今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

新宮熊野神社(福島県喜多方市慶徳町新宮字熊野2258)

2024年04月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月12日

新宮熊野神社
平安時代後期の永承6年(1051年)、前九年合戦の折り源頼義、義家父子が紀州にある熊野権現に武運を祈願し見事勝利した
神意に感謝し、天喜3年(1055年)熊野堂村(福島県会津若松市)に分霊を勧請したのが始まり

鳥居



案内板



額には社号の「熊野神社」
鳥居の注連縄としてはかなり大きい



神社で拝観料:大人300円は珍しいが宝物殿入館料と思えば納得できる
初めて訪れる場所で周囲を確認しながら参道を進む



手水舎



御神木「大イチョウ」(喜多方市指定天然記念物)
樹高37m 樹齢800年以上
晩秋になると落ち葉が黄色い絨毯のように境内を美しく彩る
11月中旬~下旬の見頃の時期にはライトアップが行われ、大イチョウが幻想的な雰囲気を醸し出す



狛犬






熊野神社長床(重要文化財)
「大イチョウ」と巨大な長床



寄棟造、茅葺、正面9間、側面4間、建立年代は不明
形式・技法から平安時代末期から鎌倉時代初期には「拝殿」として建立されたと思われる



案内板



本殿はこの先の高い場所にある
慶長16年(1611年)に大地震で倒壊し、同19年(1614年)に旧材を用いて再建



昭和46年(1971年)~49年(1974年)にかけて解体修理復元工事が行われた
長床の平面は、間口27m・奥行12mの長方形
直径1尺5寸(45.4cm)の円柱44本が10尺(3.03m)の間隔で10列×5列に並び、柱間はすべて吹き抜けで壁がない



大きすぎて画角に収まらず、横に移動した









鐘楼
古くから神仏習合し別当寺院である新宮寺や奥之院である神宮寺が祭祀を司っていた
明治時代初頭に発令された「神仏分離令」により形式的には仏教色が一掃され、県社に列した



境内には文殊堂や鐘楼、多数の仏像が残されているなど神仏習合の名残が随所に見られる



梵鐘(福島県指定文化財)






長床の横を通り本殿を目指す



熊野神社本殿(福島県指定文化財)
出羽国で発生した後三年合戦の際、応徳2年(1085年)に源義家が再び会津まで進軍
熊野本宮社を耶麻郡慶徳村岩沢、那智熊野社を耶麻郡熱塩加納村宇津野)、新宮熊野社を耶麻郡慶徳村新宮にそれぞれ祀るように命じた



その後、当社の地に熊野本宮社と那智熊野社が合祀された
最盛期には300を越える末社があり神職には100余人が置かれ奥州の熊野と呼ばれていた



寛永20年(1643年)に保科正之が領主(会津藩主)となると崇敬社となり広く信仰された
保科正之と水戸光圀(水戸藩)が明治の神仏分離を江戸時代にすでに始めていた



本殿は熊野三山を模した配置が継承されている
中央には当社の本殿である新宮証誠殿、向かって左側には末社である那智山飛龍権現の本殿、右側には末社である本宮十二社権現の本殿が配されている



本社新宮証誠殿



額には「熊野新宮」
主祭神:家都御子神(けつみこのかみ)






末社 那智山飛瀧権現



額には「熊野那智」
祭神:熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)



末社 本宮十二社権現



額には「熊野本宮」
祭神:熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)



本殿の下には長床









宝物殿



宝物殿内は写真撮影が認められている



中央に「不動明王」向かって左に「制多迦童子」右は「矜羯羅童子」



「不動明王」



「制多迦童子」



「大黒天」



木造相撲力士像(喜多方市指定文化財)






鰐口(福島県指定文化財)



熊野山牛玉宝印版木(福島県指定文化財)



木造如意輪観音坐像(喜多方市指定文化財)






木造虚空蔵菩薩坐像(喜多方市指定文化財)






木造薬師如来坐像(喜多方市指定文化財)






銅造阿弥陀如来立像(喜多方市指定文化財)



「厨子入 木造弁財天・大黒天・毘沙門天像」



仏像を撮る機会に恵まれた
魅力的な「木造文殊菩薩騎獅像」は修復作業中だった






撮影 令和5年10月12日

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