへた井背おの吾間が、汝を沈没させるのかしら)

女の言葉にて、みだりがましく争う。

 

歌の言葉(女の言葉)は戯れている。

「みるめ…海藻の名…見る女」「見る…まぐあう」「め…女」「とし…年…歳…疾し…早過ぎ」「あま…海人…海女…吾間…あが股間」「な…名…汝…親しい物のこと…おとこ」「や沈めむ…おとしめるだろうか…沈没させるだろうか」。

 

登場人物の台詞に、紫式部の伊勢物語読後感が顕われている。「伊勢物語」は、普通に女たちが下劣と貶すような物語である。それは清少納言と同じである。しかし、この世から消してしまえるような物語では無い「深い心」があるというのが、紫式部の伊勢物語読後感である。

 

清少納言や紫式部の「伊勢物語」の読後感は、今の人々が国文学の注釈や解釈で読む清げな「伊勢物語」とは別物と思えるほど異なっている。それは、伊勢物語の下の心が見えているか見えていないかの違いである。

清少納言や紫式部と同じ印象をもてるような「伊勢物語」の解釈こそ正当である。どうすれば、最低だと腐したくなり、且つ捨て難い物語だという読み方が出来るのだろうか。