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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東195)

2023年07月08日 | 神社・仏閣
訪問日令和5年6月18日

出雲大社
創建は神代 出雲国一宮 

松の参道
出雲古代歴史博物館から100m程歩くと松の参道に出る
中央にあるこの道は神様の通る道なので通行することはできない



参拝者は左右にある参道を進むことになる



ムスビの御神像



大国主神は海の彼方から光が飛んで来るのに遭遇する
その光が御身に宿る幸魂・奇魂であることに気づき、その御霊に生かされているという自覚を得る



大国主神が、幸魂・奇魂のお蔭を頂いて神性を養われ『ムスビの大神』になられたという意味を象徴している像である






境内案内図



銅鳥居(重要文化財)
寛文6年(1666年)長州藩 第3代藩主 毛利綱広の寄進



拝殿
通常は参拝者の御祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われる
周囲から「注連縄が思ったより小さい」という声が耳に入ってきた……



八足門(重要文化財)
本殿により近いこともあり、参拝者の数も多い場所
蛙股の「瑞獣」や「流水文」などの彫刻は左甚五郎の作と伝えられる



八足門前にある大きな3つの円に注目



出雲古代歴史博物館と出雲大社宝物館に展示されている「宇豆柱」がこの場所から出土した
<宇豆柱とは出雲大社本殿遺構の棟を支えていた柱材>



巨大な3本の木を束ねて1本の柱にしている



左側から回ってみる



本殿の屋根が見える



神楽殿
人気の大注連縄は神楽殿に張られている
私の後ろにはカメラを構えて待っている人が沢山いるという状況(汗)
長さ約13メートル、重さ5.2トン



神社神道では、神様に向かって右方を上位、左方を下位とし、一般的に神社では上位の右方が綯い始めで、左方を綯い終りとする張り方となっている
しかし出雲大社では古来、他の神社とは反対に神様に向かって左方を上位、右方を下位としている



本殿内には、客座五神として「天之御中主神・高御産巣立日神・神産巣立日神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・天之常立神」の五柱の神が祀られている
尊貴第一の神たる「天之御中主神」が上位となる一番左に祀られている
注連縄を張る際には上位である左方が綯い始めで、右方を綯い終りとする張り方となっている



この大注連縄は数年に一度、新しい注連縄へと懸け替えられる



末社 西十九社(重要文化財)



神在祭の間(旧暦10/11~17)、集われた全国各地の神々の宿所となる社



摂社 氏社 2棟(重要文化財)



本殿(国宝)
祭神:大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)
江戸時代 延享元年(1744年)の造営



祭神が一番近い場所にあり、構造上、正面からお参りできるため参拝者が絶えない



彰古館(国登録有形文化財)






本殿を真後ろから拝観できる



足もとには可愛い白ウサギが置かれている
ウサギとのツーショットをSNSで発信している女性が多かった



摂社 素鵞社(重要文化財)
祭神:素戔嗚尊(すさのおのみこと)



大国主大神の親神ということで本殿より一段高い場所にある
これまで参拝者が列をなすということはなかった



社の真後ろにある磐座から霊気を感じ取ろうとしている男性



いつもと違うのはこの社殿の下に人が頭を突っ込み砂を袋に入れていることだ



何をしているのかこの時は分からなかった……



末社 釜社(重要文化財)






東十九社(重要文化財)



観光バスも動き出しコロナ前の日常に戻りつつある



神話「因幡の素兎(しろうさぎ)」



撮影 令和5年6月18日
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八重垣神社(島根県松江市佐草町227)

2023年07月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月17日

八重垣神社
日本神話に登場する「ヤマタノオロチ」を退治した素戔嗚尊とその妻になった櫛稲田姫縁の神社である

鳥居
訪れてみたい神社の一つでもあり、楽しみにしていた



額には「八重垣神社」



手水舎



随神像
参拝者が多かったため随神門を撮るのを忘れていた






狛犬
歴史を感じる狛犬






由緒
古事記や日本書紀に出てくる神話の舞台である
文字を読んでいるだけでわくわくしてくる



拝殿
素戔嗚尊は天より降って出雲の國の簸の川上に到った。その時、川上で泣き声が聞こえた。
そこで声の方を尋ねると、老夫婦がきれいな少女を間にして泣いていた。
老夫婦は脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)といい、少女は二人の娘で奇稲田姫(くしいなだひめ)といった。



素戔嗚尊は泣いていた理由を尋ねた。
老夫婦にはもともと八人の娘がいたが、毎年一人ずつ八岐大蛇という怪物に食べられてしまい、末娘の奇稲田姫だけになってしまった。
そして残った奇稲田姫ももうじき食べられてしまうので、悲しくて泣いていたのだという。



素戔嗚尊は、「八岐大蛇を退治する代わりに奇稲田姫を嫁に欲しい」と申し出た。
老夫婦は喜んでその申し出を承諾した。すると素戔嗚尊は奇稲田姫の体に触れ、たちどころに湯津爪櫛(ゆつつまぐし)の形に変えてしまった。
素戔嗚尊は湯津爪櫛になった少女を御髻(みづら)に挿し、脚摩乳と手摩乳に八回醸した酒を作らせ、八面に塀を立て、各々一つずつ樽を置き、酒を盛らして待った。



時が過ぎ八岐大蛇が現れた。頭と尾はそれぞれ八つずつあり、眼は赤い鬼灯のようであった。
松や柏が背中に生えていて、八つの丘、八つの谷の間に延びていた。
大蛇は酒を飲もうとして、頭を各1つの樽に入れて飲み、酔って眠ってしまった。
そこで素戔嗚尊は十握剣(とつかのつるぎ)を拔いて、ずたずたに八岐大蛇を斬った。
尾を斬った時、剣の刃が少し欠けた。そこでその尾を割り裂いて見ると、中にひとふりの剣があった。
これがいわゆる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」である



本殿
そうした後に、湯津爪櫛になった奇稲田姫とともに結婚の地を探して、出雲の淸地(すが)を訪れ、宮を建てた。
そして「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」と詠んだ。

祭神:素盞嗚尊と櫛稲田姫



山神神社



貴布禰神社



手摩乳神社
稲田姫命の母親



八重垣御神水



石碑
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」



小泉八雲もこれから向かう「鏡の池」に興味を示しているとある



鏡の池



ただの小さな池だが、その由緒を知ると違った感覚になる



占い紙に硬貨をのせ浮かべ早く沈むと良縁が早く遅く沈むと縁が遅いという
占ったこの人はこの先どうなったのか……



天鏡神社
鏡の池の直ぐ上にある神社






占いの紙が近くで沈むと身近な人と遠くで沈むと遠方の人と結ばれるという
占いなど信じていないが面白くてしばらく眺めていた



「神秘 夫婦杉 子宝椿」



境内に戻る



祭神の素盞嗚尊は伊奘諾尊と伊奘冉尊の子
父神から追放され,高天原に姉の天照大神をたずね乱行をかさねたので,姉は怒って天岩戸にかくれた
神話の世界だが考えるだけで楽しくなる



宝物収蔵庫
重要文化財の「板絵著色神像」が展示されている



撮影禁止なので案内板の写真になる



「神秘 夫婦杉 連理玉椿」



資生堂の花椿会はこの木からきているとは知らなかった






撮影 令和5年6月17日
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熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451番)

2023年07月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月17日

熊野大社
「あいたの~愛犬と楽しくお出かけ~」というYouTuberの動画で熊野大社の存在を知り訪れた
山の奥深い場所にあるが、平日でも参拝者も多いのには驚いた



火の発祥の神社として「日本火出初之社」とも呼ばれ、出雲大社と共に「出雲国一宮」である



さざれ石



鳥居



初めての場所は見逃しのないように注意深く歩くようにしている



神橋



鳥居



手水舎



境内図
後に写真を整理し発信する際には、この境内図は大変役に立つ



狛犬






随神門
明治19年(1886)昭和3年(1928)に改築された



大きな注連縄が張られている









「夫婦和合 連理の榊」



石碑には日本の和歌の最初の歌 
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」
作者は戔嗚尊(スサノオノミコト)<熊野大社の祭神>



拝殿
『出雲國風土記』(733年)に熊野大社、『延喜式神名帳』(927年)に熊野坐神社と見え、日本火出初神社とも称され、
古来杵築大社(出雲大社)と並びて出雲の國の大社と遇されたとある



現在の拝殿は昭和53年(1978年)に建てられたもの






出雲大社の注連縄(左方が綯い始め)と同じように張られている



拝殿内部



舞殿
現在建っている舞殿は、もともとは拝殿として利用されていた
昭和53年(1978年)に造宮が行われた時に、舞殿として移しかえられた



舞殿では神楽や舞いが奉納されたり節分などでは豆まきが行われる



奉納額









拝殿側に目を向ける



稲田神社









伊邪那美神社









本殿
伊邪那美神社側から本殿の姿を観ることができた
現在の社殿は昭和53年(1978年)に幣殿と拝殿を増築して完成した



祭神:加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみ くしみけぬのみこと)
  <素戔嗚尊の別名>



原始は現在の「天狗山」の山頂付近にある 巨大な岩(磐座)があり、そこに祭祀されていた
その地は「元宮ヶ成(げんぐがなり)」と 呼ばれている



荒神社









稲荷神社









鑽火殿
大正4年(1915年)造営












社務所



創建は(伝)神代であるが、社殿は比較的新しく歴史的な価値は少ない
しかしながら出雲大社と並ぶ出雲国一宮の雰囲気を感じ取ることができる









また訪れてみたいと思った神社である



撮影 令和5年6月17日
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平濱八幡宮・武内神社(島根県松江市八幡町303)

2023年07月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月17日

平濱八幡宮・武内神社
この日の朝に訪問予定地を検索していたところ「武内神社」の名を発見した
武内宿禰に興味があったので目的地に決定した
急な坂の上に駐車場があった

鳥居
鳥居の額には「武内神社」とあったので、この時は何も考えず先に進んだ



神門



手水舎



神門
手水舎の前に神門があり、平濱八幡宮と武内神社の参道が交差している場所とは全く知らなかった
というより、平濱八幡宮の存在さえこの時は知らなかった
*現在でも整理ができていない



狛犬






平濱八幡宮 拝殿
笑い話のようだがここが武内神社だと思って写真を撮っている



額には「平濱八幡宮」とあるので普通ならこのあたりで気付くのだが疑いもなく通り過ぎる
文字は松江市出身、第25代内閣総理大臣 若槻 禮次郎謹書



拝殿内部









由緒も武内神社だけ読んでいた記憶があり、この時点でも武内神社と思い込んでいる






本殿
創建年代は不詳であるが、天永2年(1111年)、陰陽寮で当社の遷宮の日時を占ったという記録があり、それ以前の創建となる
出雲国最古の八幡宮
主祭神:応神天皇・仲哀天皇・神功皇后



本殿裏の奉納額



巨大な奉納額で本殿の後ろの壁が覆われているようだ






狛犬






境内社 加和羅神社(十二社権現)



御神輿舎



境内社 鹿島神社



「幸の神」



境内社 若宮神社






境内社 武内神社本殿
祭神:武内宿禰命
   武内宿禰命は五代の天皇に仕え、わが国初の大臣として国政に深く関与した






武内神社 拝殿



彫刻が素晴らしい



額の「武内神社」を見て混乱した
これまで武内神社だと思っていた社殿は何だったのか……
この後、同じ場所をもう一度回ってみた



拝殿内部



右が平濱八幡宮拝殿・本殿、左に武内神社拝殿



社務所






やるき達磨
冷頭静修(頭を冷やし静かに学ぶ)



体型は似ているが精神が伴わない私である(笑)



「人も車も無事かえる」



旅行者にとっては心に響く言葉である



撮影 令和5年6月17日
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会見山 安養寺(鳥取県米子市福市724)

2023年07月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月17日

会見山 安養寺
時宗の寺院
創建は南北朝時代に後醍醐天皇皇女瓊子内親王が開基したのが始まりと伝えられてる



ここには「瓊子(たまこ)内親王」の御廟がある



後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の計画が露呈した事で捕縛され隠岐に流されることになった
内親王も変装して随行したが、渡航の直前に身分が知られ隠岐に渡ることが許されなかった
内親王は隠岐に近いこの地に留まり遊行五代安国上人の弟子となる
16歳の時に尼(西月院宮安養尼)となり後醍醐天皇の勅願寺として安養寺を開基した



この時代の歴史については「鎌倉殿の13人」で興味を持っていた
大河ドラマでは後醍醐天皇は悪役になっていたが「瓊子内親王」の話しはなかった



ここは初めて訪れる寺で、この石段の上にはどのような景色があるのだろうか




初めての場所ではできるだけ見逃すことのないように注意深く歩くようにしている
今回は左回りで進んだ



稲荷神社
額には「正一位稲荷大明神」とある



厳しい環境等に曝され頭部が破損している狛犬



稲荷神社なので狐と思われるが……



この祠の名は分からなかった






後醍醐天皇社
後醍醐天皇は、第96代天皇および南朝初代天皇
両統迭立により、実子に皇位を譲位できず、上皇になって院政を敷いて権力を握ることができなかった
鎌倉幕府の両統迭立を壊すために、後醍醐天皇は倒幕運動を行ったが失敗
元弘2年(1332年)隠岐に配流された



狛犬






額には「後醍醐天皇社」



「正中の変」「元弘の乱」「建武の新政」「建武の乱」「南北朝の内乱」など日本の歴史を動かした天皇である



南北朝の内乱で劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日 義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、崩御した
陵は、宮内庁により奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の「如意輪寺内にある塔尾陵」に治定されている






鐘楼






梵鐘には安養寺の由緒らしきものが刻まれていた



本堂
本尊:阿弥陀如来



額には寺号の「安養寺」






石碑



後醍醐天皇皇女 瓊子内親王墓<宮内庁>



暦応2年・延元4年(1339年)8月1日死去 24歳
法号は安養尼



偶然だと思うが後醍醐天皇崩御の2週間前に死去している






安養寺はその後も尼寺として存続した
江戸時代には寺領100石が安堵され境内では芝居興行や富くじが行われるなど盛況だったという









父親思いの娘の話を知りこの寺を訪れたが、その思いが伝わってきたような感じがした



撮影 令和5年6月17日
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鳥取東照宮<旧 樗谿神社>(鳥取県鳥取市上町87)

2023年07月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月16日

鳥取東照宮<旧 樗谿神社>
江戸時代 慶安3年(1650年)の創建
創建より因幡東照宮と称され、明治7年(1874年)から平成23年(2011年)までは樗谿(おうちだに)神社と称されていた



鳥取藩初代藩主池田光仲によって造営された
光仲はわずか3歳で藩主となり、藩主となって16年目の慶安元年12月(1649年)に初のお国入りを果たした
藩主としての威厳を示すため、鳥取城下への東照宮勧進を願い出て許可された






近くにある樗谿公園は梅林、遊歩道、芝生公園が整備され、奥には周囲の緑を映す大宮池があり、憩いの場として知られている



随神門
東照宮のイメージとは異なる簡素な建物だ



気象条件等もあり、偶々なのかも知れないがこれは酷すぎる



拝殿まで少し距離があることもあり、この場所から手を合わせる人を何人か見かけた



手水舎



随神門を背に進むと石段の上に拝殿が見えてくる



拝殿(重要文化財)



桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、こけら葺



東照宮の社殿というと豪華絢爛なイメージがあるが、ここは簡素で上品な感じがとてもいい



本殿(重要文化財)
桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺



祭神:主神として東照大権現
   配神として池田忠継・忠雄・光仲・慶徳を合祀



池田光仲の父・忠雄の生母は徳川家康の次女・督姫で、光仲自身は家康の曾孫となる
光仲が曾祖父・家康を追慕しての東照宮勧進でもあった
かつては豊臣系大名の雄として知られた池田家が幕府への恭順の意を示すための勧進でもあった



本殿扉上の桁には「鷹」の彫刻があり、左甚五郎の作と伝わる






本殿側から見た拝殿



東照宮の彩色を感じる唯一の部分のような気がする



神輿舎






撮影 令和5年5月16日
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瑞松山 景福寺(鳥取県鳥取市新品治町135 )

2023年06月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月16日

瑞松山 景福寺
曹洞宗の寺院
創建は応安2年(1369年) 兵庫県川辺郡猪名川町に通幻寂霊禅師が開山

山門
慶長年間(1596~1615)荒尾隆重(姫路城主 池田輝政の家老)が景福寺11世大桂宗奕禅師に深く帰依
姫路城下に境内を移すと歴代荒尾家の菩提寺とした



その後、輝政を継いだ池田忠雄が元和2年(1616年)に岡山藩に移封
忠雄の跡を継いだ光仲が寛永10年(1633)に鳥取藩と移封すると荒尾家、景福寺ともども随行し現在に至っている
景福寺は猪名川町、姫路市、岡山市、鳥取市の(山号・寺号が同じ)4箇所に存在し「曹洞宗四景福」と呼ばれている



「史家 岡島正義の墓」
鳥取藩の御目付役を辞し、門尾村民婦女子弟の教育にあたりつつ、史書執筆に専念
天保の大飢饉時には、近隣の村々にまで備蓄米を供出したという






本堂
本尊:釈迦三尊
境内では庭師が木の手入れをしていて、全体を撮ることができなかった






この寺院には、戦国武将「後藤又兵衛」の墓が境内にあるということで訪れた



司馬遼太郎の歴史小説が好きで、その中の登場人物の一人が後藤又兵衛。魅力的な武将だと思っていた
NHK大河ドラマ「真田丸」では短時間ではあるが登場し懐かしさを感じていた



まさか、後藤又兵衛がこの地に眠っているとは知らなかった
後藤又兵衛の妻は池田家家臣三浦家の出身だった為、又兵衛の戦死後は実家に随行し鳥取に移った



中央が「又兵衛」右が「妻」左が「息子」



後藤又兵衛は、黒田如水の旧家臣、黒田家家臣時代は「黒田二十四騎」「黒田八虎」に数えられた
大坂の陣では真田信繁(幸村)、毛利勝永、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、明石全登と共に「大坂城五人衆」と呼ばれた



「鳥取藩士 佐分利九之丞父子の墓」



島原の乱では鳥取藩から88名が参陣した



「剣豪 羽生郷右衛門の墓」



剣豪なだけに墓の形も刀に見える



「画家 島田元旦の墓」
谷文晁の実弟で円山応挙の弟子というだけで立派な絵師という感じがする






鬼瓦
享和3年(1803年)の銘がある



220年前のもので記念のため保存している



境内に咲いていた花



撮影 令和5年5月16日
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龍峯山 興禅寺(鳥取県鳥取市栗谷町10)

2023年06月29日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月16日

龍峯山 興禅寺
黄檗宗の寺院
鳥取藩主池田家の菩提寺

山門
偶々なのかこれまで黄檗宗寺院をあまり訪れたことがない
この山門の屋根の形も珍しい
数年前に黄檗宗大本山萬福寺を訪れた時の総門と同じ形をしている
中央の屋根を高くし、左右を一段低くした中国門の牌楼(ぱいろう)式というらしい



扁額には山号の「龍峯山」



鐘楼






本堂(国登録有形文化財)
寛永9年(1632年)池田光仲が岡山藩より鳥取藩に転封となり、池田忠継の菩提寺を鳥取に移した
臨済宗妙心寺派の寺院で忠継の院号である龍峯院殿より「広徳山 龍峯寺」と名乗っていた



住職が黄檗宗への転向を願い池田光仲はそれを認めた
しかし、妙心寺はこれを不服とし転向を認めず、両者間で争議が起こった



元禄6年(1693年)に池田光仲が没し、翌年の元禄7年(1694年)寺号が妙心寺に返納された
こうして黄檗宗に改宗され、光仲の院号である興禅院殿より寺号が「龍峯山 興禅寺」と改められた
その後、藩により興禅寺の隣地に再び龍峯寺が建立され、忠継の他、輝政・忠雄の位牌が移された
興禅寺は池田家の菩提寺ではあるが墓所はない



明治の廃藩置県以後は藩の支援が途絶え、経済的危機に見舞われた
本堂の売却を希望し、兵庫県美方郡新温泉町浜坂の龍雲寺に明治21年(1888年)に移築された









現在は、もとの御霊屋を改造して本堂としている
文化11年(1814年)に建てられた入母屋造平入の本堂主体部の前面に、御拝ノ間・拝殿と向拝が取り付き、複雑な屋根形式となっている
平成25年(2013年)12月、国の登録有形文化財に登録された









「渡辺数馬の墓」 調べてみると……
「日本三大仇討」とは,曽我兄弟の仇討,赤穂浪士の討入り,伊賀上野の敵討という有名な三つの仇討事件のこと
一富士は曽我兄弟,二鷹は赤穂浪士,三茄子は 荒木又右衛門 を指している



「猪田伊折佐の墓」 初めて聞く名前で墓には行かなかった






「臼井本覚の墓」 こちらも初めて聞く名前であった



墓石の整備をしていた職人に場所を聞いた



歴史のある地域に住む人の話しは面白く、現地に来て学ぶことが多い



「尾崎放哉句碑」
種田山頭火らと並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人だという



撮影 令和5年5月16日
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補陀落山 慈眼寺 観音院(鳥取県鳥取市上町162)

2023年06月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月16日

補陀落山 慈眼寺 観音院
天台宗の寺院
江戸時代初期(1630年代前半)の創建
寛永16年(1639年)頃に現在地に移り現在の号に改めたとされる

標柱「名勝 観音院庭園」
庭園が有名らしく駐車場には車も多く、参道には若い女性がいる
よく見ると結婚衣装を着ての前撮りらしい
過去にも成人式の前撮りとか何度か見かけたことがある



山門



扁額には山号の「補陀落山」



本堂側だと分かりやすいが鐘楼門になっている



本堂
本尊は聖観世音菩薩
観音院は、「因幡観音霊場」の第一番札所であるとともに、「中国観音霊場」の第三十二番札所でもある



額には「観世音菩薩」



奉納額には多くの俳句が記されている



鳥取藩主池田家の祈願所八ケ寺(1709年指定)の一つとして栄えた
八ケ寺<日香寺、芳心寺、真教寺、最勝院、観音院、円乗院、法泉寺、妙要寺>



境内には2つの観音像がある



台座には「補陀落山 南海観音」とある






もう一つの観音像









観音像から山門を眺める






句碑






参拝者は私一人で、江戸時代初期を代表する名園も観ることもなく戻ることになった



撮影 令和5年5月16日
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宇倍神社(鳥取県鳥取市国府町宮下字一宮651)

2023年06月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年6月16日

宇倍神社
因幡国一宮 孝徳天皇大化4年(648年)の創建

大鳥居
数年前に訪れたことがあると思っていたが、駐車場から鳥居の記憶がない



狛犬






鳥居
額には「因幡国一宮 宇部神社」
奥に見える長い石段の記憶もない(ボケてきたか)
膝が痛くて上れないので知っていたら避けていたはずだ






体重過多による膝痛で、引き返そうかと迷ったが上がることにした



途中から痛みも軽減し、休み休みではあるが上りきることができた






手水舎



社務所



拝殿前には正装したいくつかの家族が祈祷の順番待ちをしていたので社殿の周辺を歩いてみた



拝殿横にある絵馬とお御籤掛け









歴史を感じる灯籠



「武内宿禰命終焉之地碑」
この大きな石を見て記憶が蘇ってきた



社殿(本殿・幣殿・拝殿)



祭神:武内宿禰命
第12代景行天皇より、成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5朝に仕えた
天皇の信任篤く、わが身を投げうって東奔西走、日本の統一に尽力した
わが国で最初に「大臣」の称を賜わり、日本の国造りに功績のあった神である
仁徳天皇55年春3月因幡国の亀金岡に双履を遺し、360余歳でお隠れになったと記されている



拝殿内では祈祷が行われている



福徳亀






センスのある拝殿の額の事も思い出した



拝殿横に何気なく置かれている由緒



拝殿内の様子



飛翔の鳥
この鳥もどう撮ろうかと、悩んでいたことを思い出した(ボケていなかった)



飛翔の鳥を意識して撮ってみたが……



周囲の木々に囲まれた拝殿の姿が美しい









撮影 令和5年6月16日
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亀居山 大乗寺(兵庫県美方郡香美町香住区森 860)

2023年06月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月15日

亀居山 大乗寺<応挙寺>
「応挙寺」の名前で知られる大乗寺
江戸時代の画家・円山応挙とその弟子たち12名の筆になる障壁画が165点が重要文化財に指定されている

山門



その歴史は古く、天平17年(745年)に行基菩薩によって開かれた高野山真言宗の寺院
本尊:聖観世音菩薩(秘仏 33年に一度公開)



山門の彫刻






客殿
山門正面に客殿



客殿唐破風の彫刻



迎えてくれるのは円山応挙(左右に置かれている花が美しい)



山門横の楠は樹齢1200年を超える






鐘楼



薬師堂



額には「瑠璃光殿」






石造五重塔



本堂



額には「大悲殿」









水子地蔵尊



魅力的な石仏






楠の根本と大乗寺の境内









石造五重塔と客殿



大乗寺と円山応挙との関係について
応挙が京都で苦学をしていたところ、当時大乗寺の住職であった密蔵上人が才能を見込んで学資(銀三貫目)を援助した
客殿の建築のときに、恩返しとして一門の弟子と共に大乗寺の障壁画を描いた



内拝料:大人/1,200円 子供/600円(小学生)
客殿の障壁画は計算しつくされた配置により、立体的な曼荼羅を構成している
宗教的空間の具現化を意図したものではないかといわれている



5年前に一度訪れているが、団体さんの後ろで説明を聞いていたのでよく理解できなかった
今回は私一人だったので説明もわかりやすく、質問にも適切に応えてもらうことができた
残念なところがあり、目にしているのは、デジタル再製画
本物は重要文化財の襖絵165面を災害と腐食から保護するための国内最大の収蔵庫に収められていること



撮影 令和5年5月15日
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鹿原山 慈恩寺 金剛院(京都府舞鶴市鹿原595)

2023年06月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月15日

鹿原山 慈恩寺 金剛院
真言宗東寺派の寺院
天長6年(829年)真如法親王(高岳親王)が高野山から弁才天を勧請し創建したという



千年榧(舞鶴市指定天然記念物)
樹齢千年の榧(かや)の大木
京都の自然200選(植物部門)に選ばれている



この参道を歩くととても気持ちが良くなる
そして、その先にあるのは……



三重塔<金剛院塔婆>(重要文化財)
新緑の季節は枝葉が多く塔全体を撮ることは難しい






永保3年(1083年)の建立
修復が加えられているとはいえ、940年前の塔を拝観できることは素晴らしいことだ



有料施設内で相輪を含め塔全体をとれる場所は限られてしまう









手水舎






本堂(京都府指定文化財)
三重塔横の石段の上にある



ズームレンズでごまかしているが実際には上ってはいない
最近、階段を見ると急に膝が痛くなる
過去二度上がり様子も分かっているので今回はあっさり諦めた



年齢とともに諦めが早くなってきた
鳥取県にある三徳山 三佛寺 奥の院 投入堂(国宝)と山形県の宝珠山 立石寺(山寺)は2回目で諦め
昨年訪れた香川県の金刀比羅宮は初回で……






来た道を戻る



宝物殿
運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師の一人である快慶作の仏像が安置されている
その中でも「木造深沙大将立像(重要文化財)」は珍しく貴重だ(重要文化財の深沙大将は4体のみ)
係の女性が国内にある「深沙大将像」を資料により説明してくれた



金剛院庭園(京都府指定名勝)
細川幽斎(藤孝)が作庭したという鶴亀の庭



庭園については、その良さを全く理解できない点が残念なところだ



宝物殿内にあった金剛院を紹介する昔のポスターがあったのでその場所に移動してみた
川を挟んだ公園がその場所になるが、塔の前にある木が生長し塔を隠している



最後に遊び心で撮ってみた



撮影 令和5年5月15日
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佐伎治神社(福井県大飯郡高浜町宮崎59-3)

2023年06月22日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月15日

佐伎治(さきち)神社
ネット検索により、車中泊をした道の駅の近くに1800年の歴史を持つという神社を見つけた



伴 信 友 歌碑
調べてみると、天保の国学四大家の一人に数えられる人物だという
国学とは古事記や日本書紀、万葉集などの古典研究から日本固有の文化や精神を明らかにしようとした学問



祭神:大己貴命(大国主命)は出雲大社と同じ



額には「佐伎治神社」



次の鳥居の社号は字体が異なる






狛犬
境内には多くの狛犬が置かれている



拝殿



拝殿内の額の4カ所に「菊の紋」
皇室、天皇家の家紋で、花弁も16枚の十六弁文様の紋章
由緒ある神社ということがわかる



拝殿内部



幣殿・本殿



本殿
祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)
   素戔嗚命(すさのおのみこと)
   稲田姫命(いなだひめのみこと)



撫で牛






日吉神社



御船舎






和鐘(福井県指定文化財)






御霊神社






戦没者を祀る



雪国の認識はなかったが積雪から祠を護るため覆われている



祭器庫






広峯神社






稲荷神社



目元が個性的な狐












狛犬






神馬



神輿庫
式年大祭『高浜七年祭』(福井県指定無形文化財)で使用される三基の神輿が保管されている









駐車場に戻ろうとしたとき、「大きなカメラですね」とスエット姿の男性から声をかけられた
有名寺社の写真を趣味で撮っていると話すと、実は宮司だと名刺を渡され拝殿の奥まで案内してくれた
金ぴかの狛犬だが修復してこのようになったそうだ



宮司と会話する機会はこれまでなく、祭神について疑問に思っていることを尋ねてみた
私の質問の内容は祭神の形についてである
それは神社では秘密で言えないことになっていると話してくれた



その後も境内を案内され神社の歴史などについても説明を受けた
そのほとんどは記憶からなくなっているが、神社に対する興味は、以前より増してきた



国旗を掲揚している神社などほとんどないなか清々しさを感じていた
そのことを伝えると、理解して貰って嬉しいと言われた



撮影 令和5年5月15日
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朝倉山 真禅院(岐阜県不破郡垂井町宮代2006)

2023年06月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月13日

朝倉山 真禅院
天台宗の寺院
真禅院の前身は天平11年(739年)行基により創建された「象背山宮処寺」とされる
延暦年間(790年頃)勅令があり、最澄によって南宮神社(現南宮大社)と両部習合(神仏習合)され、「大神宮寺」と改称



石段入口付近にある石柱には「朝倉山南神宮寺」と彫られている
天慶2年(939年)平将門の乱の時、朱雀天皇の勅命により調伏の修法を南神宮寺で行ったとある
文亀元年(1501年)火災で焼失し、永正8年(1511年)に再建
慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いで南宮神社とともに焼失し、寛永19年(1642年)に落成



本地堂(重要文化財)
明治元年(1868年)神仏分離により、南宮神社内の寺院・仏堂を統廃合し、当時の真禅院の住職と地元の人々の手により現在地に移築した
明治4年(1871年)までに移築が完了し、朝倉山真禅院として再出発した



本尊:阿弥陀如来



寛永19年(1642年)に再建された



十王堂



鐘楼(岐阜県指定文化財)






梵鐘(重要文化財)
無銘だが撞座(つきざ)の位置、龍頭の取り付き方などに古代鐘特有の様式を示し、奈良時代から平安時代前期の制作と推定



三重塔(重要文化財)
寛永19年(1642年)建立
本尊:大日如来(金剛界)



3年前、道路地図に記載のあった南宮大社を訪れた時、案内板を見ると少し離れた場所に塔の図を発見
地元の人に場所を聞き訪れてみると、何と重要文化財の三重塔であることがわかり歓喜したことを思い出す



昭和57年(1982年)から昭和59年(1984年)にかけて三重の塔の修理が行われた。(昭和の大修理)



午後からの雨予報の通り小粒の雨が落ちてきた
車に傘を置いてきてきたので急ぎ他の堂宇に移動する



観音堂(垂井町指定文化財)



南宮大社奥の院高山社の本地仏であり「高山観音」として親しまれている



護摩堂



釈迦堂



雨が強くなってきたので駐車場に戻る






撮影 令和5年5月13日
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南宮大社(岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1)

2023年06月18日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月13日

南宮大社
美濃国一宮
社伝では、崇神天皇の時代に創建されたとされる
「国府の南に位置する宮」として「南宮」を名乗るようになったとされる



目の前を係の女性が通りすぎて行く
礼の仕方、歩き方に凜とした美しさがある(女性剣士のようだ)
坂本龍馬の婚約者で凄腕の美人女剣士・千葉佐那を思い出した



境内には江戸時代の遺構18棟が残っており、国の重要文化財に指定されている

楼門(重要文化財)






石輪橋(重要文化財)



楼門内にある「随身像」






同じく「狛犬」






楼門の正面には高舞殿。拝殿・幣殿・本殿と続く



手水舎



願かけ絵馬垣






高舞殿(重要文化財)



舞殿と拝殿(重要文化財)
慶長5年(1600年) 関ヶ原の戦いで社殿は焼失し、春日局の願いにより1642年に徳川家光が再建した
この際に作成された文書(重要文化財)が現在まで残されている



回廊2棟(重要文化財)



拝殿(重要文化財)






南大神社(重要文化財)



高山社(重要文化財)



拝殿内部



本殿(重要文化財)
主祭神・金山彦命 (かなやまひこのみこと)
鉱山を司どる神で、全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めている



樹下(このもと)社(重要文化財)



隼人社(重要文化財)



神輿舎(重要文化財)






さざれ石



宝物殿(100円)ではボランティアガイドから展示物についての詳細な説明を聞いた



予報では間もなく雨が降るとの事なので近くにある次の目的地に向かった



撮影 令和4年5月13日
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