今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

東明山 興福寺(長崎県長崎市寺町4-32)

2023年08月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月25日

東明山 興福寺
十数年前、寺社巡りを始めた頃、参考にしていたのが五木寛之氏の「百寺巡礼」だった
その一つに、この興福寺もあり今回初めて訪れることになった

山門(長崎県指定文化財)
風頭山の山麓に15の寺院が並列する寺町通りの中ほどにある
朱色の山門により「あか寺」として市民に親しまれている



山号の「東明山」は隠元禅師の書
興福寺は、我が国最初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖「隠元禅師」が、中国より初めて日本に渡海され住持した地である



扁額「初登寶地」は隠元禅師の書
日本黄檗宗発祥の地、隠元禅師初登の聖地である



隠元禅師像
隠元禅師像というのは初めて観た
いつもなら数枚写真が残っているのだが、疲れていたためかこの1枚だけ



隠元禅師は中国から承応3年(1654年)長崎へ渡来、興福寺住職として滞在
長崎滞在1年後、禅師は、京都妙心寺竜渓禅師らの懇請により上京、将軍家綱に謁し、勅を承けて日本に留まる決心を定めた
寛文元年(1661年)京都の宇治に故郷黄檗山の山号寺号にちなんだ同じ名の黄檗宗大本山万福寺を開山
僧俗貴賤多くの人々と交わり、慕われて81歳でこの地に永眠された



斎藤茂吉歌碑



大雄宝殿 (重要文化財)
寛永9年(1632年)第二代黙子如定禅師が建立、のちに大火で類焼
元禄2年(1689年)再建、慶応元年(1865年)暴風のため大破
明治16年(1883年)に再建し現在に至る



ほとんどが中国工匠による純粋の中国建築で、資材も中国より運送したもの






「大雄宝殿」と大書した扁額は隠元禅師筆






本尊:釈迦如来
大雄宝殿の中央高く懸けてある瑠璃燈(長崎県指定文化財)は、上海より運ばれ、堂内で組み立てられた



氷裂式組子の丸窓






魚板






媽姐堂(長崎県指定文化財)
媽祖とは「菩薩」「天后聖母」などとも呼ばれる航海の守護神
中国宋代に福建省に起こった土俗的信仰だったが、元代には江南から北京へ糧米を運ぶすべての船舶に祀られた



長崎へ来航する唐船には必ず「媽祖」が祀られ、停泊中は船から揚げて唐寺の媽祖堂に安置した



脇立はふつう赤鬼青鬼と呼ばれる千里眼と順風耳



幡と五色の吹き流し






鐘鼓楼(長崎県指定文化財)
寛文3年(1663年)の市中大火のあと、元禄4年(1691年)に五代悦峰禅師が再興
享保15年(1730年)日本人棟梁により重修



二階建て上階は梵鐘を吊り太鼓を置き、階下は禅堂とした
梵鐘は戦時中に供出して今はない



旧唐人屋敷門(重要文化財)
寛永18年(1641年)出島にオランダ人が収容された
約50年後には市内に散宿していた唐船主以下中国人も民宿を禁じられ、元禄2年(1689年)十善寺郷(現在の館内町)に収容された



約一万坪の広大な敷地内には住宅、店舗、祀堂などが軒を連ね一市街地を形成し、唐館あるいは唐人屋敷と呼ばれた
当時の建物は大火や移転などで残っていないが、この唐人住宅門だけが民家の通用門として遺存していたのを、興福寺境内に復元した
建築年代は不明だが、天明4年(1784年)の唐館全焼の大火以降のものと推定される



中島聖堂遺構大学門(長崎県指定文化財)
東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂とともに長崎聖堂は、日本三聖堂のひとつで最も古く由緒あるもの
儒者向井元升が正保4年(1647年)に聖堂・学舎を開いた
大火類焼、一時衰退などあったが、元升の子元成が京より帰来し再興、正徳元年(1711年)に竣成した
中島川のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれた



境内は多くの花で飾られていて美しい
訪れた日は大雄宝殿内で花の写真展が開催されていた



撮影 令和5年5月25日
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 聖寿山 崇福寺 その2(長崎県... | トップ | 島原城 その1(長崎県島原市... »

コメントを投稿

神社・仏閣」カテゴリの最新記事