知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『記紀1300年 神話と史実のはざま(このテーマが日経新聞に) 2』―中国史に残る邪馬台国・卑弥呼の時代は神話の時代の真ん中!-

2020-11-18 18:59:39 | 歴史・日本

『記紀1300年 神話と史実のはざま(このテーマが日経新聞に) 2』

―初代神武~15代応神は神話の時代、16代仁徳以降は実在!-

―中国史に残る邪馬台国・卑弥呼の時代は神話の時代の真ん中!-

 

表題を調べるに当たって、先ずは、九州王朝と邪馬台国・卑弥呼から始めます。昔は学校でも詳しくは教わらなかった日本の古代史ですが、これからは、古代史初期の『倭国の平定(卑弥呼・邪馬台国)から東征➡出雲王国の国譲り➡大和王朝への流れ』を調べてみたいと思っています。 邪馬台国の九州説と畿内説 - ベネディクト地球歴史館に、大変興味のある情報を見つけましたので、今後の調査の参考にと備忘録に抜粋しました。 

 

邪馬台国の九州説と畿内説 - ベネディクト地球歴史館』の抜粋・引用です。

卑弥呼の歴史

魏志倭人伝の「邪馬台国ルート」と倭国大乱を素直に読めば、「邪馬台国の場所 九州中部から北部」は間違いない(と思う)。 また、中国の正史「二十四史」から倭の歴史年表を作ると、

57年~190年、中国から見た倭は「奴国」で、場所は福岡市近辺。
178年~184年、九州北部を中心に倭国大乱が起こった。
184年~、倭国大乱をおさめるため、国人は卑弥呼を女王に共立した。

景初二年(238年)6月、倭の女王が大夫を派遣して朝鮮半島の魏の拠点にもうで、魏の皇帝に朝貢することを求めた。 その年の12月、卑弥呼は使者を遣わし、男の奴隷4人、女の奴隷6人、布22丈を献上した。 魏の王はそれにこたえ、卑弥呼を「倭王」と認めた。

180年~、倭国大乱が勃発した。
・~189年、倭国大乱をおさめるため国人は卑弥呼を共立した。
239年、倭王・卑弥呼が初めて朝貢した。
240249年、卑弥呼は死んだ。
・~351年、倭は頻繁に朝貢した。

351年までは、倭の政権は卑弥呼、あるいは卑弥呼を継承した王統であった可能性が高い。 つまり、「九州政権」。 いつ、九州政権からヤマト王権(大和朝廷)に移ったか?

「倭の五王」は、中国・二十四史の「南史」、「宋書」にも出てくる。 では、この「倭の五王」とは一体誰をさすのか?「日本書紀」から、

・讃 履中天皇17代、日経新聞「イチから分かる天皇の歴史」から引用)
・珍 反正天皇18代、日経新聞「イチから分かる天皇の歴史」から引用)

・済 允恭天皇19代、日経新聞「イチから分かる天皇の歴史」から引用)
・興 安康天皇20代、日経新聞「イチから分かる天皇の歴史」から引用)

・武 雄略天皇20代、日経新聞「イチから分かる天皇の歴史」から引用)

とする説がある。 この説に従えば、396年には九州政権からヤマト王権(大和朝廷)に移っていたことになる。 ところが、中国・二十四史によれば、西暦600年以降、「倭」と「日本」が、明確に区別されている。 それを素直に読めば、

1.【倭】:邪馬台国・卑弥呼を継承する王統(九州政権)

2.【日本】:ヤマト王権(大和朝廷)

もし、これが事実なら、九州政権からヤマト王権に移った時期は、600年以降になる。

■空白の4世紀

邪馬台国の卑弥呼が死んだのは240249年。そして、日本の歴史が明らかになるのは592年以降(飛鳥時代)。 では、249年~592年の間、日本で何が起こっていたのか?

じつはこの間、確かなことは何もわかっていない。 266年~413年、中国の文献から倭の記述が消えてしまうからだ。 そのため、「空白の4世紀」と言われている。 ただ、中国・二十四史を丹念に読めば少なからず倭の記述がある。そして、その中に、この時代を明らかにする鍵が含まれているのだ。

さらに、卑弥呼が死んだ後も、邪馬台国または邪馬台国を継承した九州政権が存続し、中国に朝貢したことも確かである。 また同じ頃(300年)、奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する 前方後円墳は大和朝廷の象徴なので、この頃、奈良に大和朝廷(ヤマト王権)が興ったことは間違いない。 そして、この王権が飛鳥時代に継承され、今の王室につながっている。

遅くとも7世紀までに、邪馬台国を継承する九州政権から、大和朝廷(ヤマト王権)に移ったことは確かだが、それがいつ、どのような形で起こったか分からない。 邪馬台国と大和朝廷(ヤマト王権)の関係もはっきりしない。 邪馬台国から大和朝廷(ヤマト王権)までの空白の4世紀。 ここで、

1.「奴国 邪馬台国」を継承する九州政権を「邪馬台国王統」
2
.奈良で興った大和朝廷(ヤマト王権)を「大和朝廷」 

と呼ぶことにする。

■邪馬台国王統

中国・二十四史「北史」によれば ・・・。 239年、卑弥呼は初めて朝貢し、魏王から仮の金印を授かった。 240249年、卑弥呼が死んで、男王が立った。 ところが、国中が服従せず、互いに殺し合った。そこで、卑弥呼の宗女「臺與(とよ)」を王に立てると、混乱はおさまった。 その後、再び男王が立って、中国から爵位を拝命した。 その後も、中国への朝貢は続いた

 

以上を整理すると、卑弥呼が死んだ後も中国への朝貢が続き、600年には倭王「阿毎」が立った。 さらにその後、阿蘇山の話が出てくるので、倭王「阿毎」の国は九州とみていいだろう。 ということで、600年頃、中国からみた倭は、まだ邪馬台国王統だった可能性が高い。

つぎに、中国・二十四史「旧唐書」をみてみよう ・・・。 倭国とは古の倭の奴国である。 四方の小さな島々と五十余国が、この奴国に属している。 その王姓を「阿毎」といい、諸国はみな畏怖している。西暦631年、遣使が方物を献じた。648年、また新羅(朝鮮王朝)に倭の使者が来た。

この部分は重要だ。「倭国」は昔の「奴国」のことで、王姓を「阿毎」といい、631年と648年に遣使した、とはっきり書いてある。 先の「北史」と読み合わせれば648年までは、中国から見た倭は奴国を継承する邪馬台国王統」は間違いない。 そして、600年の王は「阿毎氏」だった。 また、倭王「阿毎」の名は中国・二十四史の「隋書」にも登場する

この「倭の五王」と誰をさすのか?「日本書紀」に出てくる大和朝廷の大王(おおきみ)の系譜から、前述の通り。

この説に従えば、396年には、倭の政権が邪馬台国王統から大和朝廷に移っていたことになる。 ところが、前述した中国・二十四史によれば、648年、中国から見た倭はまだ邪馬台国王統である。しかも、倭の五王の名「讃、珍、済、興、武」は見るからに中国風。大和朝廷とは考えにくい。この時代、邪馬台国王統は中国の遣使に熱心だったので、中国に敬意を表し、中国名に変えたのかもしれない。というわけで、倭の五王は邪馬台国王統と考えるのが自然だじつは、それを裏付ける決定的な証拠がある。

「旧唐書」はさらに続けて ・・・日本国は倭国の別種である。 その国は「日の出(いずる)」の場所にあるので、日本と名づけた。また、倭国はその名が雅(みやび)でないことを嫌い、日本に改名したともいう。 日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。

この記述は決定的だ。 648年の倭国の遣使の後、初めて「日本国」の名が出てくる。 しかも、「日本は昔小国だったが、倭国を併合し、日本と改名した」
とある。 この「倭国を併合した国」が、大和朝廷と考えて間違いないだろう。つまり、後の大和朝廷(ヤマト王権)は、小国(奈良 畿内)から始まり、倭国(邪馬台国王統)を併合し、日本に改名したのである。 
ということで、「邪馬台国王統から大和朝廷に移行したのは西暦650年頃

現存する国内最古の歴史書は、『古事記』と『日本書紀』だが、記紀編纂以前にも歴史書はあったようですが。  原典とされる「帝紀」や「旧辞」は、散逸して現存していないが、学者の多くはかつて実在したことを否定していない。

今回のこの情報、邪馬台国の九州説と畿内説 - ベネディクト地球歴史館は、最もロマンのある古代史に入りやすくさせて頂きました。

                          (20201118纏め #247


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