知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『ヴァイキング、知られざるその壮大な歴史と、好対照のフィンランドの歴史』 『スウェーデンとロシアに統治された歴史をバネしたフィンランド』

2022-01-01 22:39:36 | 歴史・世界・古代

『ヴァイキング、知られざるその壮大な歴史と、好対照のフィンランドの歴史』   

『スウェーデンとロシアに統治された歴史をバネしたフィンランド』

半世紀も前のことですが、商用出張でフィンランドのノキア社を訪問したことがありました。 三人の技術関係者とお会いしました。 二人の男性の身長は190㎝以上、一人の女性は180㎝以上でした。 その時には、フィンランドの方々から感じたことは、ヴァイキングの子孫の偉丈夫さ、強さ、歴史だったことをずっと覚えていました。 これがとんでもない間違いで、フィンランド人はヴァイキングの子孫ではないようです。

北欧の国々の方々でも、スマイルをあまり見せないのがフィンランド人です。

厳しい風土と歴史のせいでしょうか。(どこかの国の政治屋のように、いつも選挙運動中のようなスマイルで厳しさがなく見える方々が多く、ホンの一部の政治屋は、不愛想な仏頂面しかできない不器用な方々もおりますが。) 

余談です。 その後、ヴァイキングの子孫のスウェーデンの高身長の技術者数人とお会いしたことがありました。 こちらは、紛れもないヴァイキングの子孫でした。 大変失礼とは思いましたが、それ以来、北欧の高身長の方々とお会いすると思い出すのは次のことです。

昔、読んだ本ですが、『ゾウの時間ネズミの時間』、著者は動物生理学を専門とする生物学者・本川達雄氏です。 1992年に中公新書から発行された。 動物のサイズから動物のデザインの論理が数理的に解説されている。 1993年の講談社出版文化賞の科学出版賞を受賞したものです。

この著書の中の解説の一つです。 北欧の皆様には失礼な例えとは思いますが、引用させていただきますことを、ご容赦願います。 ベルクマンの規則:『恒温動物では、同じ種で比較すると寒い地方に住む個体ほど体が大きい」(投稿者の理解:表面積の体積比は大型化するほど小さくなるので放熱については、小型恒温動物より有利になるので、寒さに強いのです。)』

会合の後の、夕食会では、ビール党の自分は、自分のマナーの悪さにも気が付かず、かなりのピッチでビールを飲んでいたら、偉丈夫の女性から勧められたのが、無色透明の蒸留酒でした。 これでビールを水代わり(水のようにではないが)に飲む欧州人同様と認められたのかと嬉しく思いました。

先ずはフィンランドの歴史です。

12世紀以前のフィンランドの歴史のほとんどが民話によって伝えられてきました。 フィンランド最初の定住者が確認できるのは紀元前9000年ほども前のことです。 彼らはフィンランド南西部に住み、ヘラジカ(ムース)などの狩猟やバルト海沖での漁業を生業として生活していました。 当時は今のように温暖な気候ではなく、ただただ極寒な地域でした。 6000年前になると、サーミ人がフィンランド東部へやってきます。

フィン人の起源については諸説あります。中でも定説になりつつあるのが、南西部への入植者は西側ヨーロッパからで、東部についてはロシアからの遊牧民。この遊牧民らはウラル山脈(現ロシア西部)を流れるヴォルガ川流域から来た人たちで、これが分化してフィン人、エストニア人、カレリア人になったと言われています。 

このウラル地方からの入植者が、通常は先史時代( - 1155年)、スウェーデン時代・654年(1155年 – 1809年)ロシアによる大公国(フィンランド大公国)時代・108年(1809年 -1917年)、独立後の現代(フィンランド王国時代を含む、1917年 - )の4つの区分に分かれる理由になります。 その中心とも言えるのが、スウェーデンとロシアの統治下に置かれていた8世紀に渡る期間です。 1917年に独立を達成。

フィンランド語は、ウラル語族フィン・ウゴル語派のバルト・フィン諸語の一言語。 主にフィン人(フィンランド国民を構成する主要な民族)が使用する。

ウエブ情報から引用

中世までで大きな動きが出たのは、8世紀。北の海賊「ヴァイキング時代(Viking)」です。 ノルウェーやデンマークのヴァイキングはイギリスやフランス、イタリアなどの西欧・南欧へ侵略を進めたのですが、スウェーデンはフィンランドへ進出しました。 オーランド(Åland)を通って、フィンランド、ロシアへと進んでいきました。 結果、ノヴゴロドを統治し、862年にキエフに辿り着きました。 

ヴァイキングの進路概略図

 ウエブ情報から引用

中世以前のフィンランドの歴史は、特筆すべきことは少ないように思えます。地理的にヨーロッパとロシアの狭間にいると言うことで、両者からの影響を強く受けましました。そして、この影響は今も強く受けています。

その後、『ヴァイキングvs倭寇』を調べていて気がつきました。 今回は、このテーマ『ヴァイキングvs倭寇』の番外編で『スウェーデンとロシアに統治された歴史をバネしたフィンランド』でフィンランドの凄さを纏めました。

日本はスウェーデン・ノルウェー・デンマーク・アイスランド・フィンランドの5カ国をスカンディナヴィア諸国・ノルデイック(北欧)諸国と呼び、北欧諸国とほぼ同一視しています。 現代の北欧の人々は外交上あるいは学術上といった公的な場を除いて、北欧 ( Nordic) とスカンディナヴィアを峻別せず混同することが多い。

人口とGDPの規模が日本の北海道とほぼ同じフィンランドは、1980年代以降、農業と林業中心の経済体制から、携帯電話の生産量が世界1位になるなどのハイテク産業を基幹とする工業先進国へと著しい変化を遂げることに成功した。 特に、150年前からある老舗企業のノキア(NOKIA)やLinuxが有名です。 高い教育水準なども影響した結果、ヨーロッパ内でも有数の経済大国となった。 世界経済フォーラム(WEF)が毎年発表する国際経済競争力の順位では、2001年から2004年までと4年連続首位となった。

先ずは、日本が学ぶべきことは、

フィンランドが発展した要因の一つが、中央政府は、大企業は独り立ち出来て、総合的反検証も軌道修正もできるので、介在・援助はせず、介在・援助するのは起業業界に、徹底しているようです。

 

次は、日本の大企業も参考にすべきはノキア社のこと、

ウエブ情報から抜粋・引用

フィンランドの電気通信機器メーカー。 携帯電話端末を主力とし、モバイルラジオ、無線LAN、デジタル放送受信機などの通信機器を生産している。 1865年、製紙会社として設立。 1917年のフィンランド独立以降、ノキアは電気通信分野への進出を始めた。 1980年代には携帯電話部門に進出、1998~2011年まで世界最大のシェア(32.4%、10年第3四半期)を占めていたが、12年第一四半期でサムソンに次ぐ2位となった。 12年9月、スマートフォンで大きく出遅れていた同社とマイクロソフトが提携し、最新モバイル基本ソフト「ウィンドウズフォン8」を搭載したスマートフォン「ルミア620」が発表された。

ノキアはフィンランド発のグローバル企業で、当時携帯電話市場ではトップクラスのシェアを誇っていた。 ところが最近、ネットサーフィン中に久しぶりにノキアの名を見かけた。 なんでもノキアは今、米国、中南米、欧州、韓国、オーストラリアなどで48件(2019年9月30日現在)の5G(第5世代移動通信方式)商用サービスを契約しているという。 ノキアは「通信インフラベンダー」として生き残っていたのです。

このような風土と大発展のフィンランドですが、歴史的には苦難の道であったようです。 フィンランドの方々を「彼らはノキアンと呼ばれている人達ですよ。」と言われることさえあります。

フィンランドのこと、これからも勉強していきたいと思っています。

(記事投稿日:2021/12/31、#450)

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『江戸のUFO?「うつろ(虚)舟」(久し振りの夢のある話題?)』 ―この記事を読み、UFOの実在を信じられるかと思ったのですが?ー

2022-01-01 09:58:01 | 科学・数学・物理

      『江戸のUFO?「うつろ(虚)舟」(久し振りの夢のある話題?)』

  『この記事を読み、UFOの実在を信じられるかと思ったのですが?』

うつろ船に関する古文書・記録等は、すべて江戸時代のものですが、乗り物のデザインと描かれた人物の服装は、西洋人の女性に見えます。 

弘賢随筆に描かれた「うつろ舟」(国立公文書館所蔵)

ウエブ情報から引用

コロナ禍のもとで、久し振りに夢のある話題でした。 日経新聞文化欄(20201106付け)に田中嘉津夫氏(岐阜大名誉教授)のエッセイ『江戸のUFO?「うつろ舟」―茨城に残る美女が乗った漂着船奇談、文献探し当て謎に迫るー』が載っていました。 この記事を読み、いままで如何しても理解できなかった古代史の不思議なことに益々興味が湧いてきましたが疑問が残りました。 

先ずは、記事の抜粋・引用です。

『江戸の後期1803年のこと、常陸国(茨城県)の海岸に円盤状の船が漂着した。 その中には美しい女性がひとり乗っていた―――。 まるでUFO遭遇談のようなこの事件は「常陸国うつろ舟奇談」と呼ばれる。 現在までに11種14編の古文書で確認されており、いずれも現代のUFOそっくりの船の挿絵入りという特徴がある。

当時この事件の文献として判明していたのは「南総里見八犬伝」で有名な曲亭馬琴らが書いた奇談集「兎圓小説」(1825年)と長橋亦次郎の随筆集「海の塵」(1844年)の二つだ。 「兎圓」の記事には三角形や丸をかたどった謎の「宇宙文字」4文字も記されている。

「宇宙文字」4文字(この文字とカタカムナ文字がとてもよく似ている)

ウエブ情報から引用

カタカムナ文字(カタカムナ文字は少なくとも12,000年以上前に使われていた古代文字であり、現在では失われていて詳しい資料も残っていない。)

ウエブ情報から引用

うつろ舟はうつぼ舟」とも呼ばれ各地に漂流伝説が残る。 柳田国男は1925年に論文「うつぼ舟の話」で「兎圓」は各地の伝説であり、実際事件ではないと断じた。 2007年にはネットを通じて「漂流記集」を知る。 これは日本人の漂流と外国人の漂流事例を記録した実話集だ。

その後も数年ごとに新資料の存在が明らかになり、そのたびに現地に駆け付けた。 そして14年。 ついに画期的な文献に出会う。 それは甲賀流忍術を伝える伴家の古文書で、各地の出来事を尾張藩に報告する風文禄と目されるもの。 

ここに記録された「常陸原舎り濱」は伊能図にある実在の地名だった。

挿絵はどの船も球形で、窓らしきものが3つ。 中央に縁があり下部は筋金で補強と、構造は同じだ。 何の証言もなく、この形状が発想され、共通するものか。

深まる謎の黒幕と私が考えているのが「兎圓」の馬琴だ。 茨城県には、インドから「うつろ舟」に乗ってやってきた金色姫が養蚕をもたらしたという伝説もある。 この養蚕信仰を伝える星福寺と馬琴の関係は深い。

 

また「兎圓」に記された宇宙文字は、謎の「蘭字枠」で縁取った風景画と近似しておりこの絵の作者・渓斎永泉は南総八犬伝の挿絵を描いている。 馬琴の足跡がうつろ舟奇談の周辺に見付かるのだ。 昨年調査をまとめた英語版の研究書を刊行した。

ウエブ情報から引用

一方、ウエブ情報ですが、次のようにありました。

最も著名な事例が後述の1803年常陸国のものであるが、それ以外にも1796年加賀国見屋のこし1681年尾張国熱田沖越後国今町、正徳年間伊予国日振島、1883年神戸沖などの記録がある。

虚舟の伝説の中でも最も広く知られているのは1803年に常陸国に漂着したとされる事例である。 この事例に言及した史料は現在までに7つが確認されており、内容には若干の異同がある。 その内容は概ね以下のようなものである。

  • 享和3年(1803年)、常陸国鹿島郡にある旗本(小笠原越中守、小笠原和泉守などとされる)の知行地の浜に、虚舟が現れた。
  • 虚舟は鉄でできており、窓があり(ガラスが張られている?)丸っこい形をしている。
  • 虚舟には文字のようなものがかかれている。
  • 中には異国の女性が乗っており、箱をもっている。

2014年5月26日付けの「茨城新聞は川上仁一の忍術を伝える伴家の古文書から「うつろ舟奇談」に関わる史料があり、漂着地の実在地名が「常陸原舎り濱」(現在の神栖市波崎舎利浜)と記され、具体性があると岐阜大学の田中嘉津夫名誉教授が発見したと報じた。 江戸時代のUFO飛来事件ではないかとも言われている。

更に、次のような情報もあり、これからの課題が残りました。

しかし、それよりも100年以上も前の1699年、尾張藩士・朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』にも、熱田の海に「空穂船」が漂着したという、うつろ舟に非常によく似た話があるのです。

茨城県で見つかった絵に描かれている女性は、髪型や衣装を詳しく調べてみると、地元に伝わる「金色姫」の女神像とそっくりなのだそうです

ウエブ情報から引用

金色姫は、養蚕に関する伝説に登場し、繭(まゆ)の形をした舟で海に流されたという伝説まで残されています。

うつろ舟に描かれた文字は、宇宙文字ではない(「宇宙文字」4文字はカタカムナ文字がとてもよく似ている)

 ウエブ情報から引用

 「勢州桑名渡」の浮世絵(絵の枠に文字が描かれている部分は蘭字枠と呼ばれて、舶来っぽさを出すための演出と言われています。「宇宙文字」4文字のカタカムナ文字がとてもよく似ている)

うつろ舟も乗船していた女性と、その女性が持っていたハコも、うつろ舟の設計もデザインも、謎が深まり、疑問・課題が残った。

(記事投稿日:2020/11/07 #242)

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