帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第十 雑下 (五百三十四)(五百三十五)

2015-12-03 00:05:01 | 古典

          

 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有る。


 

拾遺抄 巻第十 雑下 八十三首

 

だいしらず                      よみ人しらず

五百三十四  なきなのみたつたのやまのふもとには よにもあらしのかぜもふかなん

題しらず                      (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(無実の評判ばかりが、立つ多の・龍田の、山の麓には、世にも有らじの・きわめて激しい嵐の、風が吹いてほしい……なき汝の身、絶つたの山ばのふもとには、極めて荒々しい山ばの心風よ、吹いて欲しい)

 

言の戯れと言の心

「なきなのみ…無き名のみ…無実の評判だけ…よからぬ噂ばかり…泣き汝の身…亡き汝のおとこ」「な…汝…親しいものをこう呼ぶ」「たつたのやま…龍田山…山の名…名は戯れる。断つたの山ば、絶つたの山ば」「ふもと…麓…山ばでは無くなったところ…夫許…夫本…おとこ」「よにもあらし…極めて強い嵐…世にも有らじ…この世に有りそうもない…夜にも荒らし」「かぜもふかなん…風が吹いて欲しい…心風が吹いて欲しい」「かぜ…風…龍田山の麓はもとより生駒おろしの風の強いところ…心に吹く風…ものの山ばに吹く激しい風」

 

歌の清げな姿は、よからぬ風評を吹き飛ばす激しい嵐よ吹いてくれ。

心におかしきところは、なみ唾こぼす夫もとに、夜にも激しい心風吹いて欲しいの。

 

 

たかをにまかりかよふ法師に、あるをんなの名たちはべりければ、少将しげもと

がききつけてまことかといひつかわしたりければ          八条大君

五百三十五  なきなのみたかをのやまといひたつる 人はあたごのみねにやあるらむ 

高尾に通う法師(高い尾根に間かり通うほ伏し)のために、或る女の評判が立ったので、少将しげもと(仮名だろう)が聞きつけて、「まことか」と言って遣ったところ、 (八条大君・貴人の長女・あだ名・八情の大いなるお人)

(無実の噂のみ、高尾の山と・多かおの八間と、言いたてた人は、愛宕の峰・あだおとこの御声、ではありませんか……泣きおとこばっかり、誰のおとこの山ばも、と言い立てた人は、あだ子の身根に・あのときの君に、ではありませんか)

 

言の戯れと言の心

「なきなのみ…無き名のみ…無実の評判ばかり…泣き汝の身…亡き汝のおとこ」「たかをのやま…高尾の山…誰が男の山ば…誰のおとこの山ばも」「人…相手の男」「あたごのみね…愛宕の峰…あだ子の身根…無用のこのおとこ」「にやあらむ…であろうか」

 

歌の清げな姿は、悪い噂ばかりを、高尾の山と言い立てた人は、愛宕の峰ではありませんか。

心におかしきところは、悪い噂の発信元を特定し、泣きおとこの身となるのは、君の貴身ではありませんか。怒りを真綿に包んで投げつけたところ。

やられたら、やり返す例は、和泉式部の歌にも、清少納言の言動にもある、普通のことである。


 

上のような詞書や歌の言葉の戯れは、俊成のいう「浮言綺語に似た戯れ」である。このような戯れは序詞とか掛詞とか縁語という範疇にはないので、俊成の言語観を無視して歌の表面のみ解き、ただの言語遊びの歌と貶めるならば、それは、近代人の理性の奢りであり、古代人に対する冒涜である。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。