帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百五十五)柿本人丸 (五百五十六)読人不知

2015-12-14 23:32:18 | 古典

           



                           帯とけの拾遺抄



 「帯とけの古典文芸」に初めて訪問された方々へ


 古典和歌と歌物語を、平安時代の歌論と言語観に従って聞き直しています。江戸時代以来の国学と国文学は、
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観を曲解し無視して、平安時代にはない和歌の解き方を新たに構築しました。歌枕、序詞、掛詞、縁語などと言う言葉に象徴される方法ですが、それらを棚上げして、原点に返って和歌を解いています。

紀貫之のいう「歌の様を知り、言の心を心得る人」になれば、歌の「清げな姿」だけではなく「心におかしきところ」が聞こえるはず。

藤原公任の捉えた「歌の様・歌の表現様式」は、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れています。万葉集、及び、古今集、後撰集、拾遺集等の勅撰集の優れた歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有るに違いないのです。

平安時代の人々と同じように歌が聞こえる言語観に立ち返れば、枕草子、及び、この時代の歌物語のほんとうのおかしさも紐解けて、今まで聞こえなかった「心におかしきところ」が、直接心に伝わるでしょう。


 
 藤原公任撰『拾遺抄』 巻第十 雑下
 八十三首

 

さるさはのいけにうねべのみなげてはべりけるを見はべりて  柿本人丸

五百五十五 わぎもこがねくたれがみをさるさはの いけのたまもとみるぞかなしき

猿沢の池に采女の身投げしたのを見て  (柿本人麻呂・紀貫之が歌のひじりと称賛した人)

(吾が女の根腐れ髪を、猿沢の池の玉藻として見るぞ、悲しいことよ……吾女の、寝乱れ髪を、然る爽の逝けの、玉面とともに見るぞ、愛しいことよ)


 言の戯れと言の心

「わぎもこ…吾妹子…我が愛する人…吾が女」「ねくたれ…根腐れ…寝みだれ」「かみ…髪…女」「猿沢…池の名。名は戯れる、去る然は、然る爽やかさは」「さは…沢…爽…さわやか…すっきりした」「いけ…池…逝け…感極まり果てたところ」「玉…美称…かわいい」「も…藻…水草…女…面…顔」「と…として…と共に」「見…覯…媾…まぐあい」「かなし…悲し…哀し…憐れだ…愛し…かわいい」。


 歌の清げな姿と歌の心は、
帝を恋し奉り、やがて寵愛の薄れを感じ嘆き入水自死した采女の鎮魂。

心におかしきところは、寵愛の極致。


 采女の魂を鎮められるのは、愛しいという帝のお言葉だけである。人麻呂が帝に成り代わって詠んだ歌。


 歌には「清げな姿」と、言の戯れと言の心によって顕れる「心におかしきところ」がある。言い変えれば、歌にはエロチシズムがある。

歌のこのようなエロチシズムは人麻呂によって確立され、最高峰に達した。人麻呂の歌に追従しようとした人々が大勢いたのである。人麻呂を「歌のひじり」と言う貫之にいま少し近づいた。


 

題不知                        読人不知

五百五十六 こころにもあらぬうきよのすみぞめの ころものそでのぬれぬ日ぞなき

題しらず                      (よみ人しらず・愛しい女を亡くした男の歌として聞く)

(思いがけない憂き世の・涙に、墨染の喪服の袖の濡れない日はない……心のほか、浮き天の夜の・汝身唾に、澄み初めの心と身の端の濡れぬ日ぞ無いことよ)


 言の戯れと言の心

「うきよ…憂き世…明日をもしれぬ人の命の無常な世…思い通りにならない辛い世の中…浮き夜…心浮き浮きの夜…心身が浮き天の波に漂うような夜」「すみぞめ…墨染め…薄墨色…鈍色(にびいろ)…喪服の色…済み初め…澄み初め…心澄み爽やかに成り初め」「ころも…衣…心身を被うもの…心身の換喩…身と心」「そで…袖…端…身の端」。


 歌の清げな姿と歌の心は、喪中も涙の零れる日々、追悼。

心におかしきところは、愛の極致に濡れた日々の追憶。


 この二首は、拾遺集巻第二十「哀傷」にも並べて置かれてある。歌の清げな姿は全く異なるが「心におかしきところ」に共通点が有るためだろう。



 『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。