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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

西寒多神社(大分県大分市寒田1644)

2023年08月29日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月29日

西寒多神社
豊後国一宮
以前、訪れようとしたことがあったがたどり着くことができなかった
他の人も「ナビで着かない不思議な神社」と投稿していた



カーナビはパナソニックだが、今回はグーグルとヤフーナビを駆使して到着した
帰りはパナを利用したが酷い目にあった(汗)



駐車場に何が原因か分からないが神聖な場所に相応しくない看板



「萬年橋」から境内を眺める



社務所
看板にあるトラブルの原因を聞こうと思ったが無人であった



手水舎



鳥居



神楽殿



正面に社殿






鬼の歯形石






合併社






日露役記念



狛犬






拝殿
神功皇后が三韓征伐からの帰途、西寒多山(現 本宮山)に臨幸し、その証として山頂に白旗を立てたという
その後、応神天皇9年4月、武内宿禰が本宮山上に祠を建てたのが創祀であるという
本宮山を神体山として成立したと見られている



7世紀の中ごろ、藤原鎌足が百済救援のため豊前国仲津郡まで来た折、西寒多神社に参拝
老巧化した社殿を修築し、太刀一振りと八幡舞面を奉納した



応永15年(1408年)3月、大友家第十代の新世は尊崇のあまり社殿を山麓の現在の地に遷した






神木



本殿



主祭神:西寒多大神 (ささむたのおおかみ)
   <天照皇大御神、月読尊、天忍穂耳命の総称としている>



相殿神:応神天皇、神功皇后、武内宿禰



神庫(大分市指定文化財)
明治19年(1886年)の造営
校倉造りを特徴とした入母屋造り桟瓦葺き、高床式の建物






大分社



天神社









おみくじ・絵馬掛け



厳島神社



萬年橋(大分県指定文化財)
太鼓橋とも呼ばれる石造単アーチ橋



文久2年(1862年)に当時延岡藩領であった寒田村の庄屋らが発起し
岡藩領であった大野郡柴北村(現 豊後大野市)の石工2代目後藤郷兵衛ら20名によって同年に竣工した



撮影 令和5年5月29日
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大御神社(宮崎県日向市日知屋1番地)

2023年08月28日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月29日

大御神社
祭神:天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)から「日向のお伊勢さま」と親しまれている
前回、訪れた時に悔いを残したことがあったので再訪した

鳥居
この鳥居の周辺が駐車場になっている
天気はこれから悪くなる予報だったがまだ大丈夫だ



社号標
祭神の天照皇大御神の二字「大御」が社号になっている



案内板



鵜戸神社
悔いを残したというのは案内板の「白龍」の形が私の撮った写真と違っていたので気になっていた
この案内板を読んで理解していれば良かったのだが……



早速、鵜戸神社に向かう



由緒と祭神



参道の最後の部分は人が一人通れる程度の幅
手すりの右側は崖になっている



岩窟の入口にあるのは流木



岩窟は高さがある
岩窟は人工的につくられたものとホームページに記載があったが信じられない



奥の方に社らしきものが見えてくる
写真では明るいが実際は薄暗く、足もとも滑るので注意深く歩く






「ここから入口を振り返って下さい」と書かれているが、社の撮影に集中していて読んでいなかった
実際にはこの場所で振り返ると「昇り龍の姿」になるというが、違う場所を探してしまった



結果、前回と同じく太めの龍にも見えず、スリムな九州のようになってしまった



この後、うまく撮れたという人の写真を見せてもらうと確かに昇り龍の姿に
数分の距離だが戻る気持ちにもなれず諦めることにした



岩窟からの眺め
右の大きな岩の上にある手すりが参道



参道からの眺め



社殿が自然環境の一部になっているような感じがする



三代の亀



「親亀」






手前が「子亀」 奥が「孫亀」



社殿を真横から眺める



由緒と沿革



狛犬






社務所
ホームページをみると、毎月「巫女便り」が掲載されている



手水舎



社殿(国登録有形文化財)
皇祖天照大御神を祭神とする古社で、創建の年月は詳らかではない
「往古・皇大御神・日向の国高千穂に皇孫瓊瓊杵尊を天降し給うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、
千畳敷の盤石にて、これより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照大御神を奉祀して平安を祈念されたと伝えられ、
後世、此の御殿の霊石の在りし所に一宇を建て、天照大御神を勧請し村中の鎮守と崇敬し奉ると言う」



現在の社殿は、昭和13年(1938年)10月に全面改築されたもの



建物全体が直線形の木造銅板葺で切妻屋根を支える力柱を持つ
棟の両端にV字型に千木を突き出す神明造りが特徴



拝殿内部






竜神の霊(玉)






さざれ石



神座(かみくら)
国歌 君が代の「さざれ石の巌」である



「神座」は、天孫降臨として知られる天照大御神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が絶景の大海原を眺望されたと伝えられる岩



龍神の霊とさざれ石



杭の中心を分岐点として……



左側(海側)は火砕流による「柱状岩」



右側(山側)は「さざれ石」



ラグビー日本代表の必勝祈願
ラグビー日本代表がラグビーワールドカップを控えて行った宮崎での合宿に際して参拝したのち、歴史的快挙を2度も達成した
2015年:南アフリカ代表に歴史的な勝利
2019年:主将リーチマイケルらの発案でさざれ石の前で君が代を歌う(史上初のベスト8)
2023年7月3日~8月3日まで宮崎合宿<参拝したのか?>



撮影 令和5年5月29日

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都農神社(宮崎県児湯郡都農町大字川北13294)

2023年08月27日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月28日

都農神社
日向国一宮
創建は神武天皇即位の6年前、天皇が東征に向かう際に鎮祭したことに始まるという



あぶら石



絵馬には祭神の「大国主命」



茅の輪
素盞鳴尊が旅の途中で、蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで宿を求めた
弟の巨旦将来は、豊かな生活をしていたのにそれを断った
兄の蘇民将来は貧しい暮らしをしていたが、素盞鳴尊を泊めて厚いもてなしをした
素盞鳴尊は再び蘇民将来の家を訪れて、「もし悪い病気が流行することがあったら、茅で輪を作って、腰につけていれば病気にかからないですむでしょう」 と教えた
茅の輪も、最初は人々が腰につけるほどの小さなものだったが、時代がたつにつれて大きくなり、これをくぐって罪やけがれを取り除くようになった



他に参拝者がいなかったので「茅の輪」を潜ってみた



手水舎



お祓い棒が手水舎に置いてあるのは珍しい
説明通り左・右・左と大きく振ってみた



神門



拝殿
正面5間側面3間平入の入母屋造で、背面中央に奥行2間の切妻造妻入の幣殿を付ける



日向国の第一の大社であったが、天正年間の島津・大友の争乱の際、大友氏の兵火により社殿・宝物・古文書等全てを焼失
御神体は尾鈴山麓に避難され難を逃れた



争乱後は長年社殿の再興も無く小さな祠があるのみであった
元禄5年に秋月藩主 秋月種政が再興し、安政6年(1859年)には篤志家の社殿の寄進があった
その後、社殿の老朽化に伴い平成14年に「御造営奉賛会」が設立され、平成19年(2007年)に現在の社殿が竣成された



拝殿内部









本殿
一間社流造銅板葺で、千木・鰹木を置く
旧本殿の造形を踏襲した



祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)< 別名 : 大国主命 > 



社殿後ろにある「神の石納所」






熊野神社
社殿は本社旧本殿






足摩乳神社、手摩乳神社
2社が1宇に鎮座する






素盞嗚神社



神楽殿(旧拝殿)



御神象








願掛け太鼓






厄除弓神事



撫でウサギ



撫で大国






参拝者は誰もいなかったのに振り返ると女性が……



鳥居の方に消えていった

帰りに境内を清掃していた女性に声を掛けられた
遠くからお参りに来てくれたと感謝された
ここは2回目だがいつも声を掛けられ歓迎される



撮影 令和5年5月28日
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霧島神宮(鹿児島県霧島市霧島田口2608番地5号)

2023年08月26日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月28日

霧島神宮
予備知識もなく地図上で鹿児島神宮の近くにあるということで訪れた
初めての場所で駐車場探しに苦労する

社号標
一の鳥居近くにある、駐車場に車を置き緩やかな坂を300m程歩く
80段の石段というがもっとあるように感じる



二の鳥居
ここが表参道になる



坂本龍馬・おりょう新婚旅行記念
坂本龍馬が日本最初といわれる新婚旅行で霧島連峰を訪れた
龍馬が妻のお龍と高千穂峰を訪れた際、何を思ったか「天逆鉾」を引き抜いて見せたという
このことは龍馬自身が手紙で姉に伝えており、手紙も桂浜の龍馬記念館に現存している



霧島神宮展望台



山頂付近に雲がかかりぼんやり見えているのが桜島だ



神聖降臨之詩碑






参拝者が多い神社で人の流れが落ち着いた頃合いをみて先に進んだ



三の鳥居
この先に足を踏み入れたときに、驚いた



参道は木に覆われ薄暗く、その先に社殿が明るく見える(幻想的)



その先に人が多く集まっている



近寄ってみると参拝の順番を待っている人だった
人気に驚きスマホで検索してみると何と社殿が国宝に指定されていた
寺社の国宝建築物は資料を作成しているが漏れていたようである



勅使殿(重要文化財)






登廊下(重要文化財)






拝殿(国宝)
登廊下の先には拝殿
現在の社殿は正徳5年(1715年)島津吉貴の奉納により再建したもの
令和4年に国宝・幣殿・拝殿が国宝に指定された



創建は欽明天皇元年(540年)とも
主祭神:天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊(天孫降臨)



高千穂峰そのものを信仰の対象とする山岳信仰から始まったと考えられる
高千穂峰が天孫降臨の伝承地とされる事から、現在は日向三代にまつわる神々が祀られている



元の社地は、火口に近い場所であったため社殿は噴火でたびたび炎上し、延暦7年(788年)7月の火常峰(御鉢)の噴火で焼失
天慶3年(940年)あるいは天暦4年(950年)に性空上人により瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に再興されるが、噴火の巻き添えで炎上
文暦元年(1234年)の火常峰(御鉢)の大噴火により社殿、僧坊等がことごとく焼失
現在の社殿は正徳5年(1715年)島津吉貴の奉納により再建されたもの



御神木
神木の杉は樹齢約800年と推定され、南九州の杉の祖先ともいわれている



社務所



参拝者が多すぎて他の建物を撮ることができなかった



この帰りに神橋でコンビニのカードを拾う
その手続きに時間がかかり予定が大きく狂ったが、後日、持ち主に届いたと連絡があった



撮影 令和5年5月28日
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鹿児島神宮(鹿児島県霧島市隼人町内2496)

2023年08月25日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月28日

鹿児島神宮
大隅国一宮
鹿児島市内にあると思っていたら違った



石造り太鼓橋



御門神社
境内への石段麓脇に2つの社が建つ






雨之社
祭神:豊玉彦命



菊の御紋がある



御神木
建久年間植樹、樹齢約800年と伝わる



手水舎



龍宮の亀石



鹿児島の地名発祥の地



勅使殿(重要文化財)
令和4年(2022年)本殿及び拝殿、勅使殿、摂社四所神社本殿が重要文化財に指定された






創始は社伝によると遠く神代とも
「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされる
和銅元年(708年)に現在地に遷座され、旧社地には現在摂社石体宮(石體神社)が鎮座している



彦火火出見尊 (別名:山幸彦)はこの地に高千穂宮(皇居)を営み、500有余歳の長寿に亘り間農耕畜産漁猟の道を開拓し国家の基礎をつくったという



扁額には「正八幡宮」
正八幡宮、国分正八幡、大隅正八幡等とも称し全国正八幡の本宮
八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている



拝殿(重要文化財)
慶長6年(1601年)に造営された社殿が白蟻よる被害がひどくなり
宝暦5年(1755年)島津重年の寄進により起工され、翌年、島津重豪の代に竣工
勅使殿は社殿入り口に相当し、北側に拝殿、本殿と並ぶ






拝殿内では巫女が祈祷の準備をしていた



天井画



一部を拡大してみた






彫刻



拝殿と本殿



本殿(重要文化財)
主祭神:天津日高彦火火出見尊(山幸彦)
    豊玉比売命(天津日高彦火火出見尊の后神)
相殿神:帯中比子尊(第14代仲哀天皇)
    息長帯比売命(神功皇后 - 仲哀天皇皇后)
    品陀和気尊(第15代応神天皇・八幡大神)
    中比売命(応神天皇皇后)



昭和59年(1984年)昭和天皇の行幸を仰ぎ、勅使皇族の御参拝は二十余度に及ぶ



本殿は規模が大きく、全体を彫刻や薩摩藩の画家 木村探元の壁画で装飾され、向拝の柱に龍の彫刻が巻き付く



四所神社(重要文化財)
祭神:大雀命、石姫命、荒田郎女、根鳥命






武内神社
祭神:武内宿禰






隼風神社
祭神:日本武命



絵馬堂



社殿を回り勅使殿に戻る






神馬



駐車場に戻る



桜島
道の駅から鹿児島神宮へ向かう道路から桜島を眺める



明日から雨が続くというので今日は忙しくなる



撮影 令和5年5月28日
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枚聞神社(鹿児島県指宿市開聞十町1366)

2023年08月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月27日

枚聞神社(ひらききじんじゃ)
薩摩国一宮ということで訪れたが、薩摩国には2つの一の宮がある
もう一つは同じ日に訪れた「新田神社」である
鎌倉時代以降、枚聞神社と新田神社は薩摩国一の宮の座を巡り激しく争っていたという

一の鳥居
鳥居中央には菊の御紋



手水舎






予備知識は薩摩一宮だけなので案内板記載事項を読んで確認する
主祭神の「大日孁貴命」は天照大神のこと



斎藤茂吉歌碑
昭和14年(1939年)10月 斎藤茂吉は枚聞神社を訪れている
たわやめの 納めまつりし 玉手筥 そのただ香にし わが觸るごと



二の鳥居






社務所



絵馬掛け



案内になっていない(笑)



神馬



勅使殿
社殿は、総朱漆塗極彩色の鹿児島地方独特の建物で、正面に唐破風の向拝のついた勅使殿、その奥に拝殿、幣殿、本殿と連なる



創建の年代は社伝によれば、遠く神代とされているが、神社の縁起には,和銅元年(708年)の創建と記されている
元々は社殿奥に見える「開聞岳」を神体とする山岳信仰に根ざした神社であったと考えられている



鎌倉時代以降は新田神社と薩摩国一宮の地位を巡って激しい争いを繰り広げるようになる
現在の社殿は慶長15年(1610年)に島津義弘が寄進したものを天明7年(1787年)に島津重豪が改築した



拝殿
拝殿内では祈祷が行われていたため正面から撮ることができなかった



主祭神:大日霎貴命(天照大神)
配祀神:五男三女神<天照大神と素戔嗚尊が行った誓約によって生まれた宗像三女神と五柱の男神>



舞殿か? 



奥に神輿が置かれている



勅使門天井画
無人の社殿を撮りたいと勅使門周辺で30分ほど待ったが駄目であった









勅使門奥に見える山が「開聞岳」である






撮影 令和5年5月27日
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新田神社(鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2)

2023年08月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月27日

新田神社
薩摩国一宮
創建は神亀2年(725年)<三国神社伝記による>

二の両部鳥居
約800m先の川内川左岸土手近くに一の鳥居が建っている(知らなかった)
川内川から神社までまっすぐ伸びる「八丁馬場」と呼ばれた参道は桜の名所となっている



新降来橋
鳥居を潜ると大小二つの太鼓橋がある
大きいこの橋は昭和61年に架けられたもの



小さな方は明治25年に架け替えられた石造太鼓橋の降来橋(薩摩川内市指定文化財)
(写真右側に写っている橋だと思うが)この時はその価値も分からずにいた



太鼓橋を渡ると、石段の参道が見えてくる
石段参道入口脇には左右に門守神社が祀られている



東門守神社



西門守神社



旅の疲れもあり石段を上がるのは嫌だと思っていると、数台の車が上へ走って行く姿が見えた
駐車場に戻りその道を進むと石段上に駐車場があった

社殿の礎石
駐車場左側は承安3年(1173年)神火のため焼失した社殿跡地であった



焼失した社殿の礎石の一つ






境内社



末社 高良神社



末社 中央神社



末社 早風神社



新田神社の大樟(薩摩川内市指定文化財)
更に車で坂を上がると、伝承樹齢2000年、年輪生長平均率約650~800年と推定される大樟(おおくす)

与謝野鉄幹・晶子夫妻が参拝に訪れた際に詠んだ歌
「可愛の山の 樟の大樹の 幹半ば 
  うつろとなれど 広き蔭かな」 与謝野鉄幹




子だき狛犬(安産狛犬)









社殿が見えてくる



このような案内板は後のブログ発信のために役立つため撮ってはいるが内容は頭に入っていない



一般の神社では参拝者から見ると拝殿・幣殿・本殿だが
この神社は「勅使殿・舞殿・拝殿・幣殿・本殿」が一直線上に並ぶ



勅使殿(鹿児島県指定文化財)
鹿児島地方独特の建築様式で拝殿の前に勅使殿がある



彫刻



天井画



賽銭箱に菊の御紋






東回廊
この神社は中に入ることができ、間近で社殿を観ることができる
廊下には長椅子も用意されている



社伝によると
「川内の地に到来された天津日高彦火邇邇杵尊(ニニギノミコト)は、この地に千台(センノウテナ)すなわち高殿(高城千台の宮)を築いた
川内(センダイ)の名は、この千台→川内から来ているとされる



舞殿・拝殿(鹿児島県指定文化財)
やがて、ニニギノミコトが亡くなられたのでお墓が造られたがそれが今の「可愛山陵」
そのニニギノミコトの御霊を祀ったのが新田神社の創始である
“新田”という名称には、ニニギノミコトが川内川から水を引いて新しく田圃を作ったという意味が込められているとされる



本殿(鹿児島県指定文化財)
今から八百年程前、承安3年に火災で山の中腹にあった社殿が焼失
朝廷や幕府に伺いをたて現在の山頂に再興した
島津氏が歴代藩主の崇敬は殊に厚く、400年前の慶長年間に島津義久により現社殿のもととなるものが造られた



祭神:本祀一座 天津日高彦火瓊瓊杵尊
   配祀二座 天照皇大御神
        正哉吾勝々速日天忍穂耳尊






可愛山陵(えのやまのみささぎ)
社殿の背後にある墳墓は、明治7年(1874年)宮内省より
皇孫・天津日高彦火邇邇杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト、ニニギノミコト)の陵墓とされた



途中、地元北海道では見ることのできない果実の木



幹の内部が朽ち果てている老木などもある



新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で、現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ管理している
陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しいそうだ



大正9年(1920年)3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝
昭和37年(1962年)明仁上皇(当時の皇太子)及び上皇后美智子(当時の皇太子妃)参拝
皇族の参拝は9回にも及んでいる






撮影 令和5年5月27日
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雁回山 長寿寺 <通称:木原不動尊>(熊本県熊本市南区富合町木原2040)

2023年08月18日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月26日

島原半島から熊本港まで九商フェリーを利用した
6m未満の車両で5000円弱の運賃、約1時間の船旅を楽しんだ

雁回山 長寿寺 <通称:木原不動尊>
天台宗に属する比叡山延暦寺の末寺
熊本市南区富合町木原にあるため、「木原不動尊」の通称で親しまれている
成田山新勝寺(成田不動尊)、目黒区の瀧泉寺(目黒不動尊)と並ぶ日本三大不動尊の1つである



仁王門



仁王像
仁王像シリーズを投稿しているが、腹部が強調された面白い写真になった



表情も独特である



正面には柵があるが横には何もないのも珍しい



仁王像は筋骨隆々とした恐い姿を想像するが、人の良い中年の小太りのオッサンのような感じがする



鐘楼






観音堂



堂内



中央に「十一面観世音菩薩」



向かって右に「源為朝公」
平治の乱で平清盛に敗れる源義朝の弟で、源頼朝、源義経の叔父にあたる
乱暴者で勘当され九州の豊後国に追放された
九州では、鎮西八郎と名乗り、在地の豪族たちと合戦をし3年で九州を平定したといわれている



左に「十一面観世音菩薩立像」



手水舎



本堂
延暦年中(782~806年)伝教大師最澄の開基と伝えられる



鎮西八郎為朝こと源為朝が木原山の要害に城館を築き、鬼門の方角に当るこの寺の不動尊を深く信仰したという
文治年間には、源頼朝が堂宇を再興、祈願所とした
関ヶ原の戦いで小西行長が敗れた後は、行長の所領を引き継いだ加藤清正によって再興された



彫刻



奉納額
扁額には山号の「雁回山(がんかいざん)」
宇土藩第5代藩主・細川興文(月翁)の揮毫
源為朝が、自慢の弓で山上を飛ぶ雁を射落としていたので、雁が山を迂回して飛ぶようになったとの伝説による



本堂内部
本尊:不動明王立像<水引不動>(最澄が一刀三礼して刻んだと伝えられる)
像の胎内には最澄真筆の法華経寿量品が奉蔵されているという



左右に置かれている仏像






縁起



「火渡り」と「湯立て」(2月28日春季大祭)
自宅に戻り動画を検索して見てみた






宝篋印塔(ほうきょういんとう)
肥後の三筆ともいわれている、豪潮律師によって建立された






伝教大師堂






本堂外観






多分初めて見る植物だと思うが……






撮影 令和5年5月26日
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東明山 興福寺(長崎県長崎市寺町4-32)

2023年08月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月25日

東明山 興福寺
十数年前、寺社巡りを始めた頃、参考にしていたのが五木寛之氏の「百寺巡礼」だった
その一つに、この興福寺もあり今回初めて訪れることになった

山門(長崎県指定文化財)
風頭山の山麓に15の寺院が並列する寺町通りの中ほどにある
朱色の山門により「あか寺」として市民に親しまれている



山号の「東明山」は隠元禅師の書
興福寺は、我が国最初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖「隠元禅師」が、中国より初めて日本に渡海され住持した地である



扁額「初登寶地」は隠元禅師の書
日本黄檗宗発祥の地、隠元禅師初登の聖地である



隠元禅師像
隠元禅師像というのは初めて観た
いつもなら数枚写真が残っているのだが、疲れていたためかこの1枚だけ



隠元禅師は中国から承応3年(1654年)長崎へ渡来、興福寺住職として滞在
長崎滞在1年後、禅師は、京都妙心寺竜渓禅師らの懇請により上京、将軍家綱に謁し、勅を承けて日本に留まる決心を定めた
寛文元年(1661年)京都の宇治に故郷黄檗山の山号寺号にちなんだ同じ名の黄檗宗大本山万福寺を開山
僧俗貴賤多くの人々と交わり、慕われて81歳でこの地に永眠された



斎藤茂吉歌碑



大雄宝殿 (重要文化財)
寛永9年(1632年)第二代黙子如定禅師が建立、のちに大火で類焼
元禄2年(1689年)再建、慶応元年(1865年)暴風のため大破
明治16年(1883年)に再建し現在に至る



ほとんどが中国工匠による純粋の中国建築で、資材も中国より運送したもの






「大雄宝殿」と大書した扁額は隠元禅師筆






本尊:釈迦如来
大雄宝殿の中央高く懸けてある瑠璃燈(長崎県指定文化財)は、上海より運ばれ、堂内で組み立てられた



氷裂式組子の丸窓






魚板






媽姐堂(長崎県指定文化財)
媽祖とは「菩薩」「天后聖母」などとも呼ばれる航海の守護神
中国宋代に福建省に起こった土俗的信仰だったが、元代には江南から北京へ糧米を運ぶすべての船舶に祀られた



長崎へ来航する唐船には必ず「媽祖」が祀られ、停泊中は船から揚げて唐寺の媽祖堂に安置した



脇立はふつう赤鬼青鬼と呼ばれる千里眼と順風耳



幡と五色の吹き流し






鐘鼓楼(長崎県指定文化財)
寛文3年(1663年)の市中大火のあと、元禄4年(1691年)に五代悦峰禅師が再興
享保15年(1730年)日本人棟梁により重修



二階建て上階は梵鐘を吊り太鼓を置き、階下は禅堂とした
梵鐘は戦時中に供出して今はない



旧唐人屋敷門(重要文化財)
寛永18年(1641年)出島にオランダ人が収容された
約50年後には市内に散宿していた唐船主以下中国人も民宿を禁じられ、元禄2年(1689年)十善寺郷(現在の館内町)に収容された



約一万坪の広大な敷地内には住宅、店舗、祀堂などが軒を連ね一市街地を形成し、唐館あるいは唐人屋敷と呼ばれた
当時の建物は大火や移転などで残っていないが、この唐人住宅門だけが民家の通用門として遺存していたのを、興福寺境内に復元した
建築年代は不明だが、天明4年(1784年)の唐館全焼の大火以降のものと推定される



中島聖堂遺構大学門(長崎県指定文化財)
東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂とともに長崎聖堂は、日本三聖堂のひとつで最も古く由緒あるもの
儒者向井元升が正保4年(1647年)に聖堂・学舎を開いた
大火類焼、一時衰退などあったが、元升の子元成が京より帰来し再興、正徳元年(1711年)に竣成した
中島川のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれた



境内は多くの花で飾られていて美しい
訪れた日は大雄宝殿内で花の写真展が開催されていた



撮影 令和5年5月25日
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聖寿山 崇福寺 その2(長崎県長崎市鍛冶屋町)

2023年08月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月25日

聖寿山 崇福寺 その2

大雄宝殿(国宝)
護法堂の前に位置するのが崇福寺の本堂「大雄宝殿」
正保3年(1646年)1月に唐商 何高材(がこうざい)の寄進によって創建された
長崎市に現存する最古の建物



もともとは1階建てだったが、35〜6年後に日本人の棟梁によって2階が付け加えられた
1階は中国様式、2階が和風様式になっている



扁額には「大雄寶殿」



本尊:釈迦如来坐像(長崎県指定文化財)
大雄とは釈尊の別称の一つ(世尊とも)
本尊である「釈迦如来坐像」が安置されているので大雄宝殿という



昭和10年頃の仏像修理の際、本尊の「釈迦如来坐像」の胎内から、銀製の五臓、布製の六腑等が発見された



金属の五臓があるのはこの釈迦如来が唯一のもの



十八羅漢(長崎県指定文化財)









媽祖門(重要文化財)
媽祖門(まそもん)は媽祖堂の門であり、さらに大雄宝殿と方丈を結ぶ渡り廊下の役割も兼ねている

天井の造りも特徴がある
媽祖堂側(左)は和式の舟底天井



鐘鼓楼側(右)は中国式の黄檗天井となっている
この門の中心を支点として媽祖堂側が山、鐘鼓楼側は埋立地だということが、平成元年(1989年)の保存修理工事の際判明した



この媽祖門の奥が「媽祖堂」
媽祖門を伴う媽祖堂があるのは全国で唯一崇福寺だけ



門や室内に掲げた額が扁額であり、あわせて聯額(れんがく)といい、黄檗寺院には特に多い



崇福寺の聯額では、隠元禅師、即非禅師、千獃禅師が書いたものが長崎県指定文化財となっている



媽祖堂(長崎県指定文化財)
「媽姐堂」に祀られている“媽祖(まそ)”とは、主に華南地方で尊崇されている海の守護神のこと
各唐船ごとにまつられていた媽祖像は、長崎に入港すると媽祖堂に奉安していた









「媽祖」は女神で、10世紀に福建省に実在した天候予測能力を持った女性を神性化したもの



「媽祖」像を挟み、左が「千里眼(赤鬼)像」、右が「順風耳(青鬼)像」
この2神は、元々は金精(千里眼)、水精(順風耳)と呼ばれる妖怪だったが、媽祖によって祓い清められて改心し、以降媽祖の随神となった
順風耳(青鬼)像
千里先の物音や災いを聞き分ける力を持ち、悪巧みを瞬時に聞きつけて媽祖に報告する役目を担う



千里眼(赤鬼)像
千里先のものを見分ける力を持ち、災害から媽祖を護る



開山堂
奥にある建物が媽祖堂









柱の礎盤も中国製
現地では気付かなかったが、鹿、唐獅子、麒麟等の霊獣や梅花、蓮などが浮彫されている



魚板
「かいばん」とも呼ばれ、木魚の原型とされている
食事の時を告げるために叩いたもの






崇福寺は退職時に同僚と訪れた寺院であり今回は再訪となる
あれから10数年経ったがその時の記憶ははっきりと残っている



特にこの帰り側に目線の同じ高さから観る三門(重要文化財)の姿は格別だ



撮影 令和5年5月25日
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聖寿山 崇福寺 その1(長崎県長崎市鍛冶屋町)

2023年08月13日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月25日

聖寿山 崇福寺 その1
黄檗宗の寺院
寛永6年(1629年) 長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から「超然」を招聘して創建
中国様式の寺院としては日本最古のもの

三門(重要文化財)
寺院の外門で中央と左右に門戸のあることから「三門」と呼ばれる
嘉永2年(1849年)に再建された際、初めて「龍宮門」と呼ばれる様式で造られた



中国で材料を加工し、中国人技術者が建設した建物が多い多い崇福寺の中、この三門は日本人によって建てられた



右側の門



左側の門



三門の彫刻



狛犬






石段



階段途中にある



石仏の目の周りが不気味だ



第一峰門(国宝)
第一峰門は、中国の寧波(ニンポー)で加工された材料を唐船で長崎に運び入れ、元禄8年(1695年)に完成した



別名は唐門・海天門・中門など



第一峰と海天の名称は扁額の文字による



軒下の組物は、「四手先三葉栱」と呼ばれる複雑巧緻な詰組は他には例がなく、華南地方にも稀という



裏に回ってみる
赤い門扉に描かれているのは青いコウモリと牡丹の花



九州に5件ある国宝建造物の内、長崎市には3件、その内2件が崇福寺にある(あとの1件は大浦天主堂)
この組物、何故か不思議な魅力があり見入ってしまう



金鑪(きんろ)
黄金で作った香炉






護法堂(重要文化財)
享保16年(1731年)の建立
一つの堂に関帝、観音、韋駄天が祀られている






関帝堂



「護法堂」には、面白い伝説が残されている
関帝像の前の供物がネズミに食べられており、和尚が関帝像を責めて右頬を打ったために、関帝像の右頬の漆が剥げてしまった
翌朝になって見てみると、関帝像の隣にいる「韋駄天」の持つ剣にネズミが刺さっていて、関帝の命令でネズミ退治をしたようだったと



これには和尚も驚き、関帝像の右頬を修理させたが、何度漆を塗り直してもうまくいかず、現在も傷が残ったままなのだと






観音堂






天王殿
堂内の扁額『護法蔵』に因み明治43年(1910年)特別保護建造物に選ばれた際に護法堂と名付けられたという






鐘鼓楼(重要文化財)
2階に梵鐘(長崎県指定文化財)を吊り太鼓を配置し、鐘楼と鼓楼を兼ねている



棟札には、享保13年(1728年)の年号と木匠頭 荒木治右衛門の記載






大釜(長崎市指定文化財)
延宝8年(1680年)に起きた不作により米殻不足となり、長崎で多くの餓死者がでた
崇福寺でも施粥(せじゅく)をはじめたが日々1000人を超えるようになった



更に飢饉は続き普通の鍋では間に合わず、鍛冶屋町の鋳物師に注文してこの大釜を造らせた
一度に米630キロ(4200合)を炊き、飢饉に苦しむ3000人に施粥したと伝えられている



多くの人を飢餓から救った「大釜」



次回に続く

撮影 令和5年5月25日
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長崎山 清水寺(長崎県長崎市鍛冶屋町8-43)

2023年08月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月25日

長崎山 清水寺
真言宗霊雲寺派の寺院
元和9年(1623年)京都・清水寺の僧・慶順により創建された

山門
石段の途中にある



奇縁氷人石
山門脇にある縁結びの願掛け石
江戸時代、迷子探しや男女の縁結びに役立てたと言われている
左側に「たつぬるかた」(尋ねる方)、右側に「をしゆるかた」(教える方)と刻まれ
結婚を望む人は左に、世話人は右に名前や素性を書いて紙を貼ったと伝えられている



石段(仁王門跡)
本堂に上る石段の最初の踊り場には、かつて左右に仁王門が建立されていた



天保14年(1843年)の大火で仁王門が焼失
現在は礎石だけが残されている



石段横の石仏



中門(石門)
明和8年(1771年)四方田慈輔の寄進により石段の最上段に建てられた
「廣大圓満」の文字が彫られている



長崎の寺院ではいくつかみられるが、全国的には珍しいアーチ型の石門
受付の女性の話しによると今は埋め立てられ建物が多くあるが、昔は寺の前まで海だったそうだ
塩害から護るために石門になったのではないかと説明してくれた






鐘楼



手水舎









本堂(重要文化財)
寛永4年(1627年)に現本堂の前身となる木造懸造の舞台をもつ二重屋根の瓦葺本堂が完成
寛文3年(1663年)の大火で境内の一部が被災した



寛文8年(1668年)本堂再建の造営に福建省出身の帰化唐人、何高材が息子の兆普、兆有とともに着手した
何高材の亡き妻は日本人で、その供養のために再建に尽力したのではないかといわれている



平成17年(2005年)から平成21年(2010年)にかけて解体を伴った修復工事が実施され、文久2年(1862年)当時の姿に復元された



扁額には「慈悲世界」



真言宗寺院の本堂であるが、開放的な構えや細部にみられる中国風の意匠などに黄檗寺院との共通性がみられる
長崎県内に残る密教寺院の本堂としては最も古い



堂内に入る
扁額には寺号の「清水寺」



本堂内部



本尊:千手観音菩薩
開祖である慶順僧都が京都清水寺より奉持してきた
清水型といわれる千ある手の一つが頭上で合掌する姿で、頭上には小如像を掲げている



本堂内陣の中央厨子内に秘仏として祀られる
御開帳は60年に一度と決められているという……まさかと思うが



右側厨子
堂内には本尊千手観音立像のほか、千手観音の眷属である二十八部衆像を安置する



左側厨子



堂外に出る
唐船つなぎ石
唐貿易がさかんだった頃、入港する唐船を接岸する際、この石に綱をつないだといわれている
貿易が終わった後、出島湾岸にあったものが境内へ運ばれ石灯籠として元治元年(1864年)に建立された



灯籠
「文化八年」(1811年)と彫られている



京都清水寺のものを模した石舞台に使われた欄干の一部か



写真右側の欄干が「清水石舞台」



桜(そめいよしの)
樹齢100年以上



石仏



面長な風貌は独特



狛犬






大師堂
貞享3年(1686年)に築造された祖師堂の老朽化に伴い、宝暦10年(1760年)に建立された
木造瓦葺・単層入母屋造・三十三坪の畳敷きの建物






内陣中央に弘法大師を祀った大師堂



慶順僧都を祀った祖師堂



親鸞・阿弥陀如来像と地蔵菩薩像を祀った阿弥陀堂



塔のような建物



内部には金ピカの仏像(如意輪観音か)



石仏群









歌でも歌ってそうな六地蔵尊






巡禮武佐衛門(じゅんれいぶさえもん)像



幼児を背負い妻との巡礼姿を石像にした
西国巡礼も30余度に及び長崎西国巡礼の初めといわれる



櫻姫美人稲荷神社
もとは大師堂の脇に鎮座していた石祠



寛政元(1789)年に武元珍・元儔らが奉納



「石造流見世棚造」という珍しい祠で、明治時代に本堂の南東側の丘の上に移された



稲荷社は慶順僧都の時代から境内に祀られ、江戸時代の神仏混合の名残ともいわれている



祠は平成18年9月の台風13号の暴風で倒れた大木の下敷きになり崩壊。平成21年に復元した



石仏群



仏像の風貌について尋ねると、(考えたこともなかったが)長崎の寺院の多くは帰化唐人の影響を受けていると









頭部、胴体が落ちた石仏






清水寺の受付の女性には親切にして頂いた
車を駐車場に置き、寺巡りをするようにと地図と簡単な道案内もしていただいた



撮影 令和5年5月25日
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亀岡神社(長崎県平戸市岩の上町1517番地ホ第2)

2023年08月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月24日

亀岡神社
平戸城へ向かう途中に訪問予定にはなかったが気になる神社があった
歴代平戸藩藩主を祀っているという



狛犬1






狛犬2






中川愛子像
肥前国平戸藩主松浦清の11女として平戸に生まれる
姉の夫である園基茂の養女として中山忠能に嫁し、3男2女(忠愛・忠光・公董・栄子・慶子)を産んだ
娘・慶子が孝明天皇に仕え、やがて愛子の孫にあたる皇子・祐宮睦仁親王(のちの明治天皇)を産むと4歳時までその養育を任された
のちに、曾孫・明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育にもあたっており、天皇2代の養育に関わったことになる



皇室関係の像なのでプレートの傷が気になった(修復希望)



拝殿(国登録有形文化財)
寛永8年(1631年)平戸藩 藩主 松浦棟が祖霊4柱を平戸城内の霊椿山に祀ったのに創まり(霊椿山神社)
明治になって霊椿山、七郎、乙宮、八幡の4神社を合祀
明治11年(1878年)に現社地に社殿を営み、明治13年に各祭神を遷座、亀岡神社に改称した



阿翁石と呼ばれる松浦市鷹島産の玄武岩で作られた基壇の上に建てられている
桁行3間、梁間3間の入母屋造、本瓦葺で3面に欄干を配した廊下が廻り正面に石段を設ける
内部には合祀した四社のうち三社の額が掲げられ神社の歴史が伝えられる



幣殿・登廊(国登録有形文化財)
幣殿は、拝殿の北側中央から幅1間、奥行き1間半、一段下がった床の突き当たりに御神体の「鏡」が置かれている
登廊は、太鼓橋状に反りを持たせ側面に欄干を配置するなど本殿とともに独特の形式をもつ



本殿(国登録有形文化財)
境内北端中央の高い石垣に本殿が建つ
桁行3間、梁間3間の切妻造で、屋根は鉄板葺で棟に千木と鰹木が飾られている



入口は桁側から入る平入で正面中央に階段があり左右に神像を安置させる独特の形式をもつ






神馬



清宮貴子内親王御手植木






塞渕詞(そくえんし)神社
祭神:密姫命(みつひめのみこと)



社務所



神輿殿



神楽殿(国登録有形文化財)
参道の西面に建ち、桁行3間、梁間3間入母屋造本瓦葺で背面に桁行1間、梁間3間の後座を設ける
床は板張りで、四方を吹放しとしている



国の重要無形民俗文化財の「平戸神楽」を奉納する舞台






撮影 令和5年5月24日
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高野山 最教寺(長崎県平戸市岩の上町1206番地1)

2023年08月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月24日

高野山 最教寺
道路地図を見て気になっていた寺院で訪れることにした
大きな駐車場に車が1台もなく急に不安になった

境内図
この時は「西高野山」というのが最教寺の別称とは知らずにいた
境内図を参考にすることもなく、目の前にあった「本堂」を見逃してしまった



真言宗智山派の寺院
本尊:虚空蔵菩薩像



鐘楼



愛染堂






愛染堂横にある石仏



奥に「霊宝館」があり休館日ではなかったが開いていなかった
雑草が生い茂っていて整備されている感じもなかった

鎮守社









肥前七福神






八十八ヶ所 苔の参道



参道横には石仏



緩やかな苔の参道の最後は石段になる



奥の院境内



修行大師像



大日如来像



手水舎



奥の院本殿
伝承によれば、当寺がある場所は空海が唐から帰国して初めて護摩を焚いたところと言われている
真言宗に帰依していた鎮信はこの地に寺院の建立を思い立った



しかし、この場所には曹洞宗の勝音院という寺院があり、鎮信は移転を要望したが住職の竜呑はこれを拒否した
鎮信は勝音院を住職諸共焼き払ってその跡地に最教寺を復興したという



その後、鎮信はしばしば竜呑と弟子の英鉄の霊に悩まされていた
ある時、赤子の泣き声で亡霊が退散しその後悩まされることがなくなったという
当寺ではこれを起源とする「子泣き相撲」が毎年2月3日の節分の日に行われている



本殿蟇股の彫刻









堂内の様子



不動明王









三重大塔
三重大塔は、最教寺が弘法大師の1150年御遠忌を記念して、奥の院本殿横に建立した
相輪までの高さは33.5m



塔好きな私だがこの塔には何故か心が動かなかった









撮影 令和5年5月24日
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唐津神社(佐賀県唐津市南城内3-13)

2023年08月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月23日

唐津神社
創建は天平勝宝7年(755年)と伝えられている

一の鳥居
この純白の鳥居を通り駐車場へ
これほど大きな白色の鳥居は観た記憶がない



明治6年(1873年)に郷社に列し、これを機に現在の「唐津神社」に改称した
昭和17年(1942年)県社に昇格



二の鳥居



狛犬1






手水舎



正面に社殿が見える
初めて訪れる神社ということもあり左側の境内社から回る



水天宮
唐津在住の筑後人会が筑後地方の総氏神である久留米水天宮を勧請









白玉稲荷神社
江戸末期頃、唐津唐房の黒崎坊が新町の町内安全のため奉祀









廿日恵比須神社
江戸後期頃、刀町の各家で恵比須講が組織され宮座を定めて祀っていた
その後町内で祭礼をしていたが、昭和58年、当神社境内へ奉遷






火伏稲荷神社社
文化年中(1804~1818)、唐津の首町であった本町が町内安全を祈願し稲荷大神を勧請
明治37年当神社境内へ奉遷









狛犬2






狛犬3






三の鳥居



拝殿
昭和13年竣工 間口6間・奥行3間



社伝によれば、神功皇后が三韓征伐に際して航海の安全を住吉三神に祈願
帰朝後に報謝のため松浦の海浜に宝鏡を縣けて三神を祀ったのが起源とされる



額には「唐津大明神」
天平勝宝7年(755年)領主であった神田宗次が神夢により海浜に赴くと、漂着してきた宝鏡入りの筺を得た
神功皇后の捧げた鏡であろうと帝に奏聞したところ、「唐津大明神」の称号を賜ったという



文治2年(1186年)領主 神田廣が社殿を再建し、家祖 神田宗次の神霊を合祀し二ノ宮とした



本殿
祭神:一ノ宮 住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
   二ノ宮 神田宗次公



境内図(分かりやすく参考になった)






社務所



狛犬4
石燈籠の上に乗り面白いポーズをとっている






白飛稲荷神社
慶長の頃、京都伏見より呉服町に飛来された稲荷を祀る






壽社
少彦名神、国安命、神亀之霊の三柱を祀る






粟島神社
元は氏子町中町に鎮座していたが、昭和32年 社殿を境内で新築し和歌山淡島本社より御分霊を勧請






鳥居天満宮
天明3年、京町の豪商 常安久右衛門保道は太宰府天満宮へ青銅製の大鳥居を奉献した
製作成就を祈念し木綿町の鋳造場に太宰府より天満宮を勧請
大正年中(1912~1926)に当神社境内へ奉遷









古拝殿



この地域の神社を巡り気付いたのだが、いずれの神社でも「神功皇后」の名前が出てくる
私が数回訪れたことのある、秋田県にある坩満寺には神功皇后が三韓征伐の帰路、大シケに遭って象潟沖合に漂着
皇后は臨月近く、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終えた
その後、象潟で半年を過ごし、翌年の4月鰐淵から出帆し、筑紫の香椎宮に向かったという伝説がある
歴史は面白い



撮影 令和5年5月23日
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