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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
今の世に蔓延している和歌の国文学的解釈は、平安時代の歌論と言語観を全く無視したものである。「古今和歌集」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に、歌論と言語観を学んで紐解き直す。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(2)
春たちける日よめる 紀貫之
袖ひちてむすびし水のこほれるを 春立けふの風やとくらむ
(袖浸して手にすくった水が凍っていることよ、立春の今日の風はとかすだろうか……身の・端ひちて、契り・結んだ女の、こほれるさまよ、春情たちのぼる山ばの京の、心風はとかしているだろうか)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る。
「そで…袖…衣のそで…端…身のそで…おとこ・おんな」「ひち…浸る…濡れる…泥…ぬかるむ」「むすびし…掬んだ…手に掬った…結んだ…契り結んだ…情を交わした」「水…言の心は女」「こほれる…凍れる…凍っている…心に春を迎えていない…こ掘れる…まぐあっている」「を…対象を示す…感動・感嘆・詠嘆を表す」「春立つ…立春の日を迎える…春情のはじまり…張る立つ」「けふ…今日…きゃう…京…山ばの頂上…感の極み」「風…春の初風…(心に吹く)春風」「とく…溶く…融く…解く…硬くなっていた身も心もうち解ける」「らむ…推量する意を表す…想像する意を表す」。
巻頭の一首の清げな姿に追従して、同じ早春の風情を詠み添えて並べ置いた撰者の心。
歌の「清げな姿」は、袖濡れて手に掬って飲もうとした水が凍っていた、暦の立春の日は、水ぬるむ春よりも一足先に訪れた、早春の風情。
歌の「心におかしきところ」は、そでひちて、ちぎり結んだ女(おみな)は、いまだ心に春を迎えていなかった、硬かった身や心は、京の春の心風にとけるだろうか。エロチシズムの極致である。
俊成の評は「この歌、古今にとりて、心も言葉もめでたく聞こゆる歌なり」。歌を上のように聞けば、「古今の中にあって、深き心も、心におかしきところも、歌言葉の表向きの意味も共に、愛でたく聞える歌である」と読める。同感することができるだろうか。
今の人々は、おそらく、この歌の字義通りの「清げな姿」しか見えていない。歌の真髄に触れるためには、「歌の様を知り、言の心を心得る人」になる事である。併せて、言語感を同じくして、戯れの意味を知ることである。平安時代の歌は、貫之、公任、清少納言、俊成、この人々の歌論と言語観に学べばいいのである。
○紀貫之は、「歌の様」を知り「言の心」を心得る人になれば、歌が恋しくなるという。(古今集仮名序)
○藤原公任は歌の様(表現様式)を捉えている、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし」と。優れた歌には複数の意味が有る(新撰髄脳)。
○清少納言はいう、「聞き耳異なるもの、それが・われわれの言葉である」と(枕草子)。発せられた言葉の孕む多様な意味を、あれこれの意味の中から、これと決めるのは受け手の耳である。今の人々は、国文学的解釈によって、表向きの清げな意味しか聞こえなくなっている。
○藤原俊成は「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕われる」という(古来風躰抄)。顕れるのは、公任のいう「心におかしきところ」で、エロス(性愛・生の本能)である。俊成は「煩悩」と捉えた。
近世から近代、そして現代も、和歌の解釈は奇妙な袋小路に入ったままである。そこで渋滞する久しい間に、序詞、掛詞、縁語を修辞にして和歌が成立しているかのように解き、それらは、古語辞典にまで大きく根を張って、蔓延してしまった。しかし、和歌は、そんな単純な代物では無いのである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)