『ハンナ・アーレント』
1961年、イスラエル諜報部は元ナチス親衛隊のアイヒマンを拘束、「人道に対する罪」「戦争犯罪」などの容疑で起訴した。
ドイツ系ユダヤ人でアメリカに亡命していた哲学者ハンナ・アーレント(バルバラ・スコヴァ)は周囲の反対を押しきってイスラエルでの裁判を傍聴、ニューヨーカーに記事を書くが、猛烈なバッシングに遭い、友人すら失ってしまう。
果たして戦争犯罪はいかにして裁かれるべきなのか。戦争犯罪は誰の責任で起こるものなのか。
この映画にはアイヒマンの裁判の実際の映像がそのまま使われている。おそらくはたぶんどこかで観たことがあるはずなのに、どことなく「再現映像」のような、フィクションのように見えるのは、裁判そのものが演劇のようなフィクション性を持っているからではないだろうか。
現にアイヒマンに罪の意識はない。戦争中だったから、仕事だったから、立場上するべきことをしただけ。悪意も善意も何もない。だから裁判で裁かれることそのものを受け入れる意志もない。しかたなく裁判につきあっているだけ。判決は最初から決まりきっている。
そんな裁判で「真実」など導きようもない。まして人を裁けるわけもない。
ハンナはその事実を告発した。思考停止こそが人類最大の悪を生み出すのだと。
人間には考える能力がある。自らの倫理観をもって物事を判断する能力がある。
命令だから、政府の方針だからと、人が集団で思考停止したらどうなるか。その結果引き起こされるのが戦争の悲劇だ。
そこに敵と味方のはっきりした境界線はない。ホロコーストではナチスドイツがユダヤ人を迫害したが、迫害したのはドイツ人だけではない。ナチスに占領されたオーストリア人やポーランド人やフランス人やオランダ人やベルギー人の多くが迫害に加担した。もちろんユダヤ人を支援した人も多くいたし、ユダヤ人の中にもナチスに協力した人はいた。ナチスが迫害したのはユダヤ人だけではない。ロマも、身体障害者も、精神障害者も、性的少数者も、芸術家も政治活動家も迫害を受けた。その中にも、やはりナチスに協力することで保身を図った人はいた。
それが戦争なのだ。誰もがゾフィー・ショルのように命をかけて清廉潔白を貫けるわけじゃない。
問題は、清廉潔白を貫けるか否かではない。
起こってしまった事実をいかに受け止めるべきか、どれだけ真摯に向きあい、葛藤し続けられるかという点にある。
ハンナはそこにいっさいの妥協を許さなかった。
ホロコーストの責任をナチスにすべて被せるのではなく、そのような絶対的な悪をつくりだした「思考停止」は、被害者であるはずのユダヤ人側にも起きていて、それがさらに悲劇を拡大したとさえ書いた。
人々の怒りに火をつけたのは、彼女の主張が正しかったからではない。ユダヤ人としていわれたくなかったこと、どこかで気づいてはいても直視したくなかったことを指摘されたからだ。事実はどうあれ、気持ちの上でだけは、ユダヤ人だけはそんなことはしないと信じたかったからだ。
ハンナはそもそもナチスとユダヤ人の関係を前提に記事を書いたつもりはなかったのだろう。
彼女は、決して起きてはいけない悲劇が現実となる要因を、人として決してしてはいけない「思考停止」であると定義した。でも当時の読者の多くはそうは解釈しなかった。誰もが彼女のように事実にまっすぐに向きあえるわけではない。どこかで自分で自分に言い訳をして、事実と自分との間に折り合いをつけて生きている。そういう二度と癒されることのない傷を抱えた人たちの気持ちを、彼女は逆撫でしてしまったのだ。
しかし、人を傷つけてでも真実を追究する思想革命が、人類の歴史にはどうしても必要だとも思う。でなければ何度でも人は同じことを繰り返してしまう。
彼女は、どれだけつらくても事実と向きあい葛藤し続けることの大切さを、身を以て証明しようとした。誰が悪くて誰が被害者でという、簡潔な二元論や固定概念に逃避することがどんなに危険なことか、それこそが人として許されない罪であることを証明しようとした。
彼女は同朋との絆や共感よりも、学者として哲学者として、あるべき道を選んだのではないだろうか。意識的にか、無意識的にかは別として。
冒頭30分くらいはやたらに台詞が多くてちょっと難しそうな雰囲気ではあったけど、終わってみれば非常にしっかりとわかりやすくまとまった映画でした。
善くも悪くも女性映画らしい個性的な作品でもあるけど、そういう“偏り”はぐりは嫌いじゃないです。
ハンナのことは名前は知っていても本は読んだことなくてあんまりよくわかってなかったけど、ぐりが常日頃から考えているような台詞がいっぱい出てきて、ものすごく共感しました。感動さえした。
彼女のように、折れることなく自ら導きだした結論を主張し続けられる強さがほしいと思う。たいていの人間には、どれだけ望んでも手に入れることの叶わない力だ。
人間は誰でもひとりぼっちになるのが怖い。彼女は怖くなかったのだろうか。
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1961年、イスラエル諜報部は元ナチス親衛隊のアイヒマンを拘束、「人道に対する罪」「戦争犯罪」などの容疑で起訴した。
ドイツ系ユダヤ人でアメリカに亡命していた哲学者ハンナ・アーレント(バルバラ・スコヴァ)は周囲の反対を押しきってイスラエルでの裁判を傍聴、ニューヨーカーに記事を書くが、猛烈なバッシングに遭い、友人すら失ってしまう。
果たして戦争犯罪はいかにして裁かれるべきなのか。戦争犯罪は誰の責任で起こるものなのか。
この映画にはアイヒマンの裁判の実際の映像がそのまま使われている。おそらくはたぶんどこかで観たことがあるはずなのに、どことなく「再現映像」のような、フィクションのように見えるのは、裁判そのものが演劇のようなフィクション性を持っているからではないだろうか。
現にアイヒマンに罪の意識はない。戦争中だったから、仕事だったから、立場上するべきことをしただけ。悪意も善意も何もない。だから裁判で裁かれることそのものを受け入れる意志もない。しかたなく裁判につきあっているだけ。判決は最初から決まりきっている。
そんな裁判で「真実」など導きようもない。まして人を裁けるわけもない。
ハンナはその事実を告発した。思考停止こそが人類最大の悪を生み出すのだと。
人間には考える能力がある。自らの倫理観をもって物事を判断する能力がある。
命令だから、政府の方針だからと、人が集団で思考停止したらどうなるか。その結果引き起こされるのが戦争の悲劇だ。
そこに敵と味方のはっきりした境界線はない。ホロコーストではナチスドイツがユダヤ人を迫害したが、迫害したのはドイツ人だけではない。ナチスに占領されたオーストリア人やポーランド人やフランス人やオランダ人やベルギー人の多くが迫害に加担した。もちろんユダヤ人を支援した人も多くいたし、ユダヤ人の中にもナチスに協力した人はいた。ナチスが迫害したのはユダヤ人だけではない。ロマも、身体障害者も、精神障害者も、性的少数者も、芸術家も政治活動家も迫害を受けた。その中にも、やはりナチスに協力することで保身を図った人はいた。
それが戦争なのだ。誰もがゾフィー・ショルのように命をかけて清廉潔白を貫けるわけじゃない。
問題は、清廉潔白を貫けるか否かではない。
起こってしまった事実をいかに受け止めるべきか、どれだけ真摯に向きあい、葛藤し続けられるかという点にある。
ハンナはそこにいっさいの妥協を許さなかった。
ホロコーストの責任をナチスにすべて被せるのではなく、そのような絶対的な悪をつくりだした「思考停止」は、被害者であるはずのユダヤ人側にも起きていて、それがさらに悲劇を拡大したとさえ書いた。
人々の怒りに火をつけたのは、彼女の主張が正しかったからではない。ユダヤ人としていわれたくなかったこと、どこかで気づいてはいても直視したくなかったことを指摘されたからだ。事実はどうあれ、気持ちの上でだけは、ユダヤ人だけはそんなことはしないと信じたかったからだ。
ハンナはそもそもナチスとユダヤ人の関係を前提に記事を書いたつもりはなかったのだろう。
彼女は、決して起きてはいけない悲劇が現実となる要因を、人として決してしてはいけない「思考停止」であると定義した。でも当時の読者の多くはそうは解釈しなかった。誰もが彼女のように事実にまっすぐに向きあえるわけではない。どこかで自分で自分に言い訳をして、事実と自分との間に折り合いをつけて生きている。そういう二度と癒されることのない傷を抱えた人たちの気持ちを、彼女は逆撫でしてしまったのだ。
しかし、人を傷つけてでも真実を追究する思想革命が、人類の歴史にはどうしても必要だとも思う。でなければ何度でも人は同じことを繰り返してしまう。
彼女は、どれだけつらくても事実と向きあい葛藤し続けることの大切さを、身を以て証明しようとした。誰が悪くて誰が被害者でという、簡潔な二元論や固定概念に逃避することがどんなに危険なことか、それこそが人として許されない罪であることを証明しようとした。
彼女は同朋との絆や共感よりも、学者として哲学者として、あるべき道を選んだのではないだろうか。意識的にか、無意識的にかは別として。
冒頭30分くらいはやたらに台詞が多くてちょっと難しそうな雰囲気ではあったけど、終わってみれば非常にしっかりとわかりやすくまとまった映画でした。
善くも悪くも女性映画らしい個性的な作品でもあるけど、そういう“偏り”はぐりは嫌いじゃないです。
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