パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

幻住庵

2018年10月30日 | 日記
久しぶりに会った大学時代の友人達に、石山寺近くの小高い山中にある芭蕉ゆかりの「幻住庵」を案内して貰った。
俳句は門外漢で、此処に庵が有ったり、近くの「義仲寺にお墓がある」ことも初めて知りました。
芭蕉が、大阪市のど真ん中、南御堂辺りで客死したことは知っていましたが…。


 

 
(案内パンフレット)


 
草庵の入口              内から見ると


僧正に揮毫して貰ったという木製の扁額「幻住庵」

『筑紫高良山の僧正は、賀茂の甲斐何某が厳子にて、このたび洛にのぼりいまそけるを、
ある人をして額を乞ふ。いとやすやすと筆を染めて、「幻住庵」の三字を送らるる。』
                                (幻住庵の記より)


* 筑紫國高良山月光院御井寺第五十世座主、寂源一如僧正。
賀茂祠官藤木甲斐守敦直の子。
大師流の名筆家で文人のことらしい。

* 幻住庵は、芭蕉の死後数年経って移築され、
現在は大津市別保二丁目に尼寺「幻住庵」として存続し、
真筆の額が保存されているとのこと。
(玄住庵保勝会 山田氏・「松尾芭蕉と近江」より        




「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。」…
『蓬(よもぎ)・根笹軒(ねざさのき)をかこみ、屋根もり壁おちて、
狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵(げんじゅうあん)といふ。』
(幻住庵記より)

  
「とくとくの清水」
「幻住庵の記」に、「たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ」とあります。


灯籠越しに入口を見る 


何故か「織部型石灯籠・切支丹灯籠」が…
棹が地中に埋まり、「FILI(上の赤丸)」とキリストを 表わす文字が組み合わされた記号が彫り込まれていたり
 その下に「マリア像(下の赤丸)」と言われるレリーフが見えます。    
復元の際に置かれたのでしょうか?膳所藩主の血縁にキリシタンが居られたそうですが…。

 
石碑「幻住庵跡」   幻住庵の記に記された「椎の木」は石碑の後ろ?

『先づ頼む椎の木も有り夏木立』(幻住庵の記の締めの句)



幻住庵のおさらい(Wikipediaより抜粋)

幻住庵(げんじゅうあん) 滋賀県大津市にある松尾芭蕉の関連史跡。
「奥の細道」の旅を終えた翌年の元禄3年(1690年)3月頃から、膳所の義仲寺無名庵に滞在していた芭蕉が、
門人の菅沼曲水の奨めで同年4月6日から7月23日の約4ヶ月間隠棲した草庵。
ここで「奥の細道」に次いで著名で、「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」の書き出しで知られる「幻住庵記」を著した。
元は曲水の伯父幻住老人(菅沼定知)の別荘で、没後放置されていたのを手直しして提供したものであり、近津尾神社境内にある。
芭蕉は当時の印象を「いとど神さび」と表現したが、その趣は21世紀の今も変わらず残っている。
現在の建物は1991年9月に芭蕉没後300年記念事業「ふるさと吟遊芭蕉の里」の一環で復元したものであり、
敷地内には幻住庵記に「たまたま心なる時は谷の清水を汲みてみづから炊ぐ」との記述があるように、
芭蕉が自炊していた痕跡 ”とくとくの清水”が、今も木立の中、水を湧き出している。


「もう一つの幻住庵」
大津市別保二丁目4の45にありました。
拝観とかはされていないようです。

 
正面と「玄住庵」の懸額


 

 
門の外からお庭を失礼しました。