パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

和束町 正法寺

2016年11月29日 | 日記
新聞の「紅葉情報」に載っていた和束町にある「正法寺」に行ってきました。
盛は過ぎたのを承知の上、比較的近くであり来年に備えた様子見です。
163号線から和束経由で信楽に抜ける、通り慣れた道路の傍にこのようなお寺があったとは…。
歴史的には、藤原不比等一族による閨閥専横政治の悲劇の主人公「安積親王」縁の地だったのです。

正法寺は、山号を瑞泉山という臨済宗永源寺派の寺院です。
寺伝では天平年間(729~49)、聖武天皇の第二皇子・安積親王(あさかしんおう)の
菩提を弔うために寺の背後にある、仏法寺山に行基菩薩を開山として建立されたと伝えられます。
正法寺の北には、宮内庁管理の「聖武天皇皇子・安積親王和束墓」が茶畑に囲まれて佇んでいます。

安積親王(あさかしんのう、728~7744)は、奈良時代の神亀五年(728)、
聖武天皇の第二皇子として誕生しました。
母は県犬養広刀自(あがたのいぬかいひろとじ ?~792)で、
同母姉には井上内親王
(伊勢の斎王を経て、後に光仁天皇皇后となるも皇后位を廃され変死、御霊神となったとされます)、
同じく不破内親王(後に塩焼王の妻、尚、塩焼王は、後に藤原仲麻呂の乱に加わって処刑)があります。

母の県犬養広刀自は、聖武天皇の夫人として、養老元年(717)に、井上内親王に産み、
神亀五年(728)に安積親王を産んでいます。(不破内親王は生年不詳)
一方、聖武天皇には、広刀自の他に、
皇太子時代からの妻(天皇即位後に夫人)として、藤原不比等の娘・藤原光明子
(安宿媛 後の光明皇后 母は広刀自と同族の県犬養三千代(橘三千代))があり、
養老二年(718)に、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)、
神亀四年(727)に基王(もといおう)を産んでいます。

県犬養広刀自も藤原光明子(光明皇后)も、政権を握る藤原不比等と、
その後妻・県犬養三千代(橘三千代)の意向によって後宮に入ったと考えられますが、
皇子を産むことを期待されたのは藤原氏の血を引く藤原光明子(光明皇后)でした。
そこで、光明子の産んだ基王は、生後間の無い神亀四年(727)11月に皇太子に立てられましたが、
病気により翌年9月に夭折してしまいます。

この基王の夭折は、左大臣長屋王の呪詛が原因などと噂され、
神亀六年(729)2月、王が謀反を企てているという密告を受けて、
兵が長屋王の邸を包囲し、王やその王子達は自害しました(長屋王の変) 
この事件の背景としては、不比等の子の藤原四兄弟と長屋王の対立があり、
四兄弟は、将来、長屋王の王子が男子の少ない聖武天皇の後継者となる危険性を
未然に排除したものとも考えられています。

長屋王の変の後、天平元年(729)、藤原光明子が、王族以外から初めて立后(光明皇后)され、
長く藤原摂関政治へと続く、藤原一族の子女が皇后となる先例となりました。
しかし、その後も光明皇后の懐妊は無く、皇太子不在のままの状態が続きます。
この間、唯一の皇子として、皇太子最有力候補のはずの安積親王は、
非藤原氏系の皇子だったために立太子されることはありませんでした。
そして、結局、天平10年(738)正月、光明皇后の娘、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が
立太子されましたが、これは異例ともいえる史上初の女性皇太子でした。

さて、天平16年(744)閏1月11日、聖武天皇の難波宮行幸が行われ、
この際、付き従っていた安積親王は、途中、桜井頓宮(河内郡桜井郷)で脚の病気(脚気)となり、
恭仁京に戻りますが、2日後の閏1月13日に、17歳で死去しました。
(天皇は難波宮から大市王と紀朝臣飯麻呂を派遣して葬儀を監督させています。)
親王が病気となった際、恭仁京で留守を預かっていたのは、
知太政官事鈴鹿王と、民部卿の藤原仲麻呂だったこともあって、
親王は藤原仲麻呂に毒殺されたという説もあるようですが、実際のところは不明です。

歴史の好きな者には、興味のある話ですがここまで。

  
入口周辺(道を隔てた、車10台程の駐車場より)

  
参道(左手に「瑞泉窯 汰心陶禅道場」の石標)

 
勅使門(後水尾天皇の中宮東福門院が御所(仙洞御所旧中門)より寄進した「四脚門」)
重文指定の調査中とのことですが、かなり老朽化しています。

   
参道、境内には、本山永源寺から移植された「やまもみじ」が植えられています。

  
扁額「極楽界」   「阿弥陀如来」         法堂 

  
法堂の扁額「祈祷」       法堂           十三重塔

 
庚申堂       「法堂」、「方丈」を裏手より

 
開山堂 周辺には大きな朴葉?が沢山散っていました。

  
不動明王像       地蔵菩薩        地蔵菩薩真言

  
階段を降りたところの庚申堂脇に赤い帽子を被ったお地蔵様と十二支  庚申堂 当山鎮守「熊野三所大権現」


  
鐘楼      眼下に茶畑が広がっています     ご住職が瑞泉窯を開き陶芸教室を

  
ぶどう柿(シナノガキ)
大いちょうは、かなり散っていましたが、紅葉は思った以上に残っていました。
素朴な風景と歴史との関わりから、これから人気が出るような気がします。
由緒、境内図、ご朱印もありませんでしたが、今後に期待して、再訪してみます。

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