『虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか』 森 達也著
読んでてずっと、脳内に繰り返し再生されてた映像がある。
『蟻の兵隊』というドキュメンタリー映画で、日中戦争で大陸に派遣された旧日本軍兵士の奥村和一氏が、自らも上官の命令で中国の民間人を殺害した体験を語るくだりがある。奥村氏はかつての戦友を訪ね、自分も戦友もそうした罪を犯したことを話そうとする。彼は中国共産党軍の捕虜となった矯正教育の過程で、その罪を告白して文章に書いたものを中国まで探しにいって見つけた。その文章に戦友がどんな体験を書いたか奥村氏が問い直すと、彼は事実をまったく覚えていないという。
奥村氏が60年以上の間、良心の呵責に苛まれ続けたのと同じように残虐な行為を、戦友は完全に記憶の中から消し去っていた。画面に映っていた彼の表情からは、自分で文章にして中国共産党軍に提出したことが、ほんとうにその脳裏に微塵も残っていないことがありありと見てとれた。
撮影当時80歳代だから、年齢的に仕方がないことなのかもしれない。だが誰もがその戦友のように、戦闘行為や軍の戦争犯罪に加担させられた過去を綺麗に忘れられるわけではない。だからこそ戦争のたびに多くの兵士が、肉体のみならず精神をも蝕まれ、苦しみ、人によっては命を落としたり、生きていても健全な社会生活が送れなくなってしまうという悲劇が世界中で起きているのだろう。
とはいえ、その戦友のように、戦時中の体験から自分を切り離して生きていけるのも、ある意味では人間の強さなのかもしれない。
本書では、関東大震災直後の朝鮮人虐殺やホロコースト、クメール・ルージュの大量虐殺やルワンダでのツチ族虐殺、地下鉄サリン事件など過去に起きた大量殺人事件を例に挙げ、ごく普通の善良な市民が残虐行為に及ぶメカニズムをごくパーソナルな視点で解き明かしている。
ノンフィクションなので過去のデータや学術的なエビデンスも引用してあるが、そういった資料的な話はむしろ大雑把な背景情報として、著者自身が何をどう読みとりどこへ考えつくのかというラインに重きを置いてある本だ。
なので扱っている題材はウルトラスーパーヘビー級なのに、読み物としてはすごく読みやすい。これだったら中学生が読んでも問題ないと思う。いやほんとに。
ホロコーストの最高責任者のひとりとして、戦後イスラエル政府の裁判で死刑を宣告されたアドルフ・アイヒマンも登場する。
世界的な注目を集めた彼の裁判で、オーディエンスは歴史的大量殺人の主犯のあまりの凡庸さに言葉を失う。何を訊かれても「命令されたから」と繰り返すばかりの気弱そうな男。その裁判を経て、アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラムは「人は命令されれば残虐行為ができるのか」を検証する実験をして、仮説を見事に証明してしまう。この実験は(ハンナ・アーレントと同じように)世間から猛烈な批判を買ったが、ミルグラムは最後まで自説を曲げようとしなかった。
アーレントやミルグラムが証明したように、おそらく人は、ある条件が揃いさえすれば、大量虐殺に加担してしまう生き物なのだろうと私も思う。
それゆえに、長い歴史の中で人は戦争を延々と繰り返し続けている。人を殺さなくても問題を解決する方法はあるのに、「殺してもいい」というコンセンサスが生まれてしまったら人はあっさりと己の意志を手放し、無自覚な殺人マシーンと化してしまう。人間はそれだけ弱く、愚かなのだ。そしてことが終われば、都合の悪いことに蓋をしたり、物置のようなところに隠したりしまいこんだりして目を瞑り、他人事にしてしまう。
それはそういうものだと片付けることを、私は受け入れることはできない。
せめて、自分がそんな不完全な存在なのだという自覚をもって、誰が何をいっていても、自分自身の頭で、心で、とるべき道を決められる人でいたい。
人の知性は、そのためにこそ与えられたものだと信じているから。
できることなら、人間はわずかなりでも歴史に学び、進歩できるはずだと思いたいから。
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