帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百五十三)(五百五十四)

2015-12-12 23:18:39 | 古典

           



                           帯とけの拾遺抄



  藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。



 藤原公任撰『拾遺抄』 巻第十 雑下
 八十三首


          中宮かくれたまひてのとしのあき、御前の前栽につゆおきたるをかぜの

ふきなびかしたるを御覧じて               天暦御製

五百五十三  あきかぜになびくくさばのつゆよりも きえにし人をなににたとへん

中宮、お隠れになられて、翌年の秋、御前の前栽に露のおりたのを、風が吹き靡かせたのを御覧になられて、(天暦御製・村上天皇御製)

(秋風に靡く草葉の露よりも、はかなく・消えてしまった人を、何に喩えようか……)


 言の戯れと言の心

「くさ…草…言の心は女…ぬえ草のめ、若草の妻などといった遠い昔から、草は女」「つゆ…露…はかなく消えるもの…ほんの少しのもの…白露…白玉…真珠」「なににたとへん…何に喩えん…(露の何に・他の何に)喩えればいいのか」 


 歌の清げな姿と歌の心は、白露よりもはかなく消えた、真珠のようにすばらしかった人を、追憶し追悼する。

心におかしきところは、喪中とは関わりなく、お立場上、無し。


 この御歌は、拾遺集巻第二十「哀傷」にある。


 

冬おやのさうにあひてはべりけるほふしのもとにつかはしける  躬恒

五百五十四  もみじばやたもとなるらむかみなづき しぐるるごとにいろのまさるは

冬、親の喪中となった法師の許に遣わした (凡河内躬恒・古今和歌集撰者)

(紅葉色、喪服の・袂となっているでしょうか、神無月しぐれ降る毎に、血の涙に・色の増さるは……厭きの色、身のそでとなっているでしょうか、かみ・女、無しの月日、冷たいおとこ雨ふる毎に、色情の増さることよ・我は)


 言の戯れと言の心

「もみじ…紅葉…秋の色…飽きの色…厭きの色…断ってしまった色情」「たもと…袂…手許」「かみなづき…神無月…陰暦十月…初冬…かみ無し月人壮士…妻女無しの壮士」「かみ…神…言の心は女…天照大御神は女神である」「つき…大空の月…月人壮士(万葉集の歌語)…言の心は男」「しぐるる…時雨降る…その時のおとこ雨降る」「いろ…色彩…色情…色欲」「は…詠嘆の意を表す」


 歌の清げな姿は、喪服の袂は、血の涙のしぐれ降る毎に、紅葉色が増していることでしょう。

心におかしきところは、かみ無しの月日、おとこのしぐれる毎、増すは色情よ・我は。


 この歌は、拾遺集巻第十七「雑秋」にある。



 『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。