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帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」(百三)寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめば

2016-07-29 19:00:00 | 古典

               



                             帯とけの「伊勢物語」



  在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈に顕れるのは、歌や物語の「清げな姿」のみで「心におかしきところ」の無い味気ないものにしてしまった。


 伊勢物語
(百三)寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめば


 むかし、おとこ有けり(昔、男がいた…武樫おとこがあった)。たいそうまじめで実直で、不誠実な心はなかった。深草の帝(仁明天皇)にお仕えしていた。心あやまりやしたりけむ(心得違いでもしたのだろうか…心誤ったのだろうか)、みこたちのつかひたまひける人を(親王たちのお使いになっていた女人を…御こ立ちのつがひ給いける女を)、あひいへりけり(言葉を交わし合った…情けを交わしてしまったのだった)。さて(そうして…それからのこと)、

 ねぬる夜の夢をはかなみまどろめば  いやはかなにもなりまさるかな

 (共寝した夜の夢をはかなんで、まどろんでいると、いやあ、心細い心地にも、ますますなってゆくなあ……共寝した夜の夢をはかなんで、まどろめば、いやはや、わが武樫おとこ・貧弱にも、ますますなるなあ)なんて、詠んで女に遣った。さる歌のきたなげさよ(その歌の、恥知らずなさまよ…この歌の、萎えるおとこの・汚らしいさまよ)。

 

 

 紀貫之のいう「言の心」を心得て、枕草子に「聞き耳異なるもの」というほどの言葉の戯れを知りましょう。俊成の言うように、歌言葉の戯れの中に歌の趣旨が顕れる。

 「深草の帝…仁明天皇…業平から見れば、父阿保親王の従兄弟」みこたちのつかひたまひける人…道康親王(後の文徳帝)、時康親王(後の光孝帝)、人康親王(山科の禅師)、他の親王方の使用されている女…身こたちのつがいい給いける女…誰かはわからない、そのように書かれてある」「はかな…あわれな…むなしい…たよりない…武樫ではない」「なりまさる…ますますそうなる」「きたなげ…卑しげ…恥知らずな…汚い感じ」「かな…感嘆、詠嘆の意を表す」。

 

伊勢の斎宮を退かれた後、尼になられたという人の「親ぞく」の男と、みこのつかい給う女と過ちを犯した男とは同一でしょう。二つの章は、そのような意味を孕らんで並べられてある。

 

本来は、至福のまどろみの一時ながら、将来のことを思うと、この女に男子が生まれたならば、己と似た命運を辿るのだろうか、女子であったなら、母の告白にわが出生の秘密を知り、世をはかなみ、前斎宮と同じように、尼僧となるような生涯をおくるのだろうか、などと思っていると、さすがの武樫おとこも、ますますみすぼらしいありさまになってしまうことよ。歌は汚げなおとこの萎えた姿を彷彿させる。

 

古今和歌集の編者は、歌の並びにものをいわせる達人でしょう。この「寝ぬる夜の」歌につづいて、第(六十九)章の伊勢斎宮の「君やこし」と、業平の返歌が三首並べられてある。古今和歌集巻第十三恋歌三

 
   人にあひて朝に遣はしける                 業平朝臣

寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめば いやはかなにもなりまさるかな


 

 業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なりける人にいとみそかにあひて、

またの朝に、人やるすべなくて思ひをりける間に女のもとよりをこせたりける。

                               よみ人しらず

君や来しわれやゆきけむおもほえず ゆめかうつつかねてかさめてか

返し                           業平朝臣

かきくらす心のやみにまどひにき ゆめうつつとは世ひとさだめよ

 

男の恋心と、おとこの乞い心は、思案のほかのもの、合ってはならぬ人とも過ちを犯す。

実の娘かもしれぬ斎宮とは、ただ偶然の神さまが、この男の鬼畜となるのを阻止されたのだろう。古今集の業平の歌は、「伊勢物語」を思い出しながら聞くべきである。

 

2016・7月、旧稿を全面改定しました)