帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 二月九日(心もとなさに)

2013-02-19 01:36:53 | 古典

    



                          帯とけの土佐日記


 土佐日記 二月九日(心もとなさに)

 
九日。不安で、じれったいので、未明に船を綱で曳いてのぼるけれども、川の水がないので、座って進むよう。この間に、わだのとまりのあかれのところ(和田の泊のあかれ…所の名)という所があって、よね(米)、いを(魚)などを乞うので与えてやった。こうして船を曳きのぼるときに、なぎさの院(渚の院)という所を見ながら行く。その院、昔を思いやって見れば、おもしろいところだったのである。しりへ(後方)の丘には、まつのきどもあり(松の木々があり…女たちがいて)。なかのには(中の庭)には、うめのはな(梅の花…男花)が咲いていた。そこで人々の言うことは、「これ、むかし名高かったところである。故惟喬親王のお供で、在原の業平の中将が、
 よのなかにたえてさくらのさかざらば はるのこころはのどけからまし(世の中に絶えて桜が咲かないならば、春の心は長閑でしょうね……夜の仲に耐えて、さくらが・おとこ花が、咲かなければ、春の情はのどかだろうなあ)という歌を詠んだ所だったのだ。今、けふあるひと(今日或る人…興ある人)、ところに相応しい歌を詠んだ。

ちよへたるまつにはあれどいにしへの こゑのさむさはかはらざりけり

(千代経た松ではあるけれど、昔の松風の音のさむざむとした感じは変わっていないことよ……千夜経て待つ女だけれど、むかしの小枝の冷ややかさは今も変わらないことよ)。

 また、あるひと(ある人…或る女)が詠んだ、

きみこひてよをふるやどのうめのはな むかしのかにぞなほにほひける

(君を恋いして世を経る宿の、梅の花、昔の香になおも匂っていたことよ……業平の君を恋しがって夜を経るやどの、おとこ花、むかしの色香になおも匂っていたことよ)、

と言いながら、都の近づくのを喜びながら上る。

 

言の戯れと言の心

 「わだのとまりのあかれ…所の名は戯れる。和多の泊の別れ、和合多数の女との朝の別れ、遊び女の集まるところ」「よ根・いを…言の心はおとこ」「渚の院…離宮の名…女のいん」「なぎさ…汀…浜…言の心は女」「ゐん…院…やど…陰…女」「しりへ…後ろ辺…尻辺」「松…待つ…女」「なかのには…中庭…ものごとの行われるところ…おんな」「うめのはな…梅の花…木の花…男花…おとこ花」「世…夜」「中…仲…男女の仲」「絶え…耐え」「桜…男花…おとこ花」「さかざれば…咲かざれば…放かざれば…離かざれば」「春…季節の春…心の春…春情」。

「けふ…今日…きょう…興…興味」「まつ…女…待つ」「声…音…小枝…身の枝…おとこ」「さむさ…寒さ…冷やかさ…待つ心細さ」「君…業平の君」「世…夜」「やど…宿…女」「梅の花…男花…おとこ花…業平の君」「か…香…色香…萎める花の色なくて匂ひ残れるが如し(古今集仮名序)というほどの業平の君とその歌の色香」。


 
こうして上る人々の中には、京より下ったときに、皆に子供がいるのではなかった。行った国で子を産んだ人たちもいた。その人たちみな、船の停泊する所で、子を抱いて乗り降りする。これを見て、むかしのこのはゝ(故人となった児の母…以前の武樫のこの君の女)、悲しくて堪えられずに、

なかりしもありつゝかへるひとのこを ありしもなくてくるがゝなしさ

(居なかった人も生れて帰る人の子よ、居たのに亡くして帰り来ることの悲しさ……なくなっても在りつつ反るひとの子の君よ、在ったものも果てて、さぐるかなしさ)、

と言って泣いたのだった。ちち(父…この君の親)もこれを聞いて如何でしょうか。かうやうのこともうたも(このような戯れ言も歌も)、好んでこの世の中にあるのではないでしょう。唐でもこの国でも、おもふことにたへぬときのわざとか(心に思う諸々のことに耐えられなくなったときの人の業であるとか)。今宵、鵜殿に泊まる。

 

言の戯れと言の心

 「むかしのこのはは…故女児の母…以前は健在だった子の君のはば」「あり…有り…所有している…在り…存在している」「つつ…継続の意などを表わす…していて」「かへる…帰る…返る…くりかえす…反る…そりかえる」「ひとのこ…他人の児…男の子の君」「なくて…亡くして…無くして」「くる…来る…帰り来る…暮る…ことが果てる…繰る…たぐる…さぐる」「かなしさ…悲しさ…哀しさ…せつなさ…くやしさ…愛しさ」「ちち…父…男…男性」「こと…事…事柄…児を亡くした母の悲しみ…言…このように戯れる言葉」「わざ…業…ごう…人間の行い…技…術…文芸の術…思いを見るもの聞くものに付けて言い出す芸」。

 


 このような歌は、「思う事に耐えられなくなった時のわざであるとか」というのは、古今集仮名序冒頭のやまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中に在る人、こと、わざ、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものに付けて、言い出せるものなりと同じ主旨。


 伝授 清原のおうな
 聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)


 原文は青谿書屋本を底本とする新 日本古典文学体系 土佐日記による。