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【書評189-1】   ブッダは、なぜ子を捨てたのか?    山折 哲雄 著   集英社新書 0351    2006年7月

2024-06-13 15:26:08 | 書評
 例によって、一見するとキャッチーなタイトルづけだが、中身を読み進むと著者が本書で伝えたかった核心から外れてはいない。即ち「シッダールダ王子」が<子を捨てる=家出>して、出家した
 修道者の「シャカ(釈迦)」となり、さまよい歩いた6年後、悟りを得て「ブッダ(仏陀)」になる80年の生涯を暗示し、効果的だ。「家出」vs「出家」の語呂合わせだけでない面白さがある。
 本書は仏陀の生涯をたどりつつ、仏教全体を俯瞰的に理解するために不可欠なエッセンスを与えてくれる。  哲学的論及を要約するのはたやすくないが、私なりに挑んでみたい。

* 「シッダールダ王子」は第1子が生まれてすぐ妻子を捨てて家を出た。実にひどい男だが、決心の背景や苦悩を想像しつつ著者は、「シャカ(釈迦)」となった出家後の6年後、行きついた境地が
  【我の否定=無我】であり、それは既存のバラモン教・ヒンディー教にもユダヤ・キリスト教・イスラム教にも存在しない、全く独自の世界だったという。
  ご承知のように【我の否定=無我】こそが人類救済の道だ、とする教えである。「我あり、ゆえに~」のギリシャ哲学とは対極にあり、二項対立とは無縁だ。

* 「無我」ゆえに人間世界の一切は「空」であり「色即是空」「諸行無常」と「ブッダ(仏陀)」は説いて回る。注意すべきは、仏陀はバラモン教に根ざす「輪廻転生」を肯定せず<自らの遺骨を
  崇め奉るのはやめよ>と臨終の際、弟子たちに言ったのだが、その弟子たちは遺骨を分祀し、遺言に背く墓標を建て、経典づくりに走った結果、宗派の分立という歴史をたどっていった。
  この仏陀本人の教えとは違う二つの事:<輪廻転生=浄土思想><墓標=遺骨尊崇>が大乗・小乗の分派後も残り、伝播した地域の既存宗教や地理的環境によって仏陀の教えは変質・変貌してゆく。

★ 中国・朝鮮を経由して伝わった大乗仏教だが、日本伝来後の特色の一つは、哲学的で万人ができるものではない「無我」による出家成仏ではなく「無私」による在家成仏だと著者は言う。
  「無私」成仏とは私心をなくした清らかな人が仏になる事であり、ここには日本列島土着のアニミズムから進化した神道における<清め・浄化>概念が影響している。
  
  二つ目の特色は、死後わたりゆく浄土で人々の目の前に顕れる「ホトケ」が仏像のカタチをとる大乗仏教が、神道では目の前に居ない筈の「神」概念と連合した、いわゆる神仏習合である。
  神道では<目に見えない死者の魂と浄土は山の中にある>ので、山の傍に墓地を創り墓標を建てる行為は仏教伝来後の「先祖崇拝」と結びついた。中国や朝鮮でも「先祖崇拝」はあり、
  葬式や墓地はあるが、必ずしも供養する心は仏教儀式とむすびついていない。 浄土願望は他国と共通するが、日本に根強い「遺骨尊崇」は何ゆえか?    
  西洋人は無論、アジア人の中でも日本人の「遺骨尊崇」は強い。戦地での遺骨収集への執念、アイヌ民族の遺骨標本奪回への戦い。それは「先祖崇拝」の度合いと関連するのか? < つづく >
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