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【書評182-2】  信時 潔 音楽随想集  ~バッハに非ず~     信時 裕子 編   (株)アルテスパブリッシング    2012年12月 発刊

2024-01-29 09:50:50 | 書評
 私が読了後✔をつけた随筆6本のタイトルは、以下の通り。
①「私の洋楽遍歴とバッハ」②「聴覚を失ったベートーヴェンが何故作曲できたか」③「とわれるままに」④「日本音楽界の現状と其の将来についての随筆的考察」
⑤「歌詞とその曲」⑥「南方熊楠翁ーー荒野のひと月」
  娘である信時裕子氏が本書のタイトルに『バッハに非ず』と銘打ったのは、ベートーヴェンがバッハを讃えた言葉から、と冒頭の短いエッセイ<バッハ小感>にある。
独語bach は英語でstream/creek と翻訳されるのだが、ベートーヴェンが「バッハは小川どころではなく大海だ」と尊崇したくらい父信時氏も尊崇した、との思いからだろう。

 信時氏のバッハへの思い入れは①と②に強く現れている。19世紀ヨーロッパ音楽隆盛の源がベートーヴェンにある事は何びとも否定しない。そのベートーヴェンが若き日、
バッハの作曲技法を深く研究したことも良く知られている。同じ言い方をするなら、ハイドンやモーッアルトも先人と仰いだのはバッハ&ヘンデルであった。
 一度は教会音楽の霧の彼方に埋もれたバッハの価値を再発掘したメンデルスゾーンは、自身の作品価値は別に、バッハにスポットライトを当てた功績だけをもってしても
後世の我々からどれほど感謝されても余りある偉人だ。

 19世紀ロマン派作品は現在も西洋古典音楽の中心的存在でプロ・アマ問わず演奏機会の大半を占めるが、内省的時間に浸るひととき、人生を想う束の間、私の脳裏を流れるのはバッハとヘンデルであり、コレルリやヴィヴァルディなどのバロック作曲家たちの遺した世界である。ヴァイオリンの函を開けて演奏を楽しむ時、指ならしにすさぶのもバッハやヘンデルのソナタだ。(ベートーヴェンやブラームス、フランクのソナタとなると、思わず両眉が寄り、眉間に皺が走ってしまい、疲れるのだ)

 思えばそれは少年時代に始まり、大学でオーケストラに行かず室内楽サークルに入ったのも、60年代に人気を誇ったバロック音楽の魅力に心安らいだからであった。ただでさえ不安な年齢であった当時は社会が騒然として大学は大荒れに荒れ、何のために進学したのか?これから日本はどうなってゆくのか? などなど心が揺れた。そんな日々、
静かで澄んだ和声と明るく輝かしいイタリアンサウンドや無機的にも聞こえるバッハの建築構造物的世界は、此の世離れした神々しさに溢れ、私のオアシスであった。

 私が言うまでもなく、音楽学でいえばバッハの功績は「対位法」の完成が一番だが、未だ楽器が19世紀に比べ未成熟で種類も少なかった18世紀前半の環境であれだけ普遍的に胸を打つ作品を残した点は幾ら強調しても足りない。ハイドンやモーッアルト以降、19世紀に華開いた作曲家たちのメロディアスな抒情とは違い、ヴィヴァルディ、ヘンデル、バッハの旋律の抒情性は時代が異なるから当たり前なのだが、まるで世界が違う。安らぎが違う、といおうか。

 基本的に信時氏の西洋音楽認識・評価は、バッハ~ベートーヴェンに流れる太い潮流の賛歌がバックボーンにあり、ここは不肖私も同感だ。恐らく異を唱える御仁は居まい?
さて本書のもう一つのポイント、それは明治から戦前までの日本の音楽界&音楽教育に対する信時氏の切なる想いを述べた随筆だ。次はそれらを観てみたい。 < つづく >
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