帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 正月十八日(なほ、同じ所にあり)

2013-02-02 00:05:04 | 古典

    



                        帯とけの土佐日記


 土佐日記 正月十八日(なほ、同じ所にあり)

 
 十八日。やはり同じ所にいる。海が荒いので船は出さない。この泊り、遠くを見ても近くを見ても、とってもすばらしい。それでも心地が苦しいので、何の興味もわかない。男どうしは、憂さ晴らしでしょうか、からうた(唐詩)など言っているのでしょう。

船も出さずすることも無いので、あるひと(或る女)が詠んだ、

いそふりのよするいそにはとしつきを いつともわかぬゆきのみぞふる

(磯降りの寄せる磯には、年月が何時ともわからない雪ばかり降っている……汝身の泡の寄せる井そには、敏しつきの、いつともわからない白ゆきばかりがふっている)。

この歌は、つねにせぬひと(常には歌を詠まない女…常にしない女)の言葉である。また、ひと(女)が詠んだ、

かぜによるなみのいそにはうぐひすも はるもえしらぬはなのみぞさく

(風に寄る波の磯には、鶯も春もかかわりの無い花ばかり、咲いている……心に吹く風による汝身の井そには、浮く浸すも張るも感じられない白い花ばかりが、咲いている)。

この歌々を、少しよろしいと聞いて、船の長をしている翁、つきひごろのくるしき心やりに(月日ごろの苦しさを晴らすために)詠んだ、

たつなみをゆきかはなかとふくかぜぞ よせつゝひとをはかるべらなる

(立つ波を雪か花かと見せて吹く風よ、寄って来ては、人をあざむいているようだな……立つ白波を、白ゆきか、おとこ花かと思わせて吹く心の風よ、寄せつつ、女をあざむいているようだな)。

この歌々を人が何かと言うのを、或る人が聞きふけっていて詠んだようで、その歌、詠んだ文字、三十文字あまり七文字。人はみな、どうしょうもなく笑っているようである。歌主、とっても機嫌が悪くて恨み言をいう。真似ようにも真似できない。書いたとしても、確りとは読み難いでしよう。今日でさえ言い難い。まして後にはどうなるでしょう。


 言の戯れと言の心

 「いそふり…磯降り…波の白い泡…淡白なもの」「いそ…磯…岩、石、濱、渚などと共に言の心は女」「としつき…年月…敏しつき…鋭敏…疾しつき…早すぎる尽き…おとこのさが」「を…対象を示す…詠嘆・強調の意を表す」「ゆき…雪…白…逝き…おとこ白ゆき」。

 「かぜ…心に吹く風」「なみ…心の波…汝身…汝見」「うぐひす…春告げ鳥…鳥…女…憂くひす…浮く浸す」「ひ…泌…浸」「す…女」「はる…春…春情…張るもの」「えしらぬ…知ることのできない…関係をもてない…え汁らぬ…濡れることができない」

 「はな…花…おとこ花」「よす…波などが寄せる…ことよせる…みせかける」「はかる…謀る…だます…あざむく」。

 


 おとなの女たちは、心の憂さを晴らすために歌を詠んだ。憂さを投げる相手は男、おとこのはかない性を嘆く。それは清げな言葉「風、磯、波、雪、春、鶯、花」で表してある。
 
船の長の歌は、ふねがはかなくむなしいのは、心に吹く風の所為だよ、これが人をだますのだろうという。
 
他人にも伝わり、時を越えても伝わる為には、定型が重要なことも説かれてある。


 
伝授 清原のおうな
 
聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。