静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

【書評135-4】  周恩来・キシンジャー 機密会談録   毛利 和子・増田 弘(監訳)       岩波書店       2004年2月 第1版  

2021-06-29 15:30:51 | 時評
【2】 50年前の国際情勢と現在の相違、それがもたらすもの
 【書評135-3】までで、米中国交樹立の現代史における意味は、膨張し続けるソ連を抑え込むことが米中早々の国益に叶うと踏んだ両国の戦略見通しにあると示唆したが、事実そのとおりになった。
インドシナ半島から撤退したアメリカは戦費の浪費を止め、経済的に立ち直る。中国は米中国交回復後も5~6年は文化大革命の後遺症で停滞したものの、毛沢東・周恩来の死去後、現れた鄧小平の
路線転換<開放改革>による80年代後半以降の経済成長は、毛&周が残してくれた米ソどちらからも攻撃されない歯止めのお陰で花開いたのである。

周K会談の行われた70年代初め、米中が話し合った国際環境と中国にとっての政治課題は以下の5項目だった。それは本書でハッキリわかる。
1. 台湾の処理 2. インドシナ和平  3. 朝鮮半島からの米軍撤退  4. 印パ紛争におけるソ連の影響力の排除  5. 朝鮮/台湾における日本の影響力の排除

2.は米軍の撤退と北によるベトナム統一で解決。 4.はバングラデッシュ独立で解決。 然し、1.3.5.は、50年後の現在まで中国の懸念であり課題としても消えていない。
逆に新しい変動因子は、ソ連の解体による米ソ冷戦体制の終焉+新生ロシアだが、近年のロシアの行動は中国を脅かすものでなくなり、寧ろロシアは中国の対米牽制上、組みたい相手となっている。

言うまでも無く鄧小平の開放改革とは、共産主義的計画経済から独占国家資本主義体制への移行による経済成長政策であり、欧米が期待した自由資本&自由市場主導型の資本主義ではない。
鄧小平が目指したのは専制的国策による成長であり、計画経済は放棄したが欧米型代議制統治制度の導入は明白に拒否している。それは、本書ではなく【書評6】One Man's View of The World
( Lee Kuan Yew)の中で鄧小平が Lee Kuan Yew に明瞭に答えているので参照されたい。(遺憾ながら同書は未だに日本語訳が出ていない。)つまり米中国交も計画経済放棄も、中国指導層にとり、
戦略的戦術的方便でしかない。2010年のWTO加盟で中国も自由主義社会へ進む?と欧米がヌカ喜びした浅はかさが今更ながら虚しい。

さて、80年代はソ連が瓦解への道を転げ落ちる10年。中国では1989年の自由化への高まり「天安門事件」。その直後にソ連の解体(1991年)が重なった。思えば1990年前後は中国にとり、
文字通り建国以来の国家危機だった。屡々指摘されるように、ゴルバチョフによる≪ペレストロイカ≫こそソ連滅亡の失策と中国は解釈し、欧米型代議制統治制度の導入に背を向けた。それに欧米は
暫く気付かなかった。深読みするなら、香港の「1国2制度」否定も此の延長線上に在り、英国との協定など最初から守る気は無かったろう。昨今のメディア弾圧は既定路線に過ぎまい。


周K会談当時、米国の猜疑心は北ベトナム&ソ連に向けられ、中国の猜疑心はソ連&日本に向いていた。日本への猜疑心を具体的に周は述べており、それは韓国軍と自衛隊の将校が交流していた事実、
並びに蒋介石の部下が東京で自衛隊幹部と交流していた為である。周にとって、日本の存在は(台湾・朝鮮)両方に跨る邪魔な介入者として警戒すべきものである。K博士はこれに同調し、日米安保条約
による米軍の駐留が日本を暴走させない為のものであり「これは占領や支配ではない。日本人が出て行けと言えばいつでも撤退する。・・・でも本当に中国はそれで良いのか?」と切り返している。

ところで、会談録を読むと、周が蒋介石を心の底から嫌っていることが言葉の端々から滲み出る。本書で知ったのだが、上海の武官養成学校の校長だった蒋介石の部下として周恩来は働いたと述べている。どういう経緯が二人の間に在ったのか不明だが、国共内戦の遥か前から、周は蒋介石を排除しようとしていたかもしれない。

ソ連が姿を消した後、米中にとりロシア人新国家との付き合いは依然と全く異なるものになった。が、彼らは、日本の本質は戦後も変わっていないと観ている。日本への警戒感は、恐らく今も同じである。
私が何故そう思うのか? それは、第4回会談(1971年10月22日)で周K両氏が長々と対日観と日本への望ましい態度を述べ合った部分を子細に読み解くことで納得戴けよう。   < つづく >
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評135-3】  周恩来・キシンジャー 機密会談録   毛利 和子・増田 弘(監訳)       岩波書店       2004年2月 第1版  

2021-06-29 09:08:19 | 書評
* キーボード操作を誤り、文章の途中で投稿してしまった。 改めて、【書評135-2】の末尾段落からスタートします。

【1】 周恩来の革命観/世界史認識、その米国との溝
  だが米国にとっては、ソ連の出現と強大化に加え共産中国の誕生こそが西欧型代議制民主主義を否定・敵対する全体主義ゆえ許容できない現実だ。第二次大戦後の共産主義国家の増加と隆盛は
  <民族自決、民族解放と統一>に名を借りた膨張でしかない。だからこそ上海コミュニケに、共産中国にとり台湾は「解放/統一」の対象ゆえ、其の表現を盛り込もうと周は粘り盛り込んだ。
  他方、Kは両論併記で対応し、現在まで続く米国の台湾政策の基礎を打ち立てた。本年4月の菅首相訪米時の宣言で台湾防衛の意思表示が繰り返されたが、そこでも”台湾問題の平和的解決”に
  言及するのは1972年2月上海コミュニケ後半にある重要な文言を根拠としている(以下に引用)

 【A】≪ 合衆国は、台湾海峡の両側の全ての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部であると主張していることを認識する。合衆国政府は其の立場に異議を申し立てない。
     合衆国政府は、中国人自身による台湾問題の平和的解決に関心を持っていることを重ねて強調する。
 【B】≪ この展望を前提として、合衆国政府は全ての米軍及び米軍施設を台湾から撤去するという最終目標を確認する。其の間に合衆国政府は、此の地域における緊張が減少するに従って、
     台湾における米軍及び米軍施設を漸減させるであろう。


★ 現在、台湾島に米軍施設は無い。1979年の米台断交後、撤去された。米軍にすれば沖縄にある基地で十分だとの判断であろう。一方、米国側が未だに武力統一を許さないとする根拠が【A】だ。
  然し、鄧小平訪米で「外交関係樹立に関する共同コミュニケ(1979年1月)」を発する直前(1978年12月16日)『米中正常化に関する中華人民共和国政府声明』を出し、そこでは次の様に書く。
  <台湾の祖国復帰を解決し,国家統一を完成する方式については,これは全く中国の内政問題である。>・・つまり武力統一も完成する方式の一つだ、と釘を刺しているわけである。

  香港の「1国2制度」の約束を中国は破り、英国を怒らせた。では中国は、78年声明(上記)に続く「外交関係樹立に関する共同コミュニケ(1979年1月)」に書かれた次の文言を利用し、
  武力統一に踏み切るのか?(いずれの側も,アジア・太平洋地域においても又は世界の他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく,また,このような覇権を確立しようとする他の
  いかなる国又は国の集団による試みにも反対する。)・・武力による台湾統一への介入をアジアにおけるアメリカの覇権確立だ、との論法でヤルのか? 

☆ こうして本書から読み解ける伏線を眺めてみると、周K会談に始まる米中関係、その50年後の結節点に菅訪米時の共同声明が位置付けられる。手島龍三氏の言う『紙上の同盟が試される時』が来た?
  いや、それは飽くまで一つの推理・仮説にすぎないのか? 先を急ぐ前に、もう一度、アジア全域の国際情勢を振り返りたい。                     < つづく >
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評135-2】  周恩来・キシンジャー 機密会談録   毛利 和子・増田 弘(監訳)       岩波書店       2004年2月 第1版  

2021-06-29 05:27:52 | 書評
【1】 周恩来の革命観/世界史認識、その米国との溝
・ 最初に「周恩来の革命観/世界史認識」と私が切り出したには訳がある。1971年10月24日の第6回会談で周が長く弁舌を奮った下りは、当時のインドシナ半島情勢を中国指導部がどのような
  歴史認識と情勢判断で定義していたのかを鮮明に語るだけでなく、ヴェトナム・ラオス・カンボジアに派兵していたアメリカに完全撤兵を迫るものであった。米国にしてみれば、国交回復に撤兵を
  絡められるのは条件闘争を強いられるものであり、不快であったろう。

・ 歴史のおさらいになるが、第二次大戦が日本の降伏で幕を閉じた後、フランスは”仏領インドシナ”に舞い戻り、日本軍が出て行った植民地を再び支配しようとした。ところが有名な1954年5月の
  ”ディエン・ビエン・フーの敗戦”でフランスは植民地放棄と撤退を決め、同年7月結ばれたジュネーヴ協定でヴェトナム全土の選挙を行うことに決まった。
  『どうでもよい余談だが、仏俳優アラン・ドロンは若き日、一兵士としてディエン・ビエン・フー砦に居たが、敗戦で故国に戻り映画界に拾われている』

  然るに、米国国務長官ダレスは「ホー・チ・ミン主導の赤化」を嫌い、同協定を反故にしたうえ、南ベトナム政府を樹立させ米軍を駐留させた。漸くインドシナ半島から外国勢力が居なくなり、
  <民族自決>に近づくと期待していた中国はアイゼンハワー&ダレスを民族統一の敵と見做し、北ベトナムを支援するに至るが、米国も引き下がらない。それが60年代を通じて泥沼化した
  ”インドシナ紛争”だ。60年代当時の日本ではベトナム戦争だけが前面に出た報道だったが、仏領インドシナ時代からの遺産を引きづった紛争だったのである。ここを間違えてはならない。

・ 大戦後,強大になったソ連、おまけに蒋介石を打ち負かし建国した共産中国に対峙してきたアメリカにとり、中国とソ連によるアジア・アフリカ地域での独立闘争支援/介入は、『民族解放と統一国家
  樹立の支援』に名を借りた共産主義国家拡大戦略としか写らない。合衆国の裏庭にあたるキューバにまでソ連がミサイル基地建設を目論んだ事は<共産主義国家拡大戦略>そのものと解釈された。
  さりながら50~60年代を通じた激しい東西対立はソ連だけでなく米国を消耗させた。長引くインドシナ紛争で国富を浪費する一方、ソ連の拡張はチェコ侵入(1968年)中ソ国境紛争(1968-9年)
  と続く。ソ連の行動阻止と牽制が奇しくも米中共通の利益となったがゆえの国交回復交渉である。

・ 然し、清朝打倒以来、外国勢力からの屈辱を約40年間舐めてきた中国人にとり、共産中国の建国は初めて民族自立を達成した存在理由であり原体験だから、米軍が世界のあちこちに派兵・駐屯する
  事自体が建国の国是に反する人民の抑圧でしかない。米中共通の利益は認めながら、中国指導者にとり「反共」スローガンの旗印で日本・南朝鮮・台湾・フィリピンなどに米軍基地が在ることが
  民族抑圧の証拠だ。ソ連に対抗し封じ込める戦局的利益では共通するも、あるべき世界に関する認識は全く単なるまま周K会談は行われた。
   従い「民族解放闘争」「革命」等の用語を国交回復に関する文書に記載されるのは米国として受け入れられない。情勢認識の違いには触れず、成果を世界に公表したい米国と盛り込みたい中国。
  此の決定的な違いを私は世界史認識における「米国との溝」と総称する。・・・多分、其の溝は50年後の現在も埋まっていない。

★ 周はフランス革命、そしてアメリカの対英独立戦争を例に引き、米国民はフランス革命の精神を体現し、植民地解放闘争を行った当事者ではないか? そうなのに現代の被抑圧諸国民の自立を求める
  戦いを支持せず、なぜ抑圧するのか? とKに迫る。欧米列強の植民地支配を脱し<民族自決、民族解放と統一>を自分たちは苦労の末にやっと果たした、との自意識からすれば当然な詰問であろう。

  だが米国にとっては、ソ連の出現と強大化に加え共産中国の誕生こそが西欧型代議制民主主義に敵対する全体主義ゆえ許容できない現実だ。第二次大戦後の共産主義国家の増加と隆盛は
  <民族自決、民族解放と統一>に名を借りた膨張でしかない。だからこそ上海コミュニケに、共産中国にとり台湾は「解放/統一」の対象ゆえ、其の表現を盛り込もうと周は粘り盛り込んだ。
   だが、Kは両論併記で対応し、現在まで続く米国の台湾政策の基礎を打ち立てた。本年4月の菅首相訪米時の宣言で台湾防衛の意思表示が繰り返されたが、そこでも”台湾問題の平和的解決”に
  言及するのは1972年上海コミュニケ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする