帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 正月十九日・廿日(日あしければ)

2013-02-04 00:13:51 | 古典

    



                         帯とけの土佐日記


 土佐日記 正月十九日・廿日(日あしければ)

 
十九日。日が悪いので、船は出さない。

 
廿日。昨日のようなので、船を出さない。みな人々、うれへなげく(憂れいて嘆く)。苦しく心細いので、ただ日の経った数を、今日で幾日、二十日、三十日と数えていると、お指も傷めてしまいそう。とっても詫びしい。夜は眠れず、はつかの二十日の…かすかな)夜の月がでた。山の端もなくて海よりでてくる。このようなのを見てか、むかし、阿倍の仲麻呂という人は、唐に渡って、帰り来るときに、船に乗るべき所にて、彼の国の人、むまのはなむけし(餞別の宴を設けて)、別れ惜しんで、彼の国の漢詩を作ったりしたのだった。飽きもしなかったのだろうか、二十日の夜の月が出るまで、そうしていたという。その月は海より出たのだった。これを見て、仲麻呂の君、「わが国では、このような歌をですね、神世より神もお詠みになられ、今は、上中下の人も、このように、別れを惜しむときや、喜びも悲しみもあるときには詠むのです」といって詠んだ歌。

あをうなはらふりさけみればかすかなる みかさのやまにいでしつきかも

(青海原ふり離れて見れば、春日の三笠の山に出でた月なのだろうかなあ……吾をうな腹ふりさけ見れば、かすかである、三かさなる山ばに出た月人をとこだなあ)。

と詠んだのだった。彼の国の人、聞いてもわからないだろうと思ったけれども、ことのこゝろ(言の心)を、をとこもじ(漢字)にして、さま(内容)を書き出し、わが国の言葉を伝え知った人に言い知らせると、こゝろ(歌の心)を聞き得たのでしょう。思う以上に愛でたのだった。唐とわが国とは、言葉は異なるけれども、つきのかげ(月の影…月の光)は同じであろうから、人の心も同じことなのだろうか。さて今、その当時を思いやって、あるひと(或る女…語り手)の詠んだ歌。

みやこにてやまのはにみしつきなれど なみよりいでゝなみにこそいれ

(都では、山の端に見た月だけれど、このたびは・波間より出でて、波間に入る……宮こでは、やまばの端に見た月ひとおとこだけれど、な身より出でて、な身にぞ、入る)。

 言の戯れと言の心
 
「はつか…二十日…月の欠け衰えるころ…わずか…かすか」「あをうなはら…青海原…吾をうな腹…わが妻の腹…古今集の歌では初句『あまのはら』…天の原…女の腹」「をうな…女…妻」「あま…天…女」「ふりさけ…ふり離れ…ふり割け…ふり分け…ふり放け」「ふり…接頭語…振り」「見…覯…媾」「かすが…春日…かすか…わずか…衰えた様子」「みかさのやま…御笠山…み重ねるやまば…三つ重ねる山ば」「つき…月…月人壮士…仲麻呂自身」「かも…疑問の意を表す…詠嘆の意を表す」。

「みやこ…京…宮こ…感の極み」「やまのは…山の端…山ばの端」「見…覯…まぐあい」「月…壮士…おとこ」「波…汝身…この吾が身」「な…汝…親しいもの…このもの」「こそ…強調する意を表す」「入れ…入る…月が沈む…中に入れる…没入する…(つき人おとこが)絶え入る」。


 語り手の仲麿歌についての感想は、み重ねたつき人おとこだけれど、そのをうなの許に絶え入ったのねということ。
 
仲麻呂は、帰国の船が難破して南方に漂着した。再び彼の国の都に帰って高官として彼の国に没したという。


 伝授 清原のおうな
 
聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。