知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『日本の城郭  018(日本唯一の「穴城」で有名な小諸藩1万5千石のお城、西国外様への抑えの役目が終わり禄高も三分の一に!)』

2024-06-13 18:48:29 | 寺院・仏閣・神社・お社
『日本の城郭  018(日本唯一の「穴城」で有名な小諸藩1万5千石のお城、西国外様への抑えの役目が終わり禄高も三分の一に!)』

『関ヶ原に間に合わなかった徳川秀忠の本陣跡(二の丸)で有名!』

日本100名城の一つ、小諸城。 浅間山から千曲川に至る、小諸の地勢を存分に活用した天然の要塞としての面白さを、今なお存分に味わうことができます。小諸城はその城郭が城下町よりも低い場所に位置する「穴城(あなじろ)」であり、これは小諸城が日本で唯一といわれています。 日本人は、日本語は、表現豊かです。

小諸城は仙石秀久の居城として知られています。江戸時代に入ったのちも、極めて要衝な領地であったため、譜代大名が歴代藩主を務めました。 現在は天守台や石垣のほか、2つの重要文化財が残されており、ひとつは市街地に存在する大手門で、もうひとつは懐古園の入り口にある三の門です。

小諸城の原型は、武田信玄の名軍師として知られる山本勘助が築いた。 浅間山の噴火による火山性台地と千曲川の断崖を利用した天然の要害で、難攻不落の城として知られていた。 勘助は、信玄の下でさまざまな城づくりに携わったが、小諸城のほか、高遠城が日本100名城に選ばれている。

さらに、島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」という詩は、昔、武骨な山男もよく知っています。 島崎藤村は「若菜集」「一葉舟」「夏草」「落梅集」という4冊の詩集を出版。 この「小諸なる古城のほとり」は「落梅集」に収められています。 

城内には小諸城とゆかりのある歌人の歌碑が点在しており、島崎藤村がよく知られます。 二ノ丸の石垣に刻まれた歌の主は若山牧水。 牧水先生と言えば、大変な酒豪としても知られ、1日に1升の酒を飲んでいたという。 「生きたままアルコール漬けになったのでは」と医師を驚かせた逸話がある(ひどい脱線をご容赦のほど)。 

小諸城の空中写真
写真左上隅の大手門から天守閣までの標高差は約12ⅿ低いだけ)

 ウエブ情報から引用

穴城と呼ばれる所以、
佐久地方へ進出した武田信玄が山本勘助と馬場信房に縄張(設計)をさせて築城したものと伝わります。 もともと当地には大井氏の鍋蓋城があり、これが小諸城の前身であったといわれています。 小諸城は城下町よりも低い場所に築かれていたため、穴城と呼ばれていました。本丸が一番低い場所にあり、二の丸、三の丸と高くなっていく独特の構造でしたが、千曲川が浸食した谷を天然の堀とし、鉄壁の守りを誇りました。

小諸藩の石高推移
1590年~:仙石氏 5万石(外様)
1624年~:松平氏 5万石~4万5000石(譜代)
1648年~:青山氏 3万石(譜代)
1662年~:酒井氏 3万石(譜代)
1679年~:西尾氏 2万5000石(譜代)
1682年~:松平氏 2万石(譜代)
 1702年~:牧野氏 1万5000石(譜代)
西国外様への抑えの役目が終わり禄高も三分の一に!

昔、山男時代は、この小諸城は、詩情豊かな乙女チックな城などとみていましたが、縄張りは、武田信玄が山本勘助と馬場信房にさせたことがわかると、火山性台地と千曲川の断崖を利用した堅城・穴城の小諸城はまだまだ調べたいと思いました。
(記事投稿日:2024/06/13、#753)
コメント
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