静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

【書評189-2】〆     ブッダは、なぜ子を捨てたのか?    山折 哲雄 著   集英社新書 0351    2006年7月

2024-06-13 19:42:07 | 書評
  浄土願望は他国と共通するが、日本に根強い「遺骨尊崇」は何ゆえか? ・・・これは今なお私の心に宿る疑問だが、仮の答えは以下。
「先祖崇拝」は男女が子供をつくり家族(ファミリー)と呼ぶ共同生活を営む限り、その家族史を大事に思う心情は古今東西、民族を問わずもつ。従い、祖先の遺骨保存にこだわる日本人のマインドセットと祖先を敬う気持ち自体に直接的な関係は薄いのかもしれない。だとすれば「同族意識・家族の紐帯意識」が日本人以上に強いと目される漢民族における遺骨崇拝の相対的薄さをどう説明するのか? 
 
 欧州近代の個人自立の流れは家族概念と自立する個人を互いに矛盾しないあり方としている。ところが、日本では、ひとたび利害対立が起きると個人の自立は家族の絆との葛藤を生む構図になる。
個人の自立が伝統的家族概念に圧倒される現状があるのだ。「標準世帯モデル固執」「選択的夫婦別姓・同性婚姻への反対」「男系天皇固執」などは、すべからく<伝統的家族概念>を守ろうとする
集団の≪イエ意識≫に源を発している。この≪イエ意識≫は個人の自立云々の論理とは縁遠い、極めて具象的で目に見える(血の繋がり)であり、「無我」などの内面的な抽象論議を嫌う。

 
 遺骨は神道における<清め・浄化>概念とは反対に美しくも清浄でもないが、具体的であり、陶器等に保存すれば消滅しないから「先祖崇拝」のツールにはもってこいだ。
目に見えない彼方に去ってしまった故人を現世で偲ぶよすがの具体的個体を手元に置くことにこだわる。その「遺骨尊崇」が「先祖崇拝」とイコールになった、ここが多分他の文化と異なっている。
飽くまでも抽象的な「死」の概念と共存するのではなく、具体性を帯び続けるモノを伴うことで「無私」は保てると思いたい、こういうことかもしれない。

* 日本の仏教史は大きく言うと奈良・平安期の「国家護持の武器」から鎌倉戦国期の「浄土思想の普及」そして徳川時代の「檀家組織化による葬儀仏教化」に変遷した。この中で禅宗は異彩を放つ。
  達磨は仏陀の教えに近い「無我」「空」「無常」「未来の否定=浄土の否定」を説いたが、発祥の中国でも日本でも禅宗は主流にはなれなかった。インドでも同じ。
   
★ 仏陀は何処へいってしまったのか? これが著者の悩みであり、問いかけである。西行に始まり「~上人」と呼ばれた修行者たち、芭蕉から河口彗海に至る流浪の修行者たちは「個」を生きて死んだ。
  やはり、浄土幻想で衆生の救済に当たるしか教えとしての仏教が生き残る可能性はなかった、ということか。否定できぬ哲学でありながら大衆の生活には共有されず、救済にはならない運命だった?

 未来を否定し死後の世界を描かない。生まれ変わりを否認する。超人や絶対者&魂の措定を認めない態度で生きる、これが仏陀と禅の教えが説くところだ。私は此の教えに従う。   < 了 >
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【書評189-1】   ブッダは、... | トップ | ≪ 宗 教 と ビ ジ ネ ス ≫... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

書評」カテゴリの最新記事