帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百四十八)(五百四十九)

2015-12-10 23:36:38 | 古典

           

 


                           帯とけの拾遺抄



  藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。



 拾遺抄 巻第十 雑下
 八十三首

 

むすめにまかりおくれてまたのとしのはる、さくらのはなざかりに、

家のはなを見ていささかにこころをのぶといふ題をよみ侍りける

小野宮太政大臣

五百四十八  さくらばなのどけかりけりなきひとを こふるなみだぞまづはおちける

娘(村上天皇女御)に先立たれて、翌年の春、桜の花盛りに、家の花(庭の草花)を見て、いささかにこころをのぶ(わずかばかり我が心の内を述べる)という題を詠んだ、(小野宮太政大臣・藤原実頼・公任の祖父)

(桜花のどかだなあ・男花喪中で暇だなあ、亡き人を恋う涙ぞ、花より・先に散り落ちることよ……心におかしきところ無し――をんなごのためには親幼くなりぬべし・土佐日記

 

言の戯れと言の心

「さくらばな…桜花…春を象徴する木の花…言の心は男」「家の花…女花…庭の草花…草・草花の言の心は女」。

「のどけかりけり…(珍しく)長閑だなあ…咲けばすぐ散るあわただしいものなのになあ…のんびりしているなあ」「なきひと…亡き人…亡き娘」「こふるなみだ…かなしい・いとしい・こいしい涙…親が先に散るべきものを、そうすれば、このような思いをしなくてすんだ、くやしい涙」「まづ…先ず…先に(桜花より先に)」。

 

歌の清げな姿は、桜の花盛りに、家の草花に寄せて、亡き娘への思いを述べた。

心におかしきところは、なし。

 

紀貫之土佐日記二月四日に、娘を亡くした親の歌が有る。帰京の船はようやく和泉国に着いて一安心して浜辺を行く、男親「寄する波うちも寄せなむ我が恋ふる ひと忘れ貝降りて拾はむ」という。女親「忘れ貝拾ひしもせじ白玉を 恋ふるをだにも形見と思はむ……拾らえば人忘れできる貝なんて、わたしは拾うつもりはない、白玉を・あの子を、恋しく思う心を、あの子の・形見と思う」。「をんなごのためには、親幼くなりぬべし」。

 


                                   兼盛

五百四十九  おもかげにいろのみのこるさくらばな いくよのはるをこひんとすらん

             (平兼盛・光孝天皇を祖とする人、村上の御時、平の姓を賜り臣に降った)

(面かげに色彩だけは、毎年変わらず・残っている桜花、幾世の春を、人は・恋つづけようとするのだろう……顔色に、色情、殊に残っている男花、幾世の春を、娘恋しと、執着なさるおつもりだろう)

 

言の戯れと言の心

「おもかげ…(桜の花びらの)表面の様子…(君の)顔つき・顔の様子」「いろ…色彩(薄い桃色)…色香…色情…色欲」「のみ…だけ(限定する意を表す・慌しく咲き散るが来春には色だけは変わらず咲く)…特に(強調する意を表す)」「さくらばな…桜花…木の花…男花…ここでは実頼のこと」。

花と言えば女と思うのは近代以来の文脈では正当であろうが、この時代は、草の花と木の花の言の心は異なる。清少納言枕草子では、木の花と草の花の区別をしているのはそのためである。

 

歌の清げな姿は、毎春、変わりなく咲き散る桜花、人は幾世恋し続けるのだろう。

心におかしきところは、そのお元気な顔色ならば、また授かりますよ。

 
両歌共に、拾遺和歌集巻二十『哀傷』の巻頭に置かれてある。


 
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。