今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

伊富貴山 観音護国寺<通称:大原観音寺>(滋賀県米原市朝日1342)

2022年07月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月21日

伊富貴山 観音護国寺<通称:大原観音寺>
最初に訪れたのは、外国人による仏像窃盗事件が関西を中心に発生していた頃である
県外の車両と言うことで巡回中の警察官に職質を受けた場所がこの惣門横
趣味が歴史という警察官で、戦国時代にこの地域で起こった出来事について語ってくれた



惣門(重要文化財)
制作年は不明だが、長浜城の裏門を移築したと伝えられている



観音寺由緒



参道を歩く



若い女性が参道沿いで歓迎してくれる(笑)
ちょっとした心遣いだが嬉しい



階段の奥に本堂が見えてくる



本堂(重要文化財)
伊吹山にあった観音護国寺が、正元年中(1259~60年)に現在地に移転
大原荘の地頭・大原氏の保護を受けながら、弘安年間(1278~88年)までに寺観を整えた



現在の本堂は、正徳5年(1715年)に再建された
桁行5間・梁間5間・向1間の入母屋造り



屋根は、当初葦葺きだったが明治元年(1868年)に桟瓦葺きに改められた






本尊:十一面千手観音



向拝の彫刻



鐘楼(重要文化財)



享保10年(1725年)の上棟で、彫刻の意匠が優れた鐘楼






緑一色の境内で唯一の赤い花



薬師堂
本堂横の廊下からつながっている



初めて訪れた時には、木の腐食・瓦の劣化により屋根はブルーシートで覆われていた
平成30年(2018年)8月、薬師堂の修復落慶を迎えた



天保15年(1844年)の上棟で、正面3間・側面3間半の入母屋造の建物



石造十三重塔



石灯籠



石田三成の水汲みの井戸
三献の茶の逸話で知られる、石田三成(当時 佐吉)と豊臣秀吉(同じく 羽柴秀吉)の出会いの地



観音寺に鷹狩りの際に訪れた秀吉に
一杯目は大きい茶碗でぬるめのお茶を、二杯目は中くらいの茶碗でやや熱めのお茶を
三杯目は小さい茶碗に熱いお茶を差し出した
その才能を認められ、出世の糸口を作ったという話が伝えられている



そのお茶の水をくんだとされる古井戸が、この井戸と云われている



その後、三成は豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる
豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された



霞んでいるが遠くに見えるのが滋賀県最高峰の伊吹山である



撮影日 令和4年5月21日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅井歴史民俗資料館・五先賢の館(滋賀県長浜市)

2022年07月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月21日

旅先で雨の日は屋内施設である博物館や美術館などを訪れるようにしている
道の駅にある「お市の方と浅井三姉妹」の像



浅井歴史民俗資料館(滋賀県長浜市大依町528)
浅井三姉妹には興味を持っていたこともあり、地元で知識を得ようと資料館を訪れた



資料館の門になる



入口には「郷土学習館」とある
1階は「浅井家三代の間」2階は「市と浅井三姉妹の間」になっている



館内は(理由はわからないが)撮影禁止
興味はあるが、一度読んだだけでは理解できない(残念)









五先賢の館(滋賀県長浜市北野町1386)
「担当者の人がとても親切で丁寧に説明してくれる」というネットの口コミで訪れた場所である
その担当者と思われる人が対応してくれたが、地元愛を感じる人で訪れて良かったと思った



遠州流庭園
編み笠門
小雨の中、最初に庭園に案内された
各所に趣向があるという



「雨傘」だと思っていたが聞き違いで「編み笠」をモチーフにしているという
説明されなければ全くわからない



遠くに見える山に浅井の居城「小谷城」があった



「五輪塔」のデザインも斬新だ



「石灯籠」にはアルファベットや数字も



更に、石に隠れた部分にマリア像が刻まれている



屋内に入る
同じ長浜市の施設で写真撮影は諦めていたが、嬉しいことに「自由に撮って下さい」と言われた

旧近江国浅井郷浅井町(現、長浜市浅井町)ゆかりの「賢人」

1 相応和尚(そうおう かしょう)平安時代 831~918年
比叡山千日回峰行の創始者
千日回峰行は、天台宗の聖地、中国・五台山の風習から創始した宗教界最難な荒行
相応は「学問の裏には行が、行の裏には学問の裏打ちが必要。車の両輪の如く両者共に学ばねば本当のものが自分のものにならぬ」として修業に励んだ
菅原道真とは互いに学び、支え合う良き友だった






2 海北友松(かいほう ゆうしょう)戦国時代 1533年~1615年
安土桃山時代の画家
狩野派について画を学んだ。朝廷の御用をつとめ、また豊臣秀吉に仕えて聚楽第に多くの絵を描いた
見識高く、常に武将・貴族・禅僧らと親交し、禅・茶・歌の道にも深かった
建仁寺の水墨襖絵と妙心寺金地彩色屏風が特に有名






「東王父・西王母図」



「東王父」-笑うと口から光を発したという中国の仙人



「西王母」-食べると三千年の長寿を保つ桃を保持する仙人






3 片桐且元(かたぎり かつもと)戦国時代 1556年~1615年 
秀吉に仕え、天正11年(1583)、賤ケ岳の戦いで抜群の功をたてた「七本槍」のひとりとして有名
秀吉死後は秀頼に仕え、豊臣家を救うために徳川家康と交渉するなど心血を注いで努力したが、淀殿らに疑われて志は成らなかった
豊臣家滅亡直後に世を去った






この仏像は、小谷城主 浅井家三代の守り本尊で、落城前に長政は戦禍を免れるよう片桐且元に命じ本尊を移させたもの






「位牌」右-片桐且元、左-片桐孫右衛門(且元の父)



4 小堀遠州(こぼり えんしゅう)桃山時代 1579年~1647年
江戸時代の茶人・造園建築家
多芸多彩の天才で、茶人としては千利休・古田織部と並んで三大茶人の一人に数えられる
徳川秀忠、家光の二代にわたり茶道師範をつとめ、遠州流の祖となった
遠州の造園のなかでも、大徳寺・孤篷庵・桂離宮・二条城などは著名
小室藩主(小室町)となり、日照りで困っている農民のために田根の各所にため池を造った






「徳川宗春 書状」-徳川宗春が小堀に新春の祝いの返礼を述べた書状



「ルソン壺」-安土桃山時代にルソン島から輸出されたのに由来する
       信長・秀吉の時代には茶室内で鑑賞されるようになった



5 小野湖山(おの こざん)明治 1814年~1910年
明治時代の漢詩人
初め医学を学んだが転じて詩を学び、三河国(愛知県)吉田藩に仕えたが、安政の大獄で幽閉された
明治4年(1871年)の廃藩置県後は悠々自適の生活を送り、詩人として活躍した






<大広間に展示>
5歳の時の書



81歳の時の書



扁額「琴書楽」-97歳の時の書



明治16年(1883年)明治天皇から「端渓石硯」を賜る



明治天皇から硯を賜った二人のうちの一人



端渓石硯での書



下賜された硯を使用した書の最初の文字には朱印が押されることになっているとのこと






小野湖山の作品は他の賢人よりも多く展示されている
「北海道」の名付け親の松浦武四郎とも深いつながりがあると力説され、勢いで湖山の本を購入



説明していただいた担当の方が大切に思っているという「絵本太閤記」挿絵の着色画



三姉妹の三女 江と秀忠との間に生まれた子供が凄い



浅井長政は信長に滅ぼされたが、その三姉妹が天下を取ったと思っている



撮影日 令和4年5月21日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

氣比神宮(福井県敦賀市曙町11-68)

2022年07月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月20日

越前国一宮 氣比神宮
仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担う
社殿はほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になる



大鳥居(重要文化財)
寛永年間旧神領地佐渡国鳥居ケ原から伐採奉納した榁樹(むろのき)で、正保2年(1645年)に建立した
高さ36尺(10.9m)柱間24尺、木造両部型本朱漆



空襲を免れた大鳥居は「日本三大鳥居」にも数えられる
扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆









狛犬






中鳥居



外拝殿






拝殿内部



本殿
祭神:伊奢沙別命(いざさわけのみこと) - 主祭神
   仲哀天皇 - 第14代天皇
   神功皇后 - 仲哀天皇の皇后



九社の宮



境内の西方に位置し、本殿を向い九社の神社が鎮座する



絵馬奉納所



芭蕉像
「月清し遊行のもてる砂の上」



神門(門扉)



撮影日 令和4年5月20日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大原山 西福寺 (福井県敦賀市原13-7)

2022年07月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月20日

大原山 西福寺
浄土宗鎮西派の寺院
応安元年(1368年)、後光厳天皇の勅願により、良如を開山として創建された

総門<大門>(敦賀市指定文化財)
寛永年間(1661~1673年)、立石の信徒が寄進したもので、1本の木で建てたと寺誌に記載されている
境内に入ると十数人の方々が雑草などの処理をしていた(感謝)



三門



2・3年前にも訪れた事があるが、「平成大修理」あまり進んでいないように感じる



大玄関(敦賀市指定文化財)
文政4年(1820年)の再建



名勝 書院庭園
江戸時代中期作庭、 面積1400坪、築山林泉式庭園



自然の山と泉、石灯篭等の配置にすぐれた書院庭園で、極楽浄土を地上に表現した庭といわれている






四修廊下(重要文化財)
御影堂から阿弥陀堂へ渡る回廊で、念仏行者が極楽浄土へ往生する姿を再現している



廊下の奥に阿弥陀堂



金毘羅大権現



御影堂への入口



御影堂(重要文化財)
御影堂外陣






圓光大師「法然上人」71才等身大の木像を安置
一刀十念の自作と伝えられる






内陣 天井画






豪華な須弥壇



須弥壇背部の絵画等















阿弥陀堂(重要文化財)
文禄2年(1593年)中興 道残上人が一乗谷から移築したもの



入母屋造瓦葺、一重裳階付



外から見た「四修廊下(重文)」
今上天皇が皇太子の時(昭和58年5月10日)にお成りを頂いた



御影堂(重要文化財)



「大原山」の額は、東山天皇の勅命によって竹内宮二品良尚親王の筆(原本再成)



舎利如来堂



阿弥陀堂(中央)と御影堂(右)



鐘楼(敦賀市指定文化財)
安永年間の建立



椎の樹/スダジイの樹(敦賀市指定天然記念物)



撮影日 令和4年5月20日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常宮神社(福井県敦賀市常宮13-16)

2022年07月10日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月20日

常宮神社(じょうぐうじんじゃ)
古くは氣比神宮(越前国一宮)の奥宮・摂社で「常宮(つねのみや)」「常宮御前」「常宮大権現」とも称された
国宝の「朝鮮鐘」は統一新羅時代の作(文禄の役で朝鮮から持ち帰ったもの)



鳥居(参道入口)



額には「常宮神社」



参道



狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える七福神の「えびす」様が迎えてくれる



鳥居(境内入口)
額には「常の宮」



手水舎



中門(福井県指定文化財)
江戸時代の建立、銅板葺、向唐破風の屋根、正面1間、側面2間の四脚門




中門の奥に拝所が見える



拝所(福井県指定文化財)
江戸時代の建立、銅板葺、向唐破風の屋根
もとは氣比神宮の中門で寛永14年(1637年)小浜藩主 酒井忠勝によって寄進された
昭和18年(1943年)に現在地に移築され拝所となった



額には「常宮大権現」
この「常宮」とは、神功皇后の神託の「つねに宮居し波風静かなる哉楽しや」にちなむという



拝所内部






本殿(福井県指定文化財)
正徳3年(1713年)の再建
正面3間、側面3間、向拝1間の前室付三間社流造



祭神:天八百萬比咩命(あめのやおよろずひめのみこと) - 通称「常宮大神」
   神功皇后 - 仲哀天皇皇后
   仲哀天皇 - 第14代天皇



神功皇后は常宮で腹帯を付けて筑紫で応神天皇を出産したという故事から、常宮神社は安産の神として信仰されている
また、三韓征伐に際して海路の無事を祈願したとの故事から、航海や漁業の守護神としても信仰される



<本殿周囲4社>
東殿宮
祭神:日本武尊命(やまとたけるのみこと)






西殿宮
祭神:武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)






総社宮(右)と平殿宮が並ぶ



総社宮
祭神:応神天皇 - 第15代天皇



平殿宮
祭神:玉姫命(たまひめのみこと、玉妃命) - 神功皇后の妹


<境内社>
恵毘須神社(右)・八坂神社(左)



稲荷神社



末社4棟



祈願燈明



拝所と本殿



中門






拝殿(陸側)
海に面して氣比神宮を拝する



撮影日 令和4年5月20日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金崎宮(福井県敦賀市金ヶ崎町1-4)

2022年07月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月20日

金崎宮(かねがさきぐう)
明治23年(1890年)の創建
祭神:恒良親王・尊良親王



史跡 金ヶ崎城跡
治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる
南北朝時代の延元元年(1336年)から翌2年(1337年)3月にかけて、金ヶ崎城に籠城する新田義貞率いる建武政権残党軍(のち南朝方)の軍勢と
それを攻撃する斯波高経率いる室町幕府・北朝方の軍勢との間で行われた戦い
尊良親王、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛され、3月6日、落城する
恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出したが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月毒薬を盛られて亡くなった。御年15歳であった



鳥居
額には「金崎宮」



「金崎宮縁起」
当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、明治23年9月尊良親王を御祭神とし、宮号を 金崎宮とした
明治25年に恒良親王を本宮に合祀した



「案内図」



鳥居(拝殿前)
金ヶ崎城跡の麓に、足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、新田義顕とともに自害した尊良親王を祀った金崎宮がある



春は桜の名所らしいがこの季節も社殿が緑に囲まれ美しい



狛犬






手水舎



神楽殿
境内の中央にあるのが神楽殿









拝殿



尊良親王とその妻の恋愛伝説や、明治40年代に始まった「花換祭」の風習により、「恋の宮」の別名でも知られている
花換祭には「福娘 香恋(カレン)ちゃん」から、幸福祈願 恋みくじが分けられるらしい



信長の妹お市が、浅井氏裏切りの危機を知らせるため両方を紐で結んだ袋に小豆を入れ陣中に届けた「難関突破守・勝守」もある



本殿
明治36年3月、町内からの出火により本殿以下三棟を焼失
本殿は現在の地に移され、建築様式も流造より神明造に改められた
祭神:尊良親王(たかながしんのう)※後醍醐天皇一の宮
   恒良親王(つねながしんのう)※後醍醐天皇皇太子



拝殿側から見た神楽殿



拝殿の左に移動する



摂社 絹掛神社
明治30年10月19日、社号を金崎宮摂社絹掛神社として御鎮座祭が執り行われた






藤原行房卿、新田義顕卿、気比氏治命、気比斎晴命、瓜生保命、瓜生義鑑命、里見時成命、里見義氏命 、由良具滋命、長浜顕寛命、武田与一命などの将士が祀られている



社務所



室町時代の長禄3年(1459年)守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深まる
足利成氏征討の幕命を受けた斯波義敏は金ヶ崎城を攻撃するも、甲斐方の守りは堅く、義敏方は大敗



金ケ崎の退き口
戦国時代の元亀元年4月(1570年)守護していた郡司朝倉景恒は援軍が遅れたこともあり、織田信長に対し開城する
しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎らに殿を任せ、近江朽木越えで京に撤退する(金ヶ崎の戦い)
家康も秀吉と共に金ヶ崎城に残り信長の撤退の際、殿を務めた
山内一豊も秀吉について殿軍として戦った



撮影日 令和4年5月20日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誓法山 金前寺(福井県敦賀市金ケ崎町1-4)

2022年07月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月20日

誓法山 金前寺(こんぜんじ)
高野山真言宗の寺院
本尊:十一面観世音菩薩(袴掛観音)



「金崎宮」を訪れたのだが本堂の近い場所に「社号柱」があり間違ってしまった
途中で変だと思い気づいたのだが撮った写真は残していた



「金前寺寺歴」では歴史上の人物が次々と登場してくる
天平8年(736年)聖武天皇の勅願により泰澄が開山
弘仁2年(811年)弘法大師空海が訪れる
延元2年(1337年)金ヶ崎の戦いで金ヶ崎城が落城……






扁額には山号の「誓法山」



実はこの寺号札を見るまで「金前寺」とは知らずにいた
動揺し「金崎宮」は何処だと周囲を探したことを思い出す



本堂
金ヶ崎の戦い、織田信長による越前攻め、太平洋戦争敦賀空襲で三度も焼失
現在の本堂は平成元年(1989年)の建立
平成27年(2015年)『今昔物語集』にも由来が記されている本尊の「袴掛観音」が復元される



弘法大師像、聖観世音菩薩像、不動明王像が並ぶ



正式には「弘法大師御入定千百五十年御遠忌記念」



五重塔
私の大好きな塔だが違和感がある
相輪が無いのだ



平成17年(2005年)の建立
工事費は、平成12年~平成17年の寒修行托鉢による市民の尊い浄財積立金を充当



「水子地蔵尊」






楼鐘堂
平成11年(1999年)数多くの鐘楼堂再建寄進者の協力により再建






鐘楼堂側から本堂を眺める



芭蕉句碑(鐘塚)
元禄2年(1689年)8月14日夕、芭蕉と旧知等栽(とうさい)と敦賀に入り気比神宮に参拝



翌15日雨の中を天屋玄流らに案内されて金前寺を訪れた
延元の戦い、陣鐘の物語りを聞いて詠んだのが
「月いづこ 鐘は沈るうみのそこ」






歓喜天堂






納骨堂



建物は新しいがこの場所が日本史上でも重要な地点であることがわかった
近くには私が時々利用する敦賀港フェリーターミナルがある

撮影日 令和4年5月20日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劔神社(福井県丹生郡越前町織田113-1)

2022年07月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月19日

劔神社(別名:織田明神)
越前二の宮 劔神社(つるぎじんじゃ)
織田信長の先祖が当社の神官であったことから氏神と崇めた社

北入口側鳥居
越前町織田文化歴史館大駐車場に車を駐め北入口から入る



鳥居



天満宮






天満宮といえば神牛
菅原道真は乙丑(きのとうし)生まれ、牛と梅を愛したという
神牛の頭部を撫でると智恵が付くという



庚申宮 (こうしんぐう)
劔大明神馬場庚申宮は織田七庚申の一つ



文武天皇の御代に疫病が流行、護摩祈祷をしたところ青面金剛が現れ疫病を鎮めると約束
その年が庚申の年、庚申の月庚申の日だった



三猿






参道



狛犬






旧神前院護摩堂(越前町指定文化財)
この堂宇は、劔神社の神宮寺である織田寺の護摩堂として延宝3年(1675年)に建立された
真言密教の修法により護摩祈祷が行われ、煙のために黒く煤けて当時の面影を残している



手水舎



拝殿
現在の拝殿は弘化4年(1847年)に建立



文政10年(1827年)に劔神社が伏見宮家の祈願所になった機縁による






拝殿内の様子



御神木



祓所



おみくじ・絵馬
織田信長ファンの一人だが、この絵はかっこよすぎる(笑)



おもかる石
右腕の筋肉を痛めているので持つのはやめたが、いつも重く感じる



薬師神社
祭神:少彦名大神 (すくなびこなのおおかみ)



小松建勲神社(こまつたていさおじんじゃ)
祭神:平重盛、織田信長公






奇稲田媛神社(くしなだひめじんじゃ)
祭神:奇稲田媛命(くしなだひめのみこと)



摂社 織田神社<旧氣比社>(福井県指定文化財)
祭神:保食大神 (うけもちのおおかみ)、仲哀天皇 、応神天皇






流造、桧皮葺、欅材、流造り特有の屋根の勾配が優美な江戸時代初期の建物



本殿(福井県指定文化財)
織田神社の撮影と説明文に夢中になり、本殿の撮影を忘れてしまった






戦国武将 織田一族発祥地



縁結び夫婦杉



国宝「梵鐘」の保管庫だった(越前町織田文化歴史館に寄託)



水木稲荷神社



忠魂社






猿田彦神社



越前町織田文化歴史館
越前町の歴史資料館(館内は撮影禁止)
館内に道鏡が失脚した際に神馬とともに奉納されたとの伝承がある国宝の梵鐘が展示されていた



撮影日 令和4年5月19日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大瀧神社・岡太神社(福井県越前市大滝町23-10)

2022年07月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月19日

大瀧神社・岡太神社
全国で唯一“紙の神様”をおまつりする神社
大徳山という霊山の山上にある「奥の院(上宮)」と、山のふもとにある「下宮」から成り立っている
大瀧神社は「大瀧兒権現」という神仏習合の霊場で、白山信仰の本山である平泉寺の末寺として隆盛
その別当「大瀧寺」の境内に、「岡太神社」という紙の神様がまつられていたらしい



狛犬






神門と社殿



寺社巡りを中心に旅を楽しんでいるが、この社殿に最も魅力を感じている



本殿・拝殿(重要文化財)
江戸時代後期の天保14年(1843年)に再建された下宮の社殿
入母屋造りに千鳥破風に唐破風、そしてまた入母屋に唐破風が重なっていく屋根は、全国でも類を見ない



手掛けたのは曹洞宗本山永平寺の勅使門(重要文化財)を手掛けた名棟梁、大久保勘左衛門
彼は、美しさと複雑さを併せもつ唯一の社殿を考案した



祭神:大瀧神社(國常立尊・伊弉諾尊)
   岡太神社(川上御前)



本殿の側面と背面には中国の故事を題材にした丸彫りの彫刻


















土台となっている石は創建当初のものだと地元の方から聞いた









拝殿正面に、獅子、龍、鳳凰、草花の彫刻






光のマジックでデジカメ特有の面白い写真になった



実際はこのような感じ



神輿殿



奏楽殿



少し高い場所から



入母屋に唐破風が重なっていく屋根は芸術的だ(多くの人に知ってもらいたい)






観音堂(絵馬堂)
神仏習合の寺院であった大瀧兒大権現は、明治新政府が出した神仏分離令により「大瀧神社」と改められた



寺院関連の仏像などは処分されてしまうことが多かった
大瀧寺の仏像は近くの法徳寺などのお寺にあずかってもらった



木造十一面観音坐像(越前市指定文化財)



絵馬



鳥居



撮影日 令和4年5月19日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萬松山 大安禅寺(福井県福井市田ノ谷町21–4)

2022年07月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月19日

萬松山 大安禅寺
臨済宗妙心寺派の寺院
福井藩第4代藩主松平光通が大愚宗築を開山として、越前松平家の永代菩提所として万治元年(1658年)に創建した
ほぼ全ての建造物が第二次世界大戦や福井地震の影響を受けることなく創建当時のまま残存している

大安禅寺令和の大修理
重要文化財に指定されている本堂・庫裏・開山堂・開基堂・鐘楼の保存修理工事中であった
ヘルメットを被って工事中の本堂を見学する



かつて姫路城近くを車で通った時に工事中でがっかりして諦めたことがあった
道の駅で、その姫路城から来たというプロのカメラマンと話す機会があり、その事を話した
この先、生きている間にこのような光景は二度と見ることはできないと言われ、彼が撮った写真を見せてもらった
その事が頭にあり、修復工事中の弘前城の写真を撮りにいったこともある
この大安禅寺の令和の大修理の現場に立てたのも幸運だと考えるようにした

本堂(重要文化財)
万治2年(1659年)建立
入母屋造、瓦葺き、六間取りの方丈形式の本堂
本尊:正十一面観音菩薩立像(伝 行基作)



建材の腐食や白アリ被害、柱の沈下など破損の進行が随所にみられ根本的な対策が必要となり
平成30年から12年間かけての大修理となった



開基堂(重要文化財)
延宝5年(1677年)建立 宝形造、瓦葺



霊屋ともいい、開基 松平光通を祀る



初めて訪れたのでわからないが、特別に堂内の拝観ができたのなら嬉しい



開山堂(重要文化財)
寛文10年(1670年)建立 宝形造、瓦葺き



開山 大愚宗築を祀る



千畳敷
係の女性から200mほど歩くと「千畳敷」があると言われ行ってみることにした
このような階段や坂道が続く



途中にあった笠原白翁墓所
170年前頃の天然痘への治療法も無い時代に、痘苗の輸入を当時の福井藩主春嶽へ強く要請
京都へ届いていた痘苗を大雪の栃ノ木峠を七日間もかけて、命がけで越え接種を繋ぎつ福井へ運んだという



千畳敷が何なのかも知らず歩いてきたが福井藩主歴代の墓所ということが案内札で分かった



「もうすこしガンバレ」の札を2・3度目にするが、もう少しだからガンバレだとこの時は思っていた
歩いてみて、弱音を吐くな、もう少しガンバレの意味だったのだと理解した(汗)






墓所入口







中央には藩祖 結城秀康墓石



高さ約4mの舗石は上野寛永寺にある徳川家よりも大きい



福井の名石「笏谷石(しゃくだにいし)」で作られた墓石が立ち並ぶ



その下には1,360枚の同石の石畳が敷き詰められて「千畳敷」と呼ばれるようになった



松平家家紋






駐車場に戻り、車を走らせるともう一つの道を見つけた



庫裏(重要文化財)
万治元年(1658年)の建立
本堂右手に建ち、正面入母屋造、背面寄棟造、瓦葺



鐘楼(重要文化財)
寛文3年(1663年)建立






参道横にある「小安観世音菩薩」



「布袋尊像」



撮影日 令和4年5月19日
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅生石部神社(石川県加賀市大聖寺敷地)

2022年07月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月18日

菅生石部神社<通称:敷地天神・菅生天神>
用明天皇元年(585年) この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのが始まり

社号柱
加賀国二宮で、旧社格は国幣小社



鳥居



神門(加賀市指定文化財)
総欅造りの銅葺き2層の楼門
文政7年(1824年)に起工し、翌年9月に完成



額には「菅生石部神社」



随神像



阿吽一対の組み合わせで安置されている



手水舎



拝殿



『平家物語』巻第七に、志保山の戦いで平家の搦め手を破った木曾義仲が「能美の荘(現・能美市周辺)」を寄進したことが記されている



寺宝には足利氏の寄進状や、前田利常の夫人・天徳院(徳川2代将軍秀忠の娘)が寄進した『蒔絵角赤手箱』(重要文化財)などの文化財も多数ある



「菅生石部神社は全国の斎藤さんの氏神」
平安時代の前期、藤原叙用は、斎宮頭(神宮に奉仕していた未婚の皇女・斎宮の世話を職掌とする斎宮寮の長官)を任ぜられた
それを名誉と考えて、「斎宮の藤原」略して「斎藤」と名乗り、さらに菅生石部神社に祀られる天神を氏神として、一族の繁栄を願った
斎藤氏は美濃国の目代に任ぜられ、美濃に遷るが、その際、氏神の菅生石部神社の分霊を勧請(美濃国には菅生石部神社が17社)
また菅生石部神社の分散とともに、斎藤氏も全国に拡散して隆盛した



本殿
祭神:菅生石部神(天津日高日子穗穗出見命、豐玉毘賣命、鵜葺草葺不合命の三柱の総称)



中世には北野天満宮の社領で「天神」の通称はそこからきた
現在もその名残で境内に牛の像が残っている



神馬



神楽殿



能『敷地物狂』は菅生石部神社の境内(敷地)を舞台とする話
物語は加賀国江沼郡出身で、天慶9年(946年)年に天台宗第15代座主になった「延昌(えんしょう)」の話し



主人公は菅生殿の子息松若。松若は12歳の春、書き置きを残し比叡山に登り必死に勉強をして、偉いお坊さんになった
松若はお供を従えて、生まれ故郷の菅生へ帰ったがが家も家族もいなかった
地元の人びとに家族の消息を聞くと、母親も松若を探しに家を出て、家族が散りぢりになったという
松若は自分が家を出たのと同じ春、敷地の宮で行方知れずの家族をしのび、涙ながらに説法をする
すると親子の情を説く松若のもとに一人のみすぼらしい姿をした老婆がやってきた
松若の話にとても感動した老婆は、松若にお供え物として菰(こも)を差し出した
するとその菰から一通の書状がこぼれ落ちた
実はその書状こそが、松若が家を飛び出すさい、家に残した書き置きだった
その老婆は松若の母親だった
松若と母親は奇跡の再会を果たしたのだった



神門(境内側)を眺め駐車場に戻る




撮影日 令和4年5月18日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小松天満宮(石川県小松市天神町1)

2022年07月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月18日

小松天満宮
創建は明暦3年(1657年)、加賀藩2代藩主前田利常(前田家3代目当主)が隠居城として小松城に入城
城の鬼門にあたるこの地に前田家の遠祖菅原道真の分霊を勧請したのが始まりと伝えらている

社号柱



一の鳥居
鳥居から社殿にいたる参道は北極星から北斗星をみた「逆さ北斗」型をしている



北斗型参道と冬至と七夕の日の出線についての説明



二の鳥居
正面突き当たりにある「筆塚」を左に進む(逆さ北斗型参道)



筆塚



芭蕉句碑「あかあかと日はつれなくも秋の風」



神門(重要文化財)
神門を右に曲がり進む(逆さ北斗型参道)



四脚門、切妻、銅板葺、一間一戸、木部朱塗り



「天満宮」の額



狛犬






願かけ撫牛



各地の天満宮で「牛が動かなくなった」という話しはよく聞く



参道



手水舎



手水鉢に浮かんでいるおもちゃはカラスの被害を防ぐ為のもの(楽しい)



十五重石塔(小松市指定文化財)






十三重塔まではよく見るが十五重塔は珍しい
頂上部に相輪ではなく宝珠を持つことから仏塔ではないという



小松城と天満宮についての説明
加賀藩三代藩主前田利常だ在城下3つの城(小松城・金沢城・守山城)を結ぶ線上に天満宮が立地している
白山山系の妙法山を越えて昇る冬至の日の出が神門を通り本殿に達するように造られている



ほとんどが学業成就関係の絵馬



拝殿(重要文化財)
社殿の造営には那谷寺(小松市)や妙成寺(羽咋市)、瑞龍寺(高岡市)を手懸けた加賀藩御用大工、山上善右衛門嘉広が棟梁を担当した



木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行7間、梁間2間、正面千鳥破風、3間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造板張り



社殿は、前田家の祖菅原道真を祭る北野天満宮を4分の1に縮尺して建てられた



本殿(重要文化財)
祭神:菅原道真、 前田利常公、白太夫神、応神天皇



三間社入母屋造、桁行3間、梁間2間、銅板葺、外壁は真壁造板張り



能楽堂






小松天満宮には数年前にも訪れていて社殿は見えているのに道が分からず苦労したことがある
今回、訪れた事さえ忘れ、近くになって見たことのある景色だと思い出した



今回も道に迷い同じ間違いを繰り返した(笑)
駐車場に戻ると地元の老夫婦に声を掛けられた



さらに、境内の竹林を整備していた男性も加わり楽しい時間を過ごした
一人旅は会話する機会もなく、このような時間は貴重で思い出となった



撮影日 令和4年5月18日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金龍山 天徳院(石川県金沢市小立野4-4-4)

2022年06月30日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月17日

金龍山 天徳院(珠姫の寺)
曹洞宗の寺院
元和9年(1623年)加賀藩主前田利常が、24歳で亡くなった正室 珠姫の菩提を弔うために創建した

山門(石川県指定文化財)
元禄6年(1693年)建立の二重門



明和5年(1768年)の火災で主要伽藍を焼失したが山門は難を逃れた



仁王像












正面に見えるのが本堂
本尊:釈迦牟尼仏



珠姫について
珠姫は慶長4年(1599年)江戸幕府第二代将軍徳川秀忠の次女として生まれた。名前は珠子
母は浅井三姉妹三女のお江であり、家康の孫にあたる



前田家では藩祖利家が亡くなり、二代藩主利長が加賀の国へ戻り藩政を治めていた
その間に、前田が徳川を討つという噂が流れ、家康は軍勢を集めて前田を攻めようとした



利長はすぐに国家老を派遣して、前田家が徳川幕府に刃向かう計画は一切無いことを説明
その証として利長の母、お松の方(芳春院)を人質として江戸に送り、代わりに珠姫を利常の嫁として受けることを約束した
慶長6年(1601年)珠姫3歳のとき加賀の国(金沢)へ輿入れ、14歳で結婚、その後10年間に3男5女を育てた
珠姫は利常の妻として、将軍秀忠の娘として前田、徳川両家の融和のために心を尽くしたが、元和8年(1622年)春、夏姫出産後亡くなった



鎮守堂






魚板を通過して本堂に入る(この先は撮影禁止)
からくり人形「珠姫・天徳院物語」は一見の価値あり



前田利長・利常と浅井三姉妹に興味を持っている私にとっては重要な寺となっている



撮影日 令和4年5月17日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芹谷山 千光寺(富山県砺波市芹谷1111)

2022年06月29日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月17日

芹谷山 千光寺
真言宗の寺院(浄土真宗の多い富山県にあって真言宗の寺院は珍しい)
大宝3年(703年)天竺の僧 法道上人の開基といわれ、彌勒山 安居寺とともに砺波地方でもっとも古い寺とされる
戦国時代には上杉謙信が戦勝祈願をし、江戸時代には加賀藩の保護を受けたと伝えられている



地蔵堂
案内図や参拝順路が各所に置かれ、迷うことなく歩くことができる



この参道を見ただけで期待できる寺院だと確信



山門(砺波市指定文化財)
寛政9年(1797年)の建立
間口6.9m、奥行4.2m、本瓦葺き、総欅造り



富山県内最古の禅宗様形式の三間一戸二階二重門
江戸時代後期の代表的建築



鐘楼堂側から



仁王像
解体修理の結果、この像はスギとヒノキが混用されており、非常に細かい部材で造られていることが判明した






山門から鐘楼堂と観音堂が見える



鐘楼堂



梵鐘を間近で見る
何を書かれているか理解できないところが残念なところだ



天女の彫刻も美しく芸術品だ



観音堂(砺波市指定文化財)
文政2年(1819年)井波大工により建築
総欅造りで間口11.8m、奥行14.3m



入母屋をT字型に上下にずらして組み合わせた総合入母屋造り
唐破風の向拝をとりつけた様式は大胆かつ雄大な建物






井波の彫刻
向拝の迫力のある龍の欄間や「竹に虎」の彫刻、室内の欄間の唐獅子彫刻が見どころ












本堂内
本尊:銅造観世音菩薩立像(秘仏)



視線が合い、儂を撮ってくれと言っているように感じた像(笑)






観音堂からの眺め
ボケ封じと思われる観音像



空海像



観音堂横に順路の札があった



閻魔堂
閻魔像を安置する寺としても知られるようだ



奪衣婆(だつえば)と十王像






閻魔大王



本堂内の様子






天井画



ピカピカに磨かれた床



駕籠



本堂から閻魔堂、観音堂へ続く廊下を歩くと違和感がある
火災の際に延焼を防ぐため簡単に取り壊すことができるようにしているという



外から見るとこの様になっている



本堂



「昭和天皇お休み所」
昭和40年5月 天皇皇后両陛下がお休みになった



御幸門(砺波市指定文化財)
高さ5.3m、幅5.5m。武家屋敷や大寺院の正門に多い「一間薬医門」様式
明治5年(1872)、高岡市の国宝瑞龍寺にあった裏門を移築
1969年に砺波市で全国植樹祭が開かれた際、昭和天皇が通られたことから御幸門という名前が付いた



撮影日 令和4年5月17日
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高瀬神社(富山県南砺市高瀬291)

2022年06月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年5月17日

越中国一宮 高瀬神社
社伝によると祭神(大己貴命)が北国開拓の折、この地に守り神を祀り
国成りおえて後、自らの魂をも鎮め祀り、出雲へ帰ったと伝えられている






鳥居



初めての神社なので境内の様子を眺める
50mほど正面に社殿らしきものが目に入ってくる



「藤井秀直翁之像」
藤井秀直名誉宮司は、平成14年3月(享年97歳)に帰幽
長寿と功績を称えて平成8年「藤井秀直翁顕彰会」が設立され、銅像建立と記念誌「神のまにまに」を作製する事となった



手水舎
昭和45年に伊勢神宮外宮から移築されたもの






竹筒から水が流れる手水舎は初めてだ



水鉢は、新潟県只見川上流から運ばれた自然石でつくられた「洗心」の禊場
水鉢内には高瀬遺跡から発掘された柱を水中で保護している






狛犬






鳥居(拝殿前)



神馬









拝殿
戦国時代の戦乱により荒廃したが、江戸時代に加賀藩主・前田氏の崇敬を受け、手厚く保護された
昭和17年(1942年)より国費で再建が始まるが、基礎工事が完了した昭和20年(1945年)8月に終戦を迎えた



GHQの指令により国費による再建は中止
崇敬者有志により、昭和22年(1947年)に本殿(流造)、昭和23年(1948年)に拝殿(入母屋造)、昭和62年(1987年)に唐破風の向拝殿が完成した






なでうさぎ
祭神の大国主命は、神話「因幡の白うさぎ」において、過ちを犯し体に傷を負った「うさぎ」のケガを癒し、悪しき心をも改心させたと記述されている



自分が病んでる部位と同じ部位を祈念しながら撫でるとご利益があるという



本殿
祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)別名:大国主神



境内に茂る樹齢数百年の杉の巨木



末社 功霊殿
日清・日露戦争から大東亜戦争まで、砺波地区から出征された護国の英霊と、当地方開拓の功労者あわせて6,400余柱を祀る






功霊殿本殿は高瀬神社の旧本殿で、天保7年に建立された井波彫刻の粋を尽したもの



さざれ石



末社 高瀬稲荷社
伏見稲荷大社の分霊を祀る



茶筅塚
使えなくなった茶筅への感謝と茶道の発展・普及を願い建立された



祈り(二紀展 文部大臣賞受賞作品)












撮影日 令和4年5月17日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする