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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現である。それは、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。
歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、秘伝は埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (262)
神のやしろあたりをまかりける時に、斎垣の内のもみぢ
を見てよめる 貫 之
ちはやぶる神のいがきに這ふ葛も 秋にはあへずうつろひにけり
(神の社の辺りを行った時に、斎垣の内の木々の紅葉を見て詠んだと思われる・歌……女の森の辺りを往来した時に、内のこの端が、も見じしたのを見て詠んだらしい・歌) つらゆき
(神威の強い神の、斎垣に這ふ生命力の強い葛も、秋には堪えられず、萎えてしまったことよ。……血早振る、女の井餓鬼に、這う、女草も、男の厭きには耐えられず、色情衰えたことよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「ちはやぶる…神威・霊力の強い…千早振る…勢いの強い…とっても盛んな」「神…かみ…上…髪…女」「いがき…斎垣…神聖な領域を示す垣の名…物の名は戯れる。井垣・井餓鬼・おんな」「くず…葛…蔓草…生命力の強い草…草の言の心は女…ぐす…具す…おんな…連れ添う物…おとこ」「秋…飽き色…厭き色…連れ添うものの厭き・おとこの厭き」「あへず…堪えず…耐えず…こらえきれず」「うつろひ…悪い方に変化する…衰える…なえる」「に…ぬ…完了を表す」「けり…感動を表す・詠嘆を表す」。
ちはやぶる神威の強い神の、斎垣に這ふ生命力の強い葛も、秋には堪えられず、萎えてしまったことよ。――歌の清げな姿。
血早振る、女の井餓鬼に、這う、具すも、連れ添う物の厭きには、耐えられず、色情衰えたことよ。――心におかしきところ。
色情の果て方を詠んだ歌のようである。
清少納言は、貫之のこの歌の意味のすべてを聞き取り、覚えていたようである。枕草子(268)「神は」に、次のように記す。
ひら野は、いたづら屋のありしを、なにする所ぞと問ひしに、御こしやどりといひしも、いとめでたし、い垣に、つたなど多くかかりて、もみぢの色々おほくありしも、「秋にはあへず」と、貫之が歌思ひいでられて、つくづくとひさしうこそ、たてられしか。
(平野神社は、余分な家屋があったので、何する所かと問うと、神輿宿りと言ったのも、とっても愛でたい。斎垣に葛など、とっても多く掛かって、紅葉も色々と多くあったのも、しんみりりと久しく、見つめて・留まっていた……女の・山ばのなくなったひら野は、役立たぬおとこや、あったので、何しているところよと問い詰めたら、おとこの・身興し宿り中、といったのも、最高に褒めてあげたい、井餓鬼に具すなど多く掛かって、おとこは・も見じも色々おおくあったものの、しんみりと久しく、ひら野に立っていた・のち厭きには堪えられずうつろいにけりよ)。この文章は、和歌と同じ文脈にあり、「清げな姿」に「心におかしきところ」がある。 色情の果て方を、清げな姿にして表現した文のようである。
「同じ言葉であっても、聞き耳によって、(意味の)異なるもの、それがわれわれの言葉である」と枕草子(3)にある。
「ひら野…地名または神社の名…名は戯れる。山ばではない処」「いたづらや…無駄屋…役立たずか…むなしいものや」「御こしやどり…御神輿の泊まり…お身興しの為の休息中」「いとめでたし…とっても愛でたい…無条件に最高にほめたたえたい…(その言い方)すばらしい最高だわ」「いがき…斎垣…井餓鬼…おんな」「つた…葛…蔓草…おんな」「もみぢのいろ…(背景の木々の)紅葉色…おとこのも見じの気色…おとこの厭きいろ」「つくづくと…力無くしんみりと…しみじみと…することもなく」「たてられしか…停まっていたことよ…留まっていたことよ…突っ立っていたことよ」。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)