静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

「公開されない衆院予算委員会議事録」    その公開しない理由とは!?? 笑ってはいられない

2014-09-24 09:34:31 | 時評
   今朝は毎日・政治部;古本記者の記事から。   http://mainichi.jp/shimen/news/20140924ddm005070041000c.html
 <安倍政権が集団的自衛権の行使容認を閣議決定したのは7月1日。これを受け、衆参両院は予算委員会で閉会中審査を行った。7月14日の衆院予算委の議事録を探したが衆院のホームページに見当たらない。すでに2カ月以上たっており、とっくに公開されていいはずだ。衆院事務局に尋ねると「議事録が確定していないため公開できない」との回答だった>。・・・確定しない、とはどういうことなのか? 次の段落を読み、私は爆笑してしまった。

  <確定しない事情は、安倍晋三首相と民主党の海江田万里代表とのやりとりの中にあった。海江田氏が「抑止力を高めればどんどん平和が保たれると本当にお考えか」と質問したのに対し、首相は「抑止力万能主義と私を決めつけるが、抑止力をほとんど認めないような、さすが民主党と感じた」と答弁。これに海江田氏は「抑止力は必要だが万能主義ではだめと言った」と反論したうえで、「大変失礼な、だから民主党だというような言い方。これは取り消してもらわなきゃいけません」と議事録訂正を求め、そのままになっている>。    
 海江田氏が首相に「失礼な発言部分は取り消せ」と求めたが首相が応じていないこと、そのやりとりも含めた内容こそ国民が知る権利をもつ議事記録ではないだろうか? 当事者が発言を残すか否かの結論で記録が確定するのではなく、内容の当否・妥当性とは別の次元で全ての発言は事実として記録されるべきだと私は思うのだが、・・私の頭がおかしいのだろうか?   (言葉というものは一旦口から出てしまえば消すことなどできないし、全ての責任は発言者が負うものである、との世間常識すら国会では通用しない?) 
 → 若し、この世間常識が否定され、発言取り消しの応諾が議事確定保留の理由になり得るなら、何日たとうが、言ってしまったあとでの取り消し要求にも全て応じ、発言者が取り消しを拒否する時は議事録非公開にしないと不公平になる。何故なら、取り消し要求は議場の中で発言直後でなければ応じない、という理屈/慣習?自体に合理性はないため。   ← この論法は誤りですか?  いえ、妙チキリンで非常識だけど、論法は成り立ちます。 さあ、これで なぜ私が笑ってしまったか、ご理解いただけましたね。
 
 事務局の<公開しない理屈づけ>が通るなら、上に述べた如きトンデモナイ非公開要求も今後は正当化される?  笑っている場合じゃない!
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スキッパーと指揮官はこれだけ違う  プロ野球監督にみる   もうひとつの比較< 組織論/リーダー論 >

2014-09-23 16:18:53 | 書評
 MLB中継放送が毎日可能になるほど大リーグに渡り活躍を見せてくれる日本人選手が多くなったなか、貴重な異文化体験を整理して自らの言葉で語れる人は多くない。来日選手側が残した読み物も含め、この手の話題は腐るほど発表されている。野球好きの方ならなおのこと、これまでも目にされただろう。が、私がここで紹介したくなったのは田口壮さんが寄せた記事だ。  http://www.nikkei.com/article/DGXMZO77343380Q4A920C1000000/
  用兵術や試合前の準備のしかた、試合中の采配の振り方などにおける日米の違いを述べた前段は野球ファンならもちろん面白いが、私には田口さんが後半で触れる<選手と監督の関係>の部分が示唆に富み、とても面白い。まず、田口氏は公式な呼び名である<Manager>ではなく選手が監督を呼ぶのは<Skipper>だということから説き起こす。   <Skipper>とは氏がいうように「船長」の俗語なのだが、日本語の<船頭さん>のニュアンスが近いという。
   私はここでハタと膝を打った。というのは私の長男が某州の公立高校のクラブ活動でサッカー部に属したのだが、某日午後、私が練習を覗くと驚いたことに、生徒たちは指導する人を<Coach =コーチ>と呼んでいたからだ。<Teacher>でも<Manager>でもない。他にコーチや監督にあたる人が居るのかと見回したが居ないので帰宅後「あのコーチと呼ばれてた人はコーチで、監督じゃないんだね?」と聞いたら「いや、父さん、あの人は日本でいう監督なんだよ」と息子の弁。  私は何となく腑に落ちないままだったが、アマチュアではなく生活のかかったプロ野球でさえ、ボスのイメージが匂う<監督=Manager><指揮官=Commander>ではなく<船頭さん>と呼ばせる米国社会の人間関係が意味するものを広く考えると、様々なことに行きつく。

  <「監督、ちょっといいですか。野球のことを勉強したいのでお尋ねします。今日はなぜあそこであの選手を代打に起用したのですか? 僕だったら別の選手を起用したと思うのですが」間髪を入れず、ラルーサ監督は理路整然と起用法について説明してくれます。成り行き任せでなく、あらゆる可能性を踏まえて選手を起用していますから、どこからでもかかってきなさい、と余裕しゃくしゃくです。もちろん私も私なりの理論武装をして、質問をします。ただの雑談をしているほど、監督もヒマではありませんから、ここは真剣に意見を戦わすわけです。あれはとてもいい勉強になりました>。と田口さんは使ってくれとの売り込み半分に監督室に行った想い出を披露し、≪選手と監督の議論、日本で成り立つか?≫と大事なポイントを提示。 実に「組織論/リーダー論」の核心ですね?
   <いちいち選手の声に耳を貸さなくてはならないメジャーの監督も大変ですが、野球に限らず、米国では個人がそれぞれ意見を持って、立場にかかわらず主張するのは当たり前のことなのですね。監督としては選手とのコミュニケーションも重要な仕事で、それも給料のうちといったところでしょう。スキッパーと指揮官の違い、おわかりいただけたでしょうか>と田口さんが結ぶ。その違いとは、日米間の<組織における指揮命令と並立する対等な個人同士の人間関係の在り方>の違いである。
 
  如何なる組織であれ指揮命令する立場は必要であり、その任に就く人物の器量が問われるのは普遍的なことだが、アメリカは、たとえ「役割としての責任者」でも、職場内外を問わず、常に一人の対等な人間だととの認識を維持する仕組みの社会だからこそ、セクハラ規制、男女賃金差別の撤廃、女性管理職拡大も最大化できるのだ。ここに日本社会が学ぶものがある、と私は思う。 ・・・・だが、この人間関係原則が国民多数意見として承服できないなら、男女平等も女性の社会進出拡大も日本では難しいだろう。
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昭和天皇への報告にみる  <我れらが民族的弱点>

2014-09-23 08:59:36 | 時評
 今朝の毎日コラム「火論」から  ;http://mainichi.jp/shimen/news/20140923ddm003070152000c.html
 <前回に続き「昭和天皇実録」。1945年6月12日(敗戦のほぼ2カ月前)の項に<表拝謁ノ間において海軍戦力査閲使長谷川清大将に謁を賜い、第一回・第二回の戦力査閲に関する復命を受けられる>とある。天皇の命で戦備を実地に踏査した海軍大将の報告である。実録は内容に触れないが、長谷川は、到底本土決戦に耐える備えではないことを率直に奏上したといわれる。長谷川は若き日に日本海海戦にも参加した海軍の重鎮で、台湾総督を経てこの時は軍事参議官だった。実録の短い記述は多くのことを示唆する。それまで真に実情を反映した情報が届かず、政府さえ正確な情報を持たなかったのではないか>。 ここからコラム子は次のように論を進める。

 <手順を踏んで上がってくる情報ではなく、歩いて目でじかに見た62歳の将軍の報告が現実を伝えた。長谷川の報告から2日後の14日、天皇は体調を崩し床に就く。そして22日、政府、軍トップら最高戦争指導会議のメンバーを集め、「戦争完遂」にとらわれず時局収拾実現にも努めよ、と求めた。しかし事態は進まない。ソ連の仲介という空疎な願望に混乱もしたが、政府や軍も戦争終結に向けてほとんどなすすべもないまま、状況はずるずると悪化する。・・・・これは何だったのか。今日に通じる「決められない」組織的病理を見いだせないか。「戦後70年」を前にしてなお解ききれぬ課題である>。  コラム子は更に井上やすし脚本の演劇「長谷川清」を挙げ、<「わたしは、……わたし自身も含めた、戦争の指導者たちの決断力のなさによって生を断ち切られたひとたちの、名代に選ばれたような気がします」>と主人公に云わせるセリフを添えている。

 私は、ここで<決められない組織的病理>と形容される弱点が、間違っても最近まで続いた<ねじれ国会>のことだとか、或は議会制民主主義固有のもどかしさ論議と誤解、若しくはすり替えぬよう、まず釘を刺しておきたい。結果的現象として現れる<決められない組織的病理>の背景は、単純な「国民性」や「縦割り組織構造論」で片づけてはならない。  私見では、以下の諸要素の複合からもたらされる結果である。
  1) 想像力/予見力の無さから来る「構想力・戦略性の欠如」  2) 科学的/論理的解析結果を直視せず「○○魂」等の精神論に逃げた情動で「なせばなる」に酔う習慣
  3) 最も明澄であるべき軍隊組織でさえ、責任所在を追跡不能に導く曖昧さを「融通無碍の妙味」と称して温存する" 和の美学の称揚 "
  4) 本来は組織構造に発すべき「最高責任を自覚する潔さ」を、辛うじて個人の器で補ってきた武士道徳・矜恃教育の消滅

 これら4つの要素が互いに作用し合って負の側面を強めているのだ。平たく乱暴にまとめれば「情緒に溺れて論理を嫌い、先のことを考えたくない・考えない甘さ/淡白さ」がもたらす民族集団としての弱さである。この弱さは明治維新どころか、遥か大昔から変わっていない。このままでは、たぶん今後も・・・・。
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スコットランドの住民投票に思うこと  < 我々の国家概念のあいまいさ >

2014-09-21 09:56:35 | 時評
 住民投票は独立支持派が敗れる結果に終わり、その住民意思が今後の「英国」政局に与える影響などにを中心に各国の報道が賑わっている。この国際的な波紋を考えると、武力によることなく、16歳まで投票年齢を広げた投票の結果が尊重される西欧伝統の民主的決着であったことが独立・分派運動を抱える国々に与えるかもしれない潜在的な影響も注目したいところだ。(例えば、中国では今回の住民投票の顛末がどう国内報道されたのか・・・。)だが、今回の住民投票を日本国に引きつけて考えたとき、私は改めて英国という呼び方が日本人に長年与えてきた国家認識の曖昧さについて思った。

 我々は、幕末・明治以来「イギリス/英国」の一語で呼び慣わしてきたあの「国」が、約300年以上前から4つの王国の連合体であるのに「イギリス/英国」という日本以外では中国が共用するだけの名称で<単一国家>とみなしてきた。もうひとつの大英帝国という呼び方には王国であるイメージは含まれているが、王国の連合体である事実は匂わない。これを深読みすれば、同じ立憲君主制を採用してきた日本には複数の王朝が並立しない歴史があり、且つ並立自体を認めたくない意思、そして日本は単一民族から構成されるクニだとの主張に適合させるうえでも<連合>王国概念は表したくない、という国家意思がここにはあった、と私は思う。United Kingdom とはいっても中世・近世の王政国家ではなく、政治形態としては連邦国家と呼ぶのが相応しい統治形態なのだが、日本は歴史上、連邦国家に近かったのは徳川幕藩体制の250年だけで、あとは現在も含め全て中央集権国家でやってきたので、クニが連合あるいは連邦であることの実感が湧かない。想像力が及ばないし、正確に呼ぼうという気持ちさえ起きないというべきだろうか。

 ここで私が喚起したいのは、現在の日本国を構成する諸島を古墳時代から振り返ってみたとき、江戸期の琉球列島、幕末以降の北海道島は、九州/四国/本州の3つの島を支配した統一勢力が版図に併合していった異文化・異言語の領域であったという事実である。奈良・平安時代に現在の東北地方へ大和朝廷の軍隊が入り勢力圏に収めたことまで含めるならば、東北地方の編入もこの動きの一環であった。要は、歴史として記録が残る期間をとってみても、日本国は決して単一民族・単一文化で成る国家ではなかった、その自分の生い立ちを忘れた振りをしてはいけないのである。

 忘れた振り、または無視することが我々の<自国を含めた>国家認識を曖昧にさせてきたと思う。特に明治維新以降、植民地主義列強に対抗するためやむを得なかったとはいえ、恰も大昔から単一民族/文化でやってきたクニというストーリーが今日まで通用してきたので、国民の多くは「英国」に限らず、他の国についてもこの様な視点から眺めることをしない。 こういう曖昧さを温存したままの国家認識が、国民の政治意識全般,或は国際情勢認識をも不正確なものにしている危険は既にあると思われる。例えば、地方自治/分権が住民の側から盛り上がらず、霞が関支配で国家統治が続く弊害を上に述べた曖昧さの見地から考え直したら、どうなるか? 具体的には、例えば地方の利権癒着と選挙制度改革、民意の反映とは?などなどである。更に厳しく突き詰めるなら、昨今の地方議会/議員を巡る数々の矛盾/愚行なども、一人ひとりが個人として自立していない住民の統治意識が自ら招いた自業自得、と言えるだろう。
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米国流経営と寄付文化    < 石門心学 vs プロテスタントの勤労倫理 個人の報酬 >

2014-09-20 12:23:37 | 書評
 毎日・朝刊のコラム<経済観測>、今朝の担当はベトナム簿記普及推進協議会理事長・大武健一郎氏。 同氏が掲題で触れた領域に関し興味深い記事を寄せている。
 <米国の著名な宗教社会学者で、ハーバード大などで教授を務めたロバート・ベラー氏が昨年7月、亡くなった。彼は、江戸時代の思想家、石田梅岩を開祖とする「石門心学」を研究したことでも知られ、倹約の奨励や富の蓄積を「天命の実現」と位置づけた心学を「日本人の商業倫理に関する精神的支柱を築いた」と高く評価。明治以降の日本が産業革命を成功させ、経済発展を成し遂げたのも、精神的支柱の存在が大きいと分析した>とベラー氏を紹介。
  
  この見解をもとに大武氏は<梅岩の「実の商人は取引相手方も成り立ち、自分も成り立つことを考えるものだ」との考えは、近江商人の「三方よし」と並ぶ日本の経済倫理の礎になった。この精神を大事にする経営者は、自らや株主の短期的利益の最大化より、「ビジネスの持続的発展」を重視する。役員報酬や株主配当を抑える代わりに、地域社会への貢献など、公共的視点に配慮した経営を目標に掲げる企業が日本に多いのはこのためではないか。( ← 雇用確保が第一であり解雇にも慎重、長期間の人材育成が前提の雇用制度がこれらを裏付ける内部慣習として確立してきた。これも形を変えた地域貢献と見做されてきた。)
  それに対して、米国企業は、経営者や株主利益の最大化を追求することが多い。地域社会への貢献が二の次になる代わり、最大の利益を手にした人たちが、そのお金をもとに寄付や社会貢献活動を行ってきた。寄付文化が欧米で盛んな一方、日本で根付いていないのはこのためだと思う>と地域還元の一形態としての寄付文化に観られる差異に言及している。そして、<今や日本でも上場企業を中心に米国型経営への志向が強まり、役員への巨額報酬や株主還元のための増配というニュースも多くなっている。都市と地方の格差や貧富の差が拡大する中、富める人々にはお金のもらい方だけでなく、寄付の仕方も米国流を身につけることが求められている>と結ぶ。
 
  然し、注意が必要なのは、欧米の寄付活動は○○財団を通していても、教会との結びつきが物心両面で基盤になっていることだ。つまり、かのウエーヴァ―が指摘したプロテスタンティズムの基本的労働倫理観と勤労報酬・蓄財の肯定では、富の個人への集中も悪ではない。寄付が教会を通じて行われるのはGodを通した感謝表明のような行為であるからこそ顕彰され、且つ、いわゆる21世紀の今でもアメリカンドリームが尊重される基礎がここにある。 まさに、キリスト教徒でない日本人には最も理解至難な点だろう。
  従い、我々には過度に映る役員報酬や株主還元の優先と地域還元・寄付は、欧米の人達にとり<自己の貧富を問わず>同じ価値観の土俵で論じられるべき事柄ではないのだ。慈善や富の再分配の観点だけでこれを論じれば、彼らには共産主義イデーに聞こえているかもしれないのだ。・・・・どうか、くれぐれも誤解は避けていただきたい。
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