goo blog サービス終了のお知らせ 

帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (二十二) 文屋康秀 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-01-22 19:20:53 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であると言う。近代以来の短歌や国文学の和歌解釈に慣れてしまった人々には理解困難な歌論だろう。江戸の国学も近代の国文学もこれを無視して、新たなに和歌を解く方法を創り上げた。「序詞」「掛詞」「縁語」の修辞法で表現されてあったと言うのであるが、平安時代の文脈から見れば、奇妙な捉え方である。こちらの方を無視して一切触れないで、百人一首の和歌の奥義を紐解く。


 藤原定家撰「小倉百人一首」 (二十二) 文屋康秀

 
(二十二) 吹くからに秋の草木のしおるれば むべ山風をあらしといふらむ

(吹くとすぐに、秋の草木がしおれるので、なるほどそれで、山おろしの風を、荒らしと・嵐と、言うのだろう……吹くとたちまち、飽き満ちた女と男が、しおれるので、なるほどそれで、山ばの心風を、荒らしと・激しいと、言うのだろう)


 言の戯れと言の心

「からに…ので…ために…原因理由を表す…とすぐに…とたちまち…引き続いて起こる事を表す」「あき…秋…季節の秋…飽き…厭き」「草…言の心は女」「木…言の心は男」「しおる…萎える…衰える…萎びる…枝折れる…おとこ折れ伏す」「むべ…うべ…なるほど…ほんに…肯定・同意する意を表す」「山風…山おろしの風…山を越えて来る風…山ばで吹く心風…ものの峰で心に吹く風」「あらし…荒らし…激しい…嵐…粗し…粗雑…粗末」「らむ…だろう…推量の意を表す…らん…覧…嵐…乱…濫」

 

歌の清げな姿は、嵐という文字を習い覚えたばかりの純真な少年のうたのよう。

心におかしきところは、飽き足りた女と男の乱れたありさま、それで、あの山ばの峰で吹く激しい心風を、嵐・乱・濫、というらん。


 是貞親王家歌合の歌。歌の心は、山ばの激しい心風吹いた後の女と男の、萎び枝折れ乱れたありさま。それに、無邪気な言葉遊びの衣を巧みに着せた歌。

古今集仮名序の批評「文屋の康秀は、言葉は巧みにて、その様、身に負はず、言わば、あき人(商人・飽人)の、良き衣着たらむがごとし」に大きく一歩近づけるだろう。


 一首だけでは心もとないので、古今集の秋歌下に、この歌の次に並べ置かれてある文屋康秀の歌を聞きましょう。

草も木も色かはれどもわたつ海の 浪の花にぞ秋なかりける

歌の姿は略す……女も男も、色情は変わるけれども、綿津浮身の汝身の華には、飽きも・厭きもなく、かりしていることよ)


 「草…若草の妻、若菜摘むなどと用いられるのは、言の心は女であるから」「木…言の心は男、理由も原因もない、そうと心得るだけである」「色…色彩…色情」「わたつ…綿津…綿つ…綿のような」「海…言の心は女…浮身…女の身」「浪の花…汝身の華」「秋…飽き…厭き」「なかり…無くあり…無かり〔かり活用〕」「かり…刈り…狩り…猟…漁…あさり…めとり…まぐあい」「ける…けり…感嘆・詠嘆の意を表す」


 人の淫靡な営みに、大自然の悠久の営みの清げな衣を着せた歌。歌合の歌なので深い心はない。

 

平安時代の歌論や言語観を無視して、これらの歌を聞けば「言葉遊びの歌」としか見えない。そして、誰もが「くだらない歌」と思うだろう。また、古今集仮名序の「批評」が的外れで理解不能になるだろう。「言葉遊びは巧みだが、歌の内容がそれに相応しくない」と言う批評であるが、歌の内容が全く見えなくなっているのである。江戸時代に和歌の下半身は埋もれた。それに気づかぬまま数百年経ってしまった。