落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

丘の上の朝鮮人

2017年09月02日 | lecture
何度もここに書いているが、私は在日コリアン3世である。
祖父母は戦前に来日し、両親は戦後に日本で生まれた。いまは鬼籍に入った祖父母はほとんど日本語を話さず、私自身は朝鮮語を解さないため、私たちの間には一般的な親族同士のようなコミュニケーションは成立しなかった。子どもたちが日本社会に馴染むよう、両親は言葉も含めた朝鮮にかかわる情報を、家庭内から(ほぼ)排除して暮らした。なので私は朝鮮語がわからないだけでなく、朝鮮のアイデンティティにつながる何ものも手にしてはいない。朝鮮や在日朝鮮人の歴史につながる出来事についても家族間で話したことはない。

関東大震災で起きた朝鮮人虐殺について初めて知ったのは、小学校か中学の授業だったと思う。といってもそれほど細かく教わった印象はなく、教科書に簡単に掲載されたのをそのままさらっと触れただけだったのではないだろうか。そのとき自分がその出来事に対してどんな感興を覚えたか、まったく記憶していないくらいだから。
この事件を含め、朝鮮や在日コリアンの文化や歴史についての私の知識のほとんどはだから、日本人や在日コリアンが日本語で書いた書物や、日本国内で行われたセミナーなどで得たものである。
外国人の住みにくさや難民申請の厳しさなど、多様性を受け入れようとしない閉鎖性が日本社会にあるのは事実だが、一方で、何代にもわたって外国にルーツを持つ人がこうして暮らし、その経緯や背景について語り継ぎ伝えあおうとする人々も当事者以外にちゃんといる。そのことにはいつも心から感謝しているし、幸運だとも思っている。たとえそうした社会的な寛容さが量的に十分でなくても、決してゼロではないのだから。

今年、墨田区両国の横網町公園で毎年行われる朝鮮人犠牲者追悼式のあと、横浜での関東大震災時の朝鮮人虐殺地のフィールドワークに参加してきた。
直前に小池東京都知事が毎年送っていた追悼文を今年見送ったことが報道された反動か、どちらも参加者は例年の2倍ほどになったという。こうした反動があることを、他の在日コリアンがどうとらえるかはさておき、私個人はとても嬉しかった。歴史的にすでに起きてしまったことをいまからなかったことにはできない。その当たり前の事実をちゃんとうけとめ、まもろうとしてくれる人がこんなにたくさんいるということに、ほんとうにあたたかい気持ちになった。
確かに当時日本人社会が犯した過ちは何年経とうが決して許されるものではない。だがその罪深さを語るとき、同時に、その罪を犯すまいとたたかった人々の存在や、罪を認めて二度と繰り返さない努力をこれまで続けてきた長い時間の積み重ねの意味も、評価してもらいたいとせつに願う。

横浜でのフィールドワークでは、南区の久保山墓地を起点に横浜橋商店街・横浜遊郭跡を経由して中村町を見学したあと、オプショナルツアー的に平楽の丘の上まで歩いた。
横浜は地震と火災の被害が甚大で市内だけで2万3千人以上が亡くなった。と同時に地震直後から流れ出したデマによって朝鮮人虐殺が多発した地域でもある。横浜市役所が震災3年後に発行した横浜市震災誌には「全市近郊隈なく暴状を呈し、暴民による多数の殺害を見、大なる不祥事を惹起するに至った」と書かれている(当日配布資料による)。その発生源と目されているのが、今回訪れた平楽の丘だった。
地震直後に発生した火災から逃れた真金町や中村町近辺の住人は、根岸町との間の高台に避難した。この平楽の丘だけで避難者数は数万人にも上ったという。中村川べりの簡易宿泊所で暮らしていた朝鮮人労働者たちも同じ丘を目指した。
そこで行われた立憲労働党の山口正憲の演説がデマの発端ではないかという説があるが、いずれにせよ2日にはすでに丘の上といわず麓といわず、周辺のいたるところで虐殺が始まった。それを目撃した子どもたちの作文が戦後まで残り、虐殺現場の貴重な証言となっている。未曽有の大火災を経て“復興小学校”として耐震・耐火構造で再建された校舎が、作文を太平洋戦争の空襲からまもってくれたのだ。

300点ほど残ったという作文で顕著なのは、書いている子どもたち本人のほとんどが、虐待され殺される朝鮮人に微塵の共感も示していないという点だそうである。あるいは彼らは、幼いながらに朝鮮人に対する差別意識をすでにもっていたのかもしれない。目と鼻の先に暮らしていながら、同じコミュニティに住む隣人としてみてはいなかったのかもしれない。だが皆無ではなかった。たったひとり、「私はいくら朝鮮人が悪い事をしたというが、なんだかしんじようーと思ってもしんじることはできなかった」と書いた少女がいた。彼女はこの平楽の丘で、必死に命乞いをしながらも自警団に虐待される朝鮮人を目撃していた。
作文を書いたのとはべつの小学生が、震災後51年を経て久保山墓地の中に私費で慰霊碑を建てている。それが関東大震災横死者合葬墓のすぐ隣にひっそりと建つ「殉難朝鮮人慰霊之碑」である。この碑を建てた人は震災当時小学校2年生。久保山の坂の電柱に縛られたまま、血を流して死んでいた朝鮮人を横目に見ながら避難した体験を、彼は半世紀を経て忘れることがなかった。
そして、誰も永久に忘れるべきでないとつよく思ったのではないだろうか。その思いは、いまもこの碑の前に集う市民に受け継がれている。

横浜は貿易港である。当時、長野~八王子~相模原を経て港まで輸出用の生糸を運ぶ“絹の道”があった。この絹の道を伝って、避難者の口伝えにデマは広がり、虐殺も広がっていってしまった。
いま、横浜でこの問題にとりくむ市民にとって、世界への玄関口たる横浜のアイデンティティさえも血で染めたという事実はとても重い意味をもっているのだろう。
その重みを重みとして感じることもとても重要だと思う。だがやはりそれだけでは、目の前にいる少数者を人としてみとめ共感し、いかなるときも偏見だけで判断しない人間性を育てる社会を築いていくのは難しいのではないかと思う。そうした社会を目指すことで初めて、どんな非常時にもヘイトクライムを許さない世界が実現可能となるのではないだろうか。
虐殺の残酷さを伝えることで若い世代に重荷だけを背負わせるのでは差別の歴史を断ちきることができないのなら、やはり、人としてこうありたいという姿、非常時にこそ弱者となる少数者の側にたとうとすることができる心のあたたかさや、まっすぐな気持ちをもっと、だいじに伝えてほしい。
少なくとも私自身は、そうした人たちに触れることができて、とても幸せな心地になれた。この感情を、これからずっと、たいせつに覚えていたいと思うから。

関連レビュー:
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』 加藤直樹著
『朝鮮の歴史と日本』 信太一郎著
『空と風と星の詩人 尹東柱の生涯』


横網町公園内、復興記念館に展示されている震災時の火災で焼け焦げた自転車。

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