静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

【書評135-5】  周恩来・キシンジャー 機密会談録   毛利 和子・増田 弘(監訳)       岩波書店       2004年2月 第1版  

2021-06-30 16:29:46 | 書評
【3】 米中両国の日本への警戒感 (1/2) 
【書評135-4】【2】<50年前の国際情勢と現在の相違、それがもたらすもの>前半では、周K会談が行われた当時の国際情勢、特に欧米以外のアジアについて両国の国際関係認識はどうだったのか? 
それが1990年前後の激動<天安門事件&ソ連解体>を経て、どう変わったのか? 鄧小平による経済成長達成後の中国の振る舞い方、とりわけ、対ロシア&香港政策に窺える急な変化を後半に観てきた。
 
 では50年の間、国際認識の中でも特に中国とアメリカの対日観または警戒感はどこがどう変わったのか、どこは変わらないのか? それを確かめるには先ず、70年頃の<毛/周体制における対日観>及び<ニクソン/キッシンジャー体制における対日観>と比べて現在はどうか?・・を辿らねばならない。
 周K会談の中には米中双方がソ連と併せて日本にどういう警戒心を抱いていたかを示唆する言葉が散見するが、両者が意識的に対日認識を語り合ったのが1971年10月22日・第4回会談であった。
本書訳文では196-201頁に亘る部分に集中するが、其の前から周が日本に話題を振り、K博士の意見を引き出そうと試みているのが見て取れる。電子本原文では19-28頁の長さである。

◆ 私なりに主旨を総括する前に、英語原文と突き合わせ、暫し首を捻った3つの訳語に関し、私見を述べる。・・それらは微妙なニュアンスの違いで黙殺できる幅なのか?・・読者の判断にまかせる。
1.K;『社会として対比するとしたら、中国には伝統に由来する普遍的な視点がありますが、日本は偏狭です』
      ⇔ 原文:<China by tradition has an Universal Outlook but Japan has had a Tribal Outlook > ・・・<Tribal>は<偏狭な>で正しいか?(Tribe=部族)


2.K;『日本人は、他の人々の態度に対する感受性が鋭敏ではありません。日本人の文化的な求心性のためです
     ⇔ 原文:<The Japanese have no sensibility for the attitudes of other people because of this Cultural Concentration On Themselves
   ・・Concentration=the action or power of focusing one's attention or mental effort 英英辞典の定義を文脈に当て嵌めるなら「求心性」の訳より「自己愛」が近いのでは?

3.K;『日本の歴史は1945年に始まったと考えたり、戦後の日本は戦前とは違うのだと言うのは幻想です。他国にとっても日本をアメリカに対抗するために使おうと試みるのは危険なことです。
   というのも、そのどちらも日本を賞賛する傾向があるからです
   ⇔ 原文:<because both these policies have a tendency to exalt Japan> ・・(exalt)は「高揚させる」であり「賞賛する」と強さが違うのでは?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
申すまでも無く、訳語への疑念は本書の訳出に尽力された方々の努力と見識に異議を唱える為では毛頭ない。訳語のトーンというか語調というべきか、私見からすると少し優しく柔和に聞こえるので、
英語で闘い・生きている人達の口調や思考回路からして、日本人読者に与える余韻が正確に伝わるだろうか?とのシンプルな疑念が湧いたのである。中国語で生きる人々も英語圏の人たちに劣らず、
やわな語調は少ない。そこはそれぞれの地で生活して体験者なら肯かれるのでは?

★ さて、周K両氏が日本に関して率直に言葉を交わした部分を読み通し、かれらの共有認識として指摘出来るのは以下の3点ではないか?
≪1≫ 日本人社会の(特殊性/特異性/自己中心的狭さ/普遍性の欠如)・・・これらが日本の政治行動/外交政策/歴史を左右してきた、との認識。上記の3.に引用した文が良い例だが、注目は;
   『日本の歴史は1945年に始まったと考えたり、戦後の日本は戦前とは違うのだと言うのは幻想です』此の部分だ。つまり日本は1945年以降も何らかわっちゃいないよ、と両者は言ってるのだ。

  
 *1.の部分の後に次の言葉が交わされているので、少し長いが極めて重要なので引いておく。。
  K;<日本人の社会はとても特異なので、どのようなものにも適応できるし、また其の国民的本質を保持できると信じています、それゆえ、日本人は唐突に爆発的な変化を遂げることができるのです。
     彼らは封建制度から天皇崇拝へ2~3年で移行しました。天皇崇拝から民主主義へ3ヶ月で移行しました。>
  周;<今や彼らは再び天皇崇拝へ逆戻りしようとしています。>
  K;<それは彼らが世界のバランス・オブ・パワーをどのように評価するかに拠ります>
  ⇒ 明治維新以来の日本史&日本人の行動原理を、米中はこのように観ているのである。今も同じだろう。そして、私は完全に同意する。                < つづく >
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宮内庁長官:≪ 天皇のコロナ下の五輪開催憂慮『拝察』発言 ≫   単純な”長官としての発言手続き論”ではない  <象徴天皇制が国民と天皇との相互作用で成り立っているなら 国家と市民の関係も同じだろう>

2021-06-30 08:44:40 | 時評
☆★ よく考えないと頭の整理が楽ではない<天皇の想い「拝察」発言をめぐる論点>・・・毎日の2本の記事からこれを試みたので、ご参考までに披露したい。下線&太字は要点。

【1】「東京五輪を懸念」 西村宮内庁長官の「拝察」発言の真意は…【和田武士、加藤明子】
(A)<五輪憲章は、開催地の国家元首が開会を宣言すると規定しており、1964年の東京大会は昭和天皇が開会を宣言した。今回も陛下が宣言する方向で調整が進んでいる。
  宮内庁幹部の一人は「今の状況で何の説明もないまま陛下が開会宣言すれば、国民から理解を得られず、皇室の印象にも悪影響を及ぼすと長官が考えたのではないか」と推測する。
  「コロナの状況を非常に心配されている姿を長官は見ているはず。胸中は複雑であろうと察し、開幕前に何かしら発信する必要があると考えたのだろう」と語った。>

(B)象徴天皇制を研究する河西秀哉・名古屋大大学院准教授(日本近現代史)は
 「開催を巡って意見が割れる中、何も発信せずに開会式に臨めば権威が傷つきかねない。一方、何かを発言すれば憲法に抵触する可能性がある。長官は批判も覚悟の上、自身の『感想』という形で、
  開催がほぼ間違いない状況になった今のタイミングで発言したのだろう
」と推し量る。その上で
 「国民統合の象徴である天皇が、国民世論が分断している五輪に関わるのであれば、国民の理解が得られるように道筋をつけるのは本来政府の役割だ」と指摘した。>

(C)<「憲法と天皇制」(岩波新書)などの著書がある横田耕一・九州大名誉教授(憲法学)は
  「天皇が私的に考えたり発言したりするのは自由」とした上で、「問題なのは天皇の私的な思いを国家公務員である宮内庁長官が会見という公の場で明らかにしたこと。越権行為だ」と批判する。>

【2】「拝察」をめぐる反応=古賀攻
(D)<自民党や公明党は開催が前提なので積極的には触れない。「無観客開催」の都民ファーストや「感染状況に基づき判断」の日本維新の会、
  「無理なら秋以降に延期」の国民民主党は中間グループ。より左の立憲民主党は「延期か中止」、もっと左の共産党は「きっぱり中止」といった具合だ。>

(E)<危機感の違いによる差のはずなのに、憲法や安全保障の場合とほぼ同じ並び順になるのはなぜか。実質的には五輪を通してせり出してくる「国家」との距離感の違い
  なのだろう。一般に右派は国家と市民を一体とみなし、左派は対抗的にとらえる傾向がある
。> 
   ← これは<国家「第一」か vs 市民/国家の「並立」か>・・ここに(ケースバイケース or 真ん中)は無い

(F)<西村長官の拝察は「肌感覚の受け止め」ということだが、陛下の思いと無関係な発信だったとは考えにくい。ただし、開催自体に踏み込んでの懸念ではなく、
   現下の感染状況に対するごく自然な心配だとしたら、政治的な尾ひれを付けたり、それを警戒し過ぎたりするのはいかがかと思う。
   上皇陛下の退位の過程で私たちは、象徴天皇制が国民と天皇との相互作用で成り立っていることを学んだ。国家と市民の関係も同じだろう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ざくっと云えば【1】は、憲法下の天皇/宮内庁の発信そのものに関する行政(政府)のとうるべき態度について様々な角度から整理したもの。題材が今回は(コロナ&五輪)であった。
【2】は、象徴天皇制に滲み出る『王制/国家と市民の関係』を、政治家/政党が現行憲法下でどう考え、向き合うべきか? に関する古賀専門編集委員の所見である。
  それは単に政治家/政党だけでなく、我々国民一人一人がどう考え・向き合うのか? を問いかけている。  ヒトゴトではない、のである。
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