2023年放浪の旅 思い出の情景 その10
46 尻屋埼灯台と寒立馬(青森県下北郡東通村尻屋字尻屋崎1-1)訪問日 令和5年10月2日
尻屋埼灯台(重要文化財)
尻屋埼灯台は、工事期間3年4ヶ月を費やし明治9年(1876年)10月20日に点灯開始した
「日本の灯台の父」と称されるブラントンによって設計された、二重のレンガ壁による複層構造の灯台となっている
高さ30mを誇る日本一高いレンガ灯台である

のぼれる灯台16のうちの一つで、日本の灯台50選に選ばれている
参観期間は、令和6年4月6日(土)~令和6年11月10日(日)参観寄付金 300円(中学生以上)

文化庁の資料によると重要文化財に指定されている灯台は13基
①尻屋崎 ②犬吠埼 ③清水 ④御前崎 ⑤菅島 ⑥経ヶ岬 ⑦江崎
⑧美保関 ⑨出雲日御碕 ⑩角島 ⑪六連島 ⑫鍋島 ⑬部崎 *釣島灯台(答申中)

寒立馬とその生息地(靑森県天然記念物)
灯台周辺には「寒立馬」と呼ばれる馬が放牧されていると思ったら様子が違った
「寒立」とはカモシカが冬季に山地の高いところで長時間雪中に立ちつくす様を表すマタギ言葉

寒風吹きすさぶ尻屋崎の雪原で野放馬がじっと立っている様子がそれに似ていたことから「寒立馬」と呼ばれるようになった
寒気と粗食に耐え持久力に富む農用馬として重用されてきた
厳しい冬にも耐えられるたくましい体格の馬である
南部馬の系統で足が短く胴が長くて、ずんぐりしている

47 法霊山龗(おがみ)神社(青森県八戸市内丸2丁目1-51)訪問日 令和5年10月3日
訪れるきっかけとなったのは、この案内板の内容を旅行雑誌か何かで知ったからだ

頼朝に追われた義経は平泉「高館」にて、文治5年(1189年)閏4月 頼朝の圧迫に耐えかねた泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられている
平成28年(2016年)5月に平泉の「高館義経堂」を訪れた時、面白い案内板(下記写真)があったことを覚えていた
「平泉を脱し北へ向かった」とあり、龗神社の案内板と結びついたのだ
若い頃、高木彬光の推理小説「成吉思汗の秘密」を夢中になって読んだことがあり、今でも義経の名が出てくると興味を持ってしまう

拝殿
この神社の創建は不明であるが、その歴史は記録上では約1000年前の平安後期にまで遡り、伝承を辿るとさらに遡るという
雑誌等では「龗神社」と記載されているが、正しくは「法霊山龗神社」といい、法霊神社、法霊山という通称でも呼ばれている

本殿
現在の本殿は、約190年前に大名南部家より寄進されたもの
主祭神:高龗神、法霊大明神
八戸三社大祭(重要無形民俗文化財、ユネスコ世界無形文化遺産)発祥の神社


48 櫛引八幡宮(青森県八戸市八幡字八幡丁3-2)訪問日 令和5年10月3日
本殿など5棟の社殿が重要文化財に指定されているということで訪れた
八幡馬(やわたうま)
「御神馬」と刻まれた台座の上に、注連縄をまとった花崗岩の八幡馬が置かれている
八幡馬は、八戸市を中心とする南部地方で古くから作られている、子供や家族の幸せを願う愛情溢れる木彫り馬の郷土玩具・民芸品

正門<南門>(重要文化財)
慶安元年(1648年)盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営された
平屋の門のなかで最も格式の高い形式の切妻造銅板葺の四脚門

本殿(重要文化財)
慶安元年(1648年)建立 盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営
三間社流造、銅板葺

長所<旧拝殿>(重要文化財)
慶安元年(1648年)建立
桁行七間・向拝一間・入母屋造・銅板葺

明治記念館<旧八戸小学校講堂>(青森県指定文化財)
明治14年(1881年)8月に八戸小学校の講堂として堀端町に建てられた
同月24日には明治天皇の奥羽巡幸に際しての行在所とされた
靑森県内に現存する洋風建築では最古のもの

49 乙女の像(青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋)乙女の像(青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋)
20年ほど前に一度訪れたことがある
数年前、福島県二本松市で「智恵子の生家・智恵子記念館」を訪れたことがきっかけとななり、再び訪れようと思った
駐車場から「乙女の像」まで少し歩くことになるが、木道が設置されていてとても歩きやすい

「智恵子の生家・智恵子記念館」では智恵子本人よりも高村光太郎の方に興味を持った

乙女の像<制作:高村光太郎>
光太郎は「智恵子抄」のなかで
「私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事ができた……」
「自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力になるものはない……
私はそういう人を妻の智恵子に持っていた」と語っている

東京のモデルクラブに所属する藤井照子(当時19歳)がモデル
制作中、像の頻は白布で覆われ、だれにも見せることはなかったという

完成後、「あれは智恵子夫人の顔」といわれるようになった
それを確かめた横山武夫(当時県教委教育次長でのち副知事、歌人)に対し
「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と
「乙女の像」が光太郎最後の作品となった

50 三熊野神社・成島毘沙門堂(岩手県花巻市東和町北成島5区1)訪問日 令和5年10月6日
拝殿
社伝によれば、坂上田村麻呂が対蝦夷戦争に際して、征矢立の森に登って紀伊の熊野三山に戦勝を祈願
戦勝後の延暦21年(802年)にこの地に熊野三山の神を勧請して創祀したという

本殿(岩手県指定文化財)
本殿は桁行3間梁間2間の切妻造平入の身舎前面に、桁行3間の吹放ちの庇が接続し、さらに庇中央に1間幅の向拝を設ける
祭神:伊弉冉命、事解男命、速玉男命の3柱を祀る

成島毘沙門堂(重要文化財)
坂上田村麻呂または円仁の開基と伝える

様式上、室町時代後期の建立と推定される
方三間、寄棟造、鉄板葺(もと茅葺)の仏堂

木造兜跋毘沙門天立像(附:二鬼坐像 2躯)(重要文化財)
平安時代中期(10世紀頃)の作
像高3.59m、足下の地天像を含む総高4.73m(樺の一本彫成仏としては日本一を誇る)
木造伝吉祥天立像(重要文化財)<左奥>

46 尻屋埼灯台と寒立馬(青森県下北郡東通村尻屋字尻屋崎1-1)訪問日 令和5年10月2日
尻屋埼灯台(重要文化財)
尻屋埼灯台は、工事期間3年4ヶ月を費やし明治9年(1876年)10月20日に点灯開始した
「日本の灯台の父」と称されるブラントンによって設計された、二重のレンガ壁による複層構造の灯台となっている
高さ30mを誇る日本一高いレンガ灯台である

のぼれる灯台16のうちの一つで、日本の灯台50選に選ばれている
参観期間は、令和6年4月6日(土)~令和6年11月10日(日)参観寄付金 300円(中学生以上)

文化庁の資料によると重要文化財に指定されている灯台は13基
①尻屋崎 ②犬吠埼 ③清水 ④御前崎 ⑤菅島 ⑥経ヶ岬 ⑦江崎
⑧美保関 ⑨出雲日御碕 ⑩角島 ⑪六連島 ⑫鍋島 ⑬部崎 *釣島灯台(答申中)

寒立馬とその生息地(靑森県天然記念物)
灯台周辺には「寒立馬」と呼ばれる馬が放牧されていると思ったら様子が違った
「寒立」とはカモシカが冬季に山地の高いところで長時間雪中に立ちつくす様を表すマタギ言葉

寒風吹きすさぶ尻屋崎の雪原で野放馬がじっと立っている様子がそれに似ていたことから「寒立馬」と呼ばれるようになった
寒気と粗食に耐え持久力に富む農用馬として重用されてきた
厳しい冬にも耐えられるたくましい体格の馬である
南部馬の系統で足が短く胴が長くて、ずんぐりしている

47 法霊山龗(おがみ)神社(青森県八戸市内丸2丁目1-51)訪問日 令和5年10月3日
訪れるきっかけとなったのは、この案内板の内容を旅行雑誌か何かで知ったからだ

頼朝に追われた義経は平泉「高館」にて、文治5年(1189年)閏4月 頼朝の圧迫に耐えかねた泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられている
平成28年(2016年)5月に平泉の「高館義経堂」を訪れた時、面白い案内板(下記写真)があったことを覚えていた
「平泉を脱し北へ向かった」とあり、龗神社の案内板と結びついたのだ
若い頃、高木彬光の推理小説「成吉思汗の秘密」を夢中になって読んだことがあり、今でも義経の名が出てくると興味を持ってしまう

拝殿
この神社の創建は不明であるが、その歴史は記録上では約1000年前の平安後期にまで遡り、伝承を辿るとさらに遡るという
雑誌等では「龗神社」と記載されているが、正しくは「法霊山龗神社」といい、法霊神社、法霊山という通称でも呼ばれている

本殿
現在の本殿は、約190年前に大名南部家より寄進されたもの
主祭神:高龗神、法霊大明神
八戸三社大祭(重要無形民俗文化財、ユネスコ世界無形文化遺産)発祥の神社


48 櫛引八幡宮(青森県八戸市八幡字八幡丁3-2)訪問日 令和5年10月3日
本殿など5棟の社殿が重要文化財に指定されているということで訪れた
八幡馬(やわたうま)
「御神馬」と刻まれた台座の上に、注連縄をまとった花崗岩の八幡馬が置かれている
八幡馬は、八戸市を中心とする南部地方で古くから作られている、子供や家族の幸せを願う愛情溢れる木彫り馬の郷土玩具・民芸品

正門<南門>(重要文化財)
慶安元年(1648年)盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営された
平屋の門のなかで最も格式の高い形式の切妻造銅板葺の四脚門

本殿(重要文化財)
慶安元年(1648年)建立 盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営
三間社流造、銅板葺

長所<旧拝殿>(重要文化財)
慶安元年(1648年)建立
桁行七間・向拝一間・入母屋造・銅板葺

明治記念館<旧八戸小学校講堂>(青森県指定文化財)
明治14年(1881年)8月に八戸小学校の講堂として堀端町に建てられた
同月24日には明治天皇の奥羽巡幸に際しての行在所とされた
靑森県内に現存する洋風建築では最古のもの

49 乙女の像(青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋)乙女の像(青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋)
20年ほど前に一度訪れたことがある
数年前、福島県二本松市で「智恵子の生家・智恵子記念館」を訪れたことがきっかけとななり、再び訪れようと思った
駐車場から「乙女の像」まで少し歩くことになるが、木道が設置されていてとても歩きやすい

「智恵子の生家・智恵子記念館」では智恵子本人よりも高村光太郎の方に興味を持った

乙女の像<制作:高村光太郎>
光太郎は「智恵子抄」のなかで
「私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事ができた……」
「自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力になるものはない……
私はそういう人を妻の智恵子に持っていた」と語っている

東京のモデルクラブに所属する藤井照子(当時19歳)がモデル
制作中、像の頻は白布で覆われ、だれにも見せることはなかったという

完成後、「あれは智恵子夫人の顔」といわれるようになった
それを確かめた横山武夫(当時県教委教育次長でのち副知事、歌人)に対し
「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と
「乙女の像」が光太郎最後の作品となった

50 三熊野神社・成島毘沙門堂(岩手県花巻市東和町北成島5区1)訪問日 令和5年10月6日
拝殿
社伝によれば、坂上田村麻呂が対蝦夷戦争に際して、征矢立の森に登って紀伊の熊野三山に戦勝を祈願
戦勝後の延暦21年(802年)にこの地に熊野三山の神を勧請して創祀したという

本殿(岩手県指定文化財)
本殿は桁行3間梁間2間の切妻造平入の身舎前面に、桁行3間の吹放ちの庇が接続し、さらに庇中央に1間幅の向拝を設ける
祭神:伊弉冉命、事解男命、速玉男命の3柱を祀る

成島毘沙門堂(重要文化財)
坂上田村麻呂または円仁の開基と伝える

様式上、室町時代後期の建立と推定される
方三間、寄棟造、鉄板葺(もと茅葺)の仏堂

木造兜跋毘沙門天立像(附:二鬼坐像 2躯)(重要文化財)
平安時代中期(10世紀頃)の作
像高3.59m、足下の地天像を含む総高4.73m(樺の一本彫成仏としては日本一を誇る)
木造伝吉祥天立像(重要文化財)<左奥>

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