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帯とけの土佐日記
土佐日記二月十六日夜(夜ふけてくれば)
夜が更けてくるので、所々を見物することは出来ない。京にいりたちてうれし(京に立ち入って嬉しい…宮こに立ち入ってうれしい)。我家に至って門に入ると、月が明るいのでよく有様が見える。聞いていたのよりも増して、いふかひなくぞ(言ってもしかたがないほどよ)、壊れ破れている。いへにあづけたりつるひとのこゝろもあれたるなりけり(家の管理に託していた隣人の心も荒れていたのだった)。中垣はあっても、一つの家のようだから、望んで預かったのである。それでも便り毎に物も絶えず贈り届けていた。今宵は、「このような事」と、声高にものを言わせないようにする。たいそう辛く思えるけれど、寸志はしようとする。
さて、池のように窪んで水たまりがある。辺に松もあった。五、六年のうちに千年も過ぎたのかしら、片一方は無くなっていた。いま生えたのが混じっている。大方みな荒れていたので、「あはれ(あゝあ)」と人々は言う。思い出さないこととてなく、思い出すこと懐かしく思ううちに、この家にて生まれた女児、もろともに帰らないので、どれほど悲しいか。
船に乗ってきた人もみな、子供も集まって騒いでいる。こうするうちに、なおも悲しさに絶えられずに、秘かに、こゝろしれるひと(気心知った人…夫)と言った歌、
むまれしもかへらぬものをわがやどに こまつのあるをみるがゝなしさ
(生まれた者も帰らないのに、わが家に小松のあるのを見る悲しさよ……生まれた者も帰らないのに、可愛い少女のような小松を見るせつなさよ)
と言った。なほあかずやあらむ(なお飽き足りないでしょう)、またこのように、
みしひとのまつのちとせにみましかば とほくかなしきわかれせましや
(この世で見た人を松の千歳に看護していれば、永遠の悲しい別れをするでしょうか……見し男が、まつの千年の寿命のように見ているならば、疎遠で、せつない別れをするかしらね)
忘れ難く、口惜しい事は多くあるけれども、言い尽くせない。どうであるにせよ、とくやりてむ(日記を・早く破ってしまおう…憂いを・早く晴らそう)。
言の戯れと言の心
「京…極まり至るところ…宮こ」「いへにあづけたりつるひとのこころ…家の保全に託した隣人の心」「あづずく…管理や保全をたのむ…託す」。
「こころしれるひと…気心知った人…わが夫…いつもは下劣な歌を詠む人」。
「こまつ…小松…かわいい女…少女」「松…言の心は女…待つ」「かなしさ…悲しさ…せつなさ…愛おしさ」。
「みしひと…この世に見たひと…生まれた我が子…見し人…覯し夫」「まつのちとせ…松の千歳の寿命…女の長いいのち」「見ましかば…看護していれば…和合していれば」「見る…看る…看護する…覯する…媾する…まぐあう」「とほく…遠く…疎遠な…親密で無い」「わかれ…今生の別れ…身を焼くよりもかなしきは宮こしまべの別れなりけりと『伊勢物語』の女はいうが、その宮こ近くでの別れ」。
「とくやりてむ…とく破りてむ…とく遣りてむ…早くこのような気を晴らそう」「やり…破り…遣り…心やり…うさばらし」「てむ…意志・当然などを表わす…してしまおう…するべきでしょう」。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系 土佐日記による。
聞書き人のあとがき
これより後の世に、道綱の母、清少納言、和泉式部、紫式部らは、心に思うことをものに書きつけた。其の文芸の素養は和歌の表現方法に育まれたことは確かである。貫之の「とさの日記」も、きっと影響しているでしょう。
和歌と仮名文を構成する「女の言葉」は、聞く耳によって(意味が)異なる(ほど戯れる)ものであるという清少納言の言語観で、これらの文芸は読むべきである。
さらに後の世に、歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、(その戯れに)ことの深き旨も顕れる。顕れるのは煩悩であるが、(自覚した)煩悩は即ち菩提(悟りの境地)であるという、藤原俊成の和歌観で、これらの人々の歌を聞くべきである。
後々の世の国学と国文学は、貫之や公任の歌論をないがしろにして、清少納言や俊成の言語観を無視して、この時代の言葉の、唯一の正当な意味を求めようとして数百年経った。彼らは確たる意味のある解釈に近づいているのだろうか、少なくとも論理実証的な其の方法は間違っていないと誰もが思いたくなる。しかし、対象とするこの時代の文芸は、言葉の意味の不確定性を利して、複数の意味を表したものだとしたら、国文学の歌の解釈も歌物語の解釈も、根本的に違っていることになる。
一連の帯とけと称する古典解釈の試みは、反国文学的解釈である(特に受験生諸君はご注意ください)。