静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

晩節を汚すな ジョー・バイデン

2024-07-12 22:03:54 | 時評
★ <Tarnish One's Twilight Years> と英語ではいう。普通「汚す」とされる失態は汚職・収賄あるいは下半身がらみの不祥事が多い。これは国を問わず古今東西絶え間ない。
  日本では宇野首相の芸妓スキャンダル、猪瀬都知事の徳洲会政治資金ほか、枚挙にいとまがない。辞任に追い込まれる際、周囲も本人も観念させるのが【晩節を汚さず】の格言だ。
  アメリカにも恐らく此の格言<Tarnish One's Twilight Years> は活きているだろうから、そのうち引用する人も現れるだろう。

★ ジョー・バイデン大統領は明らかに老耄がひどくなり、認知症の症状を隠し切れなくなった。ところが本人はそれを無視・否定し、周囲の意見に耳を貸す素直さを既に失っている。
  耳を貸さなくなった事が正常な判断能力を失いかけている証拠であり、もう意固地になっているのだろう。
  不道徳スキャンダルや金銭がらみではなく、職務遂行能力を疑われての立候補辞退要請というのは文字通り前代未聞。はしなくも高齢化社会ならではの珍事となってしまった。
  
☆ 無論、公の輝かしい業績とは無縁な私のような市民にも老耄を諫める意味で、此の格言は有益である。 バイデン氏を他山の石とし、著名人だけに向けられる言葉ではないことを嚙みしめたい
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評190-2】     仏教の歴史 ~いかにして世界宗教となったか~    ジャン・ピエール・ロベール 著  今枝 由郎(訳)     講談社選書メチェ 791    2023年1月

2024-07-12 19:23:36 | 書評
★【仏教伝播とアジアの言語】
① パーリ語:アショーカ王の帝国で用いられていた言語に近いパーリ語は、最古の仏典テクスト(テーラワーダ)に用いられたが、それはブッダ自身が話した言語ではなかったので、既に翻訳
       だった。
② サンスクリット語:仏陀は弟子たちに彼の教えをサンスクリット語で残さないよう忠告していたとされるが、それは先行するバラモン教と同語のつながりが強かったからだ。 
        ⇒ ブッダはバラモン教と自分の悟りは異なることを強く自覚していた。「輪廻」「未来」の懐疑もしくは否定が最たる違いだが、それは時代が下るにつれて曖昧になった。

  紀元1世紀頃、大乗仏教の勃興で、古典サンスクリット語からはかけ離れた「混淆サンスクリット語」の使用が主流となり、中央アジア・チベット・中国・日本に伝わった仏典の大半はこの
  「混淆語」版を翻訳。ブラフマー神(梵天)の言葉(梵語)が真言(マントラ)を記すのにふさわしく、インド文字(梵字)も神聖視されるようになった。
   サンスクリット語による仏典は、タリム盆地及びパミールやヒンドゥークシ地方に現存する<トカラ語・コータン語>の文字文化形成の起源となった。
③ 中国語:サンスクリット語を翻訳する中で、外来宗教たる仏典は中国語に新たな意味を与え、新造語や新概念をもたらした。
       (例・・法、世界、時間)過去・現在・未来の時制、複数表現・能動/受動概念など、中国語の抽象概念と語彙を豊かにした。 ← 日本語への影響も然り。
④ チベット語:文字のほぼ全部がサンスクリット文字に置き換わったが、近代以降は中国による占領で、ラサ地方の方言に基づく近代語の使用が強制された。
⑤ ウイグル語:トルコ系のウイグル族はサンスクリット語からトルコ系言語への翻訳で仏典を翻訳した。 
⑥ モンゴル語:元による中国支配時も仏典のモンゴル語翻訳は試みられたが途絶。再開・完成されたのは満州人の清王朝になってから。然し、モンゴル人僧侶はチベット語の仏典を使い、モンゴル語訳は
        使わなかった。
⑦ 西夏語:タングート王国(中国名で西夏)は元に滅ぼされるまで(1038-1227) 独立を保っている間、漢字を基にアジアで最も複雑とされる「西夏文字」を作り、チベット語の大蔵経
      (カンギュル)を翻訳した。
⑧ 満州語:18世紀、乾隆帝の勅令でカンギュルがチベット僧の監督下、中国語と対照しながら満州語に翻訳された。
⑨ 日本語:最初、仏典は漢字音そのままで読んでいたが、8世紀の万葉仮名ならびに仮名<ひらかな・カタカナ>の発明で僧侶から庶民への仏典普及が促進された。
⑩ 朝鮮語:ハングル文字の発明(1443年)以降、漢語の仏典翻訳に用いられた。唯、儒教の伝統が先に根付いていたので、仏教の振興は日本ほどではなく、特に知識階級は漢字を使い続けた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 東南アジア諸国はパーリ語やサンスクリット語から自国語に翻訳した。ここで著者が翻訳において元の意味と違う意味に変わっている例を挙げているのは面白い。例えば;
「輪廻」を意味するパーリ語・サンスクリット語共通の<サムサーラ>がタイ語では『憐み・悲哀』カンボジア語では『愛』になっている。東アジアではそのような意味変化は少ないのでは。

アジア各地の仏教徒がサンスクリット語から自民族語へ翻訳した経緯をみると、翻訳と宗教伝播の深い繋がりを改めて思うと同時に、翻訳行為は前にみた【原始仏教から大乗仏教・小乗仏教への分岐】とも連動していることに気づく。(言葉の違いは解釈の違いを生む)という文化差異が宗教伝播に及ぼした影響を著者はクリアーに示してくれた。 しかも、朝鮮や日本での翻訳は中国語からの二次翻訳だし、モンゴルはチベット語からの二次翻訳で、ここが他のアジア諸国と違う。
 先行する儒教が仏教を駆逐した中国と朝鮮では仏教が大衆救済宗教として生き残ることはなく、東の果て・終着駅の日本に仏教各宗派の遺産が残り独自の発展を遂げた。   < つづく >
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評190-1】     仏教の歴史 ~いかにして世界宗教となったか~    ジャン・ピエール・ロベール 著  今枝 由郎(訳)     講談社選書メチェ 791    2023年1月

2024-07-12 10:18:27 | 書評
 本書は、フランスで長く仏教研究に携わってきた著者が東西文化を俯瞰しつつ≪ 言語と宗教の関わり合い・結びつきの奥深さ ≫を説く、とても貴重な著作だと感じた。
それは『一神教の支配する西欧・中東世界が東洋に発した仏教をどう捉えてきたのか? 19世紀以降いまに至る欧米の仏教研究をどう評価するか?』という大きな問いでもあり、
著者の答えは、とかく東洋文化圏内で閉じがちな宗教認識と仏教の位置づけを振り返る意味でも私には大変有意義であった。 
 著者が示した視点や問題意識(上掲)に関心を抱く方は、是非、本書を手に取りお読みいただきたい。

章立ては次の13章からなる。
 第1「諸宗教の中での仏教」   第2「ブッダ(仏)」  第3「ダルマ(法)」  第4「サンガ(僧)」  第5「三つの叢書」  第6「大乗と小乗」  第7「中央アジアと中国への伝播」
 第8「チベットからモンゴルへの伝播」  第9「東南アジアへの伝播、そしてインドへの回帰」  第10「朝鮮から日本への伝播」  第11「仏教と言語」  
 第12「仏教の欧米への伝播」  第13「仏教研究批判」            <太字の章は、私が強い関心を抱き、読んだ部分>

 いつものように読書メモを取ったが、示唆に富む内容が余りにも多岐に渡り、丁寧に拾い上げると長大になるため、私に響いた着眼点の中から選び、以下に記したい。

【仏教は宗教なのか、哲学なのか】・・此の問いは、一神教三姉妹(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)と著者が呼ぶ宗教文化圏では長く問われたものだが、著者は第1章冒頭で明確に言う。
 <仏教は西洋概念で言う哲学ではなく、人間の救済に向かう点においてやはり宗教であり、人間世界を超越しない至高存在を中心とした(至高)神なしの一神教である>と。 (P 24)
  つまり、人間世界を超越しない至高存在を中心とした(至高)神はもたないが、人間の救済を目指す故に、仏教は哲学ではなく宗教なのだという。(インド含め東洋に此の設問は存在しなかった)。
  『唯一神の有無ではなく、救済を望む心に応えようとする限り、それは広義の「宗教」である』と断ずる著者の見方がどこまで一神教に生まれ育った人々に受け入れられるのか? 
    何故なら「唯一神を信じる報いとして、信者は救済されると思う」のであり、単なる善行功徳で極楽浄土へ行けるのでは承服できまい。


【原始仏教から大乗仏教・小乗仏教への分岐】
 ◎「教義を深め、瞑想を通じてアルハン(人間として最高の涅槃に居る状態)を目標とする」のが小乗派。
 ◎「無知ゆえカルマ(業)に苦しんでいる此の世の生き物たちに利他的慈悲を向ける存在:即ち(菩薩(ボーディサットヴァ)目覚めが約束された者)を目指す」のが大乗派。
   大乗仏教では【利他的慈悲=知恵の卓越(プラジュナャー・パーラミータ)⇒ 般若波羅蜜】が最も重要な原動力になる。
    慈悲の施し(=廻向 えこう)はカルマの重圧を下げ<菩薩の名を唱えるだけで救われるとの信仰>になる。

 ・・何故分かれていったのか? この背景は、上に述べた「救済」概念の普及と、仏法僧の三宝のうち、<サンガ>特に出家僧団と在家信者の間の溝が遠因であろうか。
  加えて、文字で残されなかった釈迦牟尼の言葉をサンスクリット語で書き留めたものが年を経るにつれ膨れ上がり、それが解釈や経典価値の差異にもなり、インド以外への伝わり方の違いともなった。
  三蔵と呼ばれる「経蔵・律経・論経」の中から次第に「論」が大乗派では拡大して『大蔵経』として重んじられたのに対し、東南アジアに広がった小乗派は三つの経全体を重んじた違いを著者は指摘。
   経典解釈の相違は(法華)(維摩)(金剛)(真言)の分派を生み、それは中国経由で朝鮮と日本に伝わった。チベット・モンゴルへの伝播では(維摩経)が重んじられた。  < つづく >
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Z世代が石丸伸二氏を支持する理由

2024-07-12 07:56:47 | 時評
【毎日】???リベラルにはわからない? Z世代が石丸伸二氏を支持する理由 東京大学大学院情報学環准教授:藤田結子  聞き手【オピニオン編集部・小国綾子】 要旨転載
1) 多くの若者にとって都知事選は「石丸一択」でした。テレビを見ない若者にとって、石丸氏は唯一の、よく顔の見える候補だったからです。
  投開票日の夜のテレビによる石丸氏のインタビューは、象徴的でした。蓮舫氏支持の中高年リベラル層などは、石丸氏の態度を見て、「質問にまともに答えない高圧的で危険な人物が2位に
  食い込むなんて」と嘆いたようです。しかし、若い支持者の目には「古いメディアのテレビがえらそうにリーダー・石丸氏をいじめている」と映りました。
    テレビとネット。普段接するメディアが異なるため、両者は同じ報道にも逆の意味を見いだしていたのです。

  選挙も、若者にとって遠い存在です。「老害の就活イベント」と表した大学生もいます。政治家の多くは高齢で共感できません。そんな中、肌身離さず持ち歩くスマホの中で奮闘する石丸氏は、
  見た目も若く「自分たちの候補」として親近感を抱いたのでしょう。既得権益と闘うかのような彼の言動を「爽快」と語る学生もいます。
  「強いリーダーシップ」「経済に強い」などのキャラ設定や、切り抜き動画などのSNS戦略も、今の若者の感覚にフィットしました。

  広島県安芸高田市の市長時代、市議会で議員の居眠りをとがめ、「恥を知れ!」と怒鳴りつける石丸氏の姿を、動画投稿サイトなどで見かけていたのです。
  「既得権益を持つ議員らがふんぞり返る市議会で一人闘うヒーロー」という物語は、若者の間で徐々に共感を生みだしていきました。
  だから、社会を変えたいと感じている若者の方が石丸氏に投票しました。現状維持で構わない若者は小池氏に投票したと思います。

  ただし、ボランティアに参加したような熱心な支持者はともかくとして、私が聞き取りをした若者たちにとって石丸氏は推し活の対象ではありませんでした。むしろ代替可能な存在です。
  SNSが投票行動に与える影響は十分解明されていませんが、既得権益のような大きな敵を設定し、劇場型選挙を仕掛けられれば、第二、第三の石丸氏が登場する可能性はあると思います。

2) 中高年のリベラル層は、「社会を変えたいならなぜ蓮舫氏を支持しないのか」と思うかもしれません。しかし、蓮舫氏のことを「よく知らない」と語る若者は多いのです。
  「怖い」という印象もあります。蓮舫氏の若者人気が低い理由を、学生たちはうまく言語化できませんが、いくつかの理由が推察できます。
  気遣いを大事にする今の若者たちは、批判的な態度を嫌います。ただ、石丸氏が安芸高田市議会で「恥を知れ!」などと大声で怒鳴ることについては、
  「彼が大きな敵と闘うためには強い口調も必要だ」と受けいれています。男性が怒鳴るのは良いが、女性が怒鳴るのは……というジェンダー規範を内面化している可能性もあると思います。

3) 今、Z世代の最も切実な関心事は、将来不安の大きいこの国でいかに稼いで暮らしていくかなのです。そんな彼らにとって、選挙時の格差是正だ、平等だ、少子化対策だ、という訴えは、
  目下の悩みとかけ離れていて、「は?」というのが正直な感想ではないでしょうか。
   若者はそもそも政治に関心がありませんし、政治の話をよくする人は「変な人」、特定の政党を支持している人は「偏った人」と感じています。
  でも、それは若者だけのせいではありません。そもそも家庭で政治の話をしていません。親世代の政治への関心の薄さも影響しているのではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 インタヴュー記事なので整理してみると、藤田氏の指摘は(1)SNSと選挙活動の連動 (2)反自民型政党への忌避感 (3)政治教育の不在・・の3点に分けられる。
(2)は既成野党が猛省せねばならないし、(3)は与野党問わず、
国家としての統治のあり方の根幹に触れる課題だ。政治意識をなくさせる方向へ導こうとする与党の動きは止めさせねばならない。

(1)については政治家よりもメディア各社に働く者こそ、最も真剣に考える必要がある。それは選挙をおもちゃにする輩の規制とは別のハナシで、個人が私生活をアップロードするものではない政治活動や選挙では、SNSで流れるニュース・解説・映像は、ネットプロヴァイダーや商業サイトが独力で取材作成したコンテンツではないからだ。

 既存メディアが流す内容をつまみ食いするのはZ世代の嗜好に敏感なプロヴァイダー・商業サイトだが、元のコンテンツが政治と日常生活の乖離を感じさせない内容ならば、政治離れも今ほど酷くない?
 つまり、政治や選挙は遠い世界の出来事ではなく、Z世代の「明日の飯・将来の不安」と直結してるんだよと悟らせる伝え方に努めないと、藤田氏の指摘点は何も変わらないまま放置される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする