静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

【書評190-4】〆     仏教の歴史 ~いかにして世界宗教となったか~    ジャン・ピエール・ロベール 著  今枝 由郎(訳)     講談社選書メチェ 791    2023年1月

2024-07-13 11:02:09 | 書評
★【欧州の仏教研究批判と著者の提言】 著者は現代の欧州における仏教研究を次の2点から批判する。
 * 第1は、総合的信仰体系概念として「仏教」を創ったのはヨーロッパ人だという主張への批判だ。然し、それはチベット、中国文化圏、東南アジア圏どこでも仏教概念は<仏(ブッダ)の教え>を
  意味する言葉として、言語は違えど存在してきた事実からして誤っていると著者は言う。
* 第2は、仏教経典の学術的翻訳において欧州が重要な役割を果たしているとの主張について。【仏教伝播とアジアの言語】及び【欧米への仏教伝播】で著者が説く通り、チベットや中国が果たしてきた
  経典翻訳はヨーロッパ人の取り組みより遥かに古く、これまた誤りだと指摘する。
   ⇒ 欧州の学会でこのような誤った主張がなされているとは驚きである。背後に” 目に見えないキリスト教の刷り込み ”があるというべきなのか不明だが。。。

 著者は研究者に向け、提言として仏教研究の望ましいアプローチを最後に記している。 【1】Humanist ユマニスト的アプローチ 【2】実践的アプローチ
 【1】は、仏教圏諸国の言語を学び、文献を通覧したうえで、宗教史・哲学史・人類学にまたがる鳥瞰的アプローチ。 これは著者自身が歩んだ道であり、これを推奨している。
 【2】は、堅固な伝統に基づいた教団と接触し、実際にその文化圏で長く滞在し、仏教に触れるアプローチ。
   欲を言うならば、【1】【2】どちらも実践すれば鬼に金棒だろう。

☆ 最後に、訳者の今枝氏が「あとがき」で述べている大事なポイントを紹介して、本コラムを閉じる。
  (1) 仏教を他の世界宗教と比較するとき、最大の特徴は教義の多様性であり「仏教はある地域・ある時代・ある宗派の枠の中でしか語ることも学習もできない」という著者の言葉を引いている。
  (2) 小乗系では教義も仏典もまとまっているのに対し、大乗系では翻訳時の言語差異&時代的バラツキのため原典の一部だけを「偏食」することになり、相互に共通性をもたない。
     とりわけ東海に浮かぶ孤島の日本では、中国以上に「偏食」が昂じて教義が難解になり、宗派の乱立で大衆の真の理解や信仰心を離れた<葬式仏教>化してしまった。
     これを今枝氏は≪日本仏教のガラパゴス化≫即ち≪ガラ仏≫と呼ぶ。 ← 此の解析は実に当を得ており、的確だ。
       今枝氏は、日本の仏教徒は日本仏教各宗派の多様性と特異性を客観的に認識せよと説いている。                         < 了 > 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評190-3】     仏教の歴史 ~いかにして世界宗教となったか~    ジャン・ピエール・ロベール 著  今枝 由郎(訳)     講談社選書メチェ 791    2023年1月

2024-07-13 08:53:20 | 書評
★【欧米への仏教伝播】
 仏教は西の世界へどのように伝わったのか?それは、東西で全く異なる宗教の出遭いが人類の精神史においてどういう足跡を遺したのか?という大きなテーマに関わる。
 それは何故、東方世界では<絶対存在を抱かない救済>が描かれたのに、中東の砂漠に発した一神教三姉妹(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)は、ギリシャ文明期の多神教に相反する絶対神を戴く
 ことでしか救済は無い教えになったのか?・・・この根本的な分岐への疑問にもつながる。  此の疑問への解答は未だ出ていない。

・ 紀元前3世紀、アショーカ王がヨーロッパに使節を派遣したことが王碑文にギリシャ語で書かれているが、使節が赴いた場所は不明だし、記録文書は無い。

・ 10世紀の「ヨサファット伝説」*を別にすれば、ヨーロッパ人と仏教の出遭いは、仏王ルイ9世が1255年、イスラム教に対抗する為モンゴル皇帝にフランシスコ会士ギヨーム・ド・ルブルクを
  遣わせ、チベット僧との対話を載せた回想記が最初。ギヨームは<創造主たる人格神を否定する宗教>に出遭い、畏怖の念を抱いた

   【注】ヨサファット伝説・・・仏教教団「サンガ」が、カトリック修道院&正教僧院に影響を与えたとの説で、ブッダが「ヨサファット」という名でカトリック教会では聖人の一人として崇められるようになった。
     「ヨサファット」とは<ボーディサットヴァ>(釈迦牟尼がブッダとなる前の名前)が訛ったもの。著者は信ぴょう性が薄いとしている。


・ 16世紀後半、フランシスコ・ザビエルが1549年日本に、マテオ・リッチが1583年中国に到着。中国では仏教が廃れていたのでリッチは儒教についてリポート。ザビエルは仏教僧たちと議論し、
  日本の仏教僧たちの考えを紹介している。唯、著者によれば、これら二人の報告は異国文化イメージの拡大には貢献したが、仏教については信頼できる文献に基づかないので、キリスト教世界での
  正しい仏教理解には程遠い。

・ 18世紀になり、イエズス会宣教師イッポリト・デジデリは1716-1719年、チベットのラサに滞在。 仏教を批判する4冊の原稿を書き、1728年イタリアに帰国。だがバチカンの図書館で眠ったまま
  放置され、1980年代になってようやく日の目をみて出版された。著者は、これが200年以上も目に触れなかったのは西洋の仏教研究にとり大きな損失だと嘆く。
   
・ 19世紀、ようやく学術的に価値がある仏教研究がハンガリー人のアレクサンダー・チョーマ・ド・ケーレスによりチベット語カンギュル&テンギュルの概要を訳出した。この翻訳が刺激となり、
  チベット仏典やパーリ語蔵経の翻訳を生み、初めて欧州で本格的な仏教研究が始まった。だが、著者は研究や翻訳の動機が当時の植民地政策推進に貢献する目的だったと指弾している。
  他方、アジアからの仏教普及の動きが19世紀後半にあり、セイロン人の米国における普及活動、そして鈴木大拙の啓蒙活動にも著者は触れている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 著者の示すレヴューからは、宗教における東西の接触が古代から近世まで極めて貧弱であり、19世紀以降は専ら排他的批判に傾いた西洋の仏教認識であったことがわかる。
著者は日本語研究から日本仏教の探求に身を捧げてきた人物ゆえ、日本仏教を切り口に据え、仏教全体の広がり、および欧州世界との接触などを展望している。このような幅広い視野から
仏教と宗教を俯瞰する学者は多くあるまい、と想像する。その著者は、自分が属す欧米世界の仏教研究を鋭く批判している。                   < つづく >
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする