永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(813)

2010年08月31日 | Weblog
2010.8/31  813

四十六帖 【椎本(しひがもと)の巻】 その(32)

「墨染ならぬ御火桶、物の奥なる取り出でて、塵かき払ひなどするにつけても、宮の待ち喜び給ひし御気色などを、人々もきこえ出づ。対面し給ふことをば、つつましくのみ思いたれど、思ひ隈なきやうに人の思ひ給へれば、いかがはせむ、とて、きこえ給ふ。うちとくとはなけれど、さきざきよりは少し言の葉つづけて、物など宣へるさま、いとめやすく、心はづかしげなり」
――(薫のために)黒塗り(喪中用)でない火鉢を奥から取り出して、塵を払ったりなどしながら侍女たちは、生前八の宮が薫の来訪をお喜びになっておられたご様子などを思い出して話し合うのでした。大君は薫にご対面なさることを恥ずかしくばかりお思いになりますが、それではあまり気がきかないようでもあり、仕方なく、応対なさいます。打ち解けてという程ではありませんが、以前よりはお言葉もあり、お話なさるご様子などは全く非のうちどころがなく、こちらが恥ずかしくなる程ご立派です――

 薫はお心の中で、

「かやうにてのみは、え過ぐしはつまじ」
――このような物を隔ててだけの間柄では、過ごし切れないだろう――

 とお思いになります。世を厭い仏の道を慕う身が、思えば変われば変わるものよ、何と唐突な心よ。しかしこうお慕いする気持ちが抑えられないのも宿世というものであろうか、やはりこのままでは済まされないであろう、と思って座っていらっしゃる。

 薫が、

「宮のいとあやしくうらみ給ふことの侍るかな。あはれなりし御一言をうけたまはり置きしさまなど、ことのついでにもや漏らしきこえたりけむ、またいと隈なき御心のさがにて、おしはかり給ふにや侍らむ」
――匂宮が私に対して妙に恨みがましいことをおっしゃいましてね。私が父宮から切なるお言葉を拝承いたしました事情などを、何かのついでに申し上げたことがあったのかどうか、あるいは、よく気のつくご性分で、何かとご推量なさるようでして――

 と、お話を続けられます。


◆9月以降も奇数日に掲載いたします。どうぞよろしく。
 では9/1に。

源氏物語を読んできて(冬の暖房)

2010年08月31日 | Weblog
平安時代の暖房

◆火桶(ひおけ)は木製の火鉢のこと。
本来は桶という意味から円形の形状であったが、 平安時代には方形のものも木製であれば火桶と呼称していた事例もある。
火鉢(ひばち)は、 器の中に灰をいれ、炭火をおこして室内でもちいる暖房器具の一種。古くは素材や形によって火桶(ひおけ)、火櫃(ひびつ)などといわれた。また、手足をあぶって暖をとったことから、手あぶりともよばれた。

◆上層階級で発達
日本家屋における暖房には、古代から囲炉裏がおもにもちいられた。しかし、宮廷や貴族など上層階級の邸宅では、囲炉裏は煙や煤(すす)がでるため室内にはもうけず、桶や櫃におき火をいれた火容(ひいれ)をおいてもちいた。平安時代に成立した信貴山縁起絵巻にも、白木の曲物の桶に火をいれるための土器をおいた火桶が登場する。のちには桐(きり)や欅(けやき)、杉などの丸木をくりぬき、そこに銅製の「落し」をしこんだものが登場。やがて、外側に漆をぬって絵や彩色をほどこした(→ 漆工芸)絵火桶や、金、銀、銅などの飾り金具がついた豪華なものもつくられるようになり、おもに上流階級の間でもちいられた。
古くは火鉢を火桶、炭櫃、火櫃などと呼んだ。このことから火鉢の歴史は奈良・平安時代からはじまるが(奈良火鉢)、庶民にも一般化するのは、おそらく鎌倉中期から末期頃にかけてといわれている。このころから、床下に畳を敷く生活が始まり、炉に薪をくべる暮らしから火やけむりがをあげない炭と火鉢が使われ始めたというわけです。

 暖房効果はどの程度だったのか。上着を脱いだ人もいると書かれているから、外気を遮断した 火桶の周りは、現代人が思うほど寒くはなかったようである。