落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

拷問史の楔

2022年01月30日 | book

『蚕の王』 安東能明著



かつて多くの冤罪事件を生んだ静岡県警。
中でも、事件を担当した刑事が自身の職を擲って被告人の無実を訴え、ことの顛末を手記として出版したことで知られる二俣事件を題材に、地元の作家が往時を知る人を訪ねて取材したノンフィクション小説。

昨年秋に連続した電車内での暴力事件埼玉県で起きた立てこもり事件など、大きな犯罪が報道されるたびどこからともなく湧いて出てくる「凶悪犯罪が増えている」論。
実際には、犯罪認知件数は2002年の369万件(法務省)をピークに2020年の統計では61万件(警察庁)まで減少している。専門家の見解としても「犯罪は増えていて凶悪化している」というのは誤解(グラフ多数)だとされている。
これはいま急にそうなったというのではなく、私自身が人権問題に関心をもって積極的に調べ始めたころ(2006年)からそうだったので、「変な犯罪者が増えてる」「物騒だ」「外国人が増えて治安が云々」などという根拠のない世論は、こういう思い込みが広まることでトクをする何者かがつくり出して意図的にバラ撒いている、いわゆる流言蜚語の類いといっていいと思う。
犯罪認知件数の推移は素人があれこれいうのは危険なので詳細はリンク先をみて判断してもらいたいのですが、あくまで私個人が強調しておきたいのは、もしあなたがどこかで不用意に「変な犯罪者が増えてる」「物騒だ」「外国人が増えて治安が云々」などと軽々しく口にすると恥をかくこともあり得ますよ、の一言に尽きる。仮にあなた自身が「変な犯罪者が増えてる」「物騒だ」「外国人が増えて治安が云々」という考えをもってるとしたら、ちゃんと所管の省庁や専門家のデータ分析を見てほしい。

私がここまでいうのには理由がある。
私は1995年に発生した某テロ事件の捜査対象者になったことがあるからだ。
根拠は、私が在日コリアンで首都圏で一人暮らしをしていた、たったこの2点だけ。
当時、警察は現場から逃走した複数人の実行犯を血眼で捜索していた。彼らは単独では潜伏できないから協力者がいると踏んで、一人暮らしで犯罪者予備軍と目される人物をローラー作戦で調べていたという。この「犯罪者予備軍」に、在日コリアンが含まれている。いた、ではない。現在もおそらくそうなっている。
日本の警察とはそういう組織です。
ネットで検索すれば、在日コリアンだけでなく日本で暮らしている外国人の多くが、警察や入管のせいでどれだけひどい人権侵害に遭っているか、ちょっとした体験談なら簡単に見つかる。一度是非やってみてくださいませ。

私が捜査対象者になっている事実が判明したのは、事件発生の翌年の春、所轄の捜査員から妙な電話がかかってきたことがきっかけだった。詳細は省くが、そのときの先方の発言内容がかなり不自然だったので大元の省庁に問い合わせたところ、あっさり「これこれこういう事情でご迷惑をおかけして申し訳ない」とゲロってくれた。
当の捜査員は電話より前から私の行動を監視していたと考えることもできる。そのころ、連日夜遅くまで働き、日によっては職場で徹夜までしていた私の在宅中にキッチリ電話がかかってきたことからも(携帯電話はまだ一部にしか普及していなかった)この手の推測は成り立つ。だいたい所轄の刑事がなんでウチの電話番号知ってんの?その情報どっからパクったの?ゾッとする。
まあ先方は「ごめんなさい」で済むけどこっちはそうは問屋が卸さない。当事者として、ひとりでも多くの人に知ってもらうべきだと考えている。日本の警察は、勝手な「予断」で誰でも彼でも犯罪者扱いすることがありますよと。

そうでもしなきゃ犯罪捜査なんかできないでしょと、みんなはいうだろう。
確かに一理あるかもしれない。だがそれは、当事者になったことがないからこそ安全なところから何の責任も伴わずに発言できる、何ら中身のない妄言に過ぎない。
Wikipediaで「日本の冤罪事件」で検索すればまとめページが閲覧できます。そんなのどうせ科学捜査が発達する前の昔の話では?と思う人もいるかもしれないが、平成になってからも冤罪事件は続いている。中には冤罪の疑いが濃厚と目されていながら死刑が執行されてしまった例もある(知りたかったら検索してね)。

冤罪の多くはこの「予断」からスタートする。それを日本の警察の自白至上主義が補強している。
先進国の警察では捜査の可視化が1970年代に始まり、現在では警察官の装備にカメラが取り付けられ、彼らがどこでどう捜査にあたっているかが100%映像と音声で記録される。また、現場での捜査中の取り調べは禁止されていて、よしんば取り調べをしても裁判で証拠として認められることはない。逮捕もしくは任意同行での署内での取り調べが原則で、もちろんこれもすべて映像と音声で記録され、編集されることなく裁判に証拠として提出される。だから陪審員は捜査中の警察の様子や被告人の態度を自分の目で見て判断することができる。
この制度は日本でも3年前(!!)にやっと導入されたが、それでも他国と比較してまるまる半世紀ほども遅れをとっている。
かつ、多くの先進国では逮捕後24時間、最大で72時間で起訴できなければ、それ以上容疑者を勾留することはできない。だが日本では最大20日勾留できる(追加の容疑でもっと勾留日数を延ばすことも可能)。いくら可視化が進んだところで、これほど長期間にわたって未決の被疑者を劣悪な環境に閉じ込め、やったかどうかもわからない犯罪について問い詰め続けるなど、拷問以外の何物でもない。
ちな拷問は拷問等禁止条約で世界的に禁止されており、日本は1999年に加入している。

二俣事件は、静岡県二俣町(現在の浜松市)の住宅で一家4人が殺害された事件だが、警察は近隣に住む未成年の少年を容疑者として逮捕し、連日拷問を加えて無理矢理自白させた。
ところが事件を担当していた山崎平八刑事は逮捕そのものを疑問視し、捜査本部幹部が証拠を捏造していることや有力容疑者の家族から賄賂を受けとっていることから冤罪の危険性を察知、不正捜査の実態をマスコミに暴露し、裁判でも弁護側の証人として出廷している。この行動のせいで山崎さんは警察の職を追われ運転免許まで取り上げられ、その後も家族ぐるみであらゆる嫌がらせに遭うなど、とても「正義の人」と目された人とはいえないほど苦労されたという。
山崎さんは後年、事件の顛末を書いた「現場刑事の告発 二俣事件の真相」という手記を自費出版していて、以前からこれがとても読みたかったのだが何せ自費出版なので事実上すでに入手は不可能である。無罪確定直後に弁護人のひとりである清瀬一郎氏と共著で出版した「拷問捜査―幸浦・二俣の怪事件」は古書市場でプレミアがついていて、気楽に買えるような価格ではない。
その二俣事件を、昨年秋、二俣出身で地域の事情をよく知る作家が小説にして出してくれたので読んでみた。

本書は二俣事件だけでなく、戦時中に起きた浜松連続殺人事件にもかなりの紙数を割いている。両者には、多くの冤罪事件を生み出したことで有名な紅林麻雄刑事が捜査を主導していたという共通点がある。そしてもうひとつ、初動で重要な容疑者を目の前に、十分な捜査をすることなく捕り逃していた点も共通している。
紅林刑事は過去に凶悪犯罪を何度も解決に導き無数の表彰歴を誇ってきたが、裁判で次々と無罪判決が出たことで警察内部での地位を失い、最終的には自ら辞職、まもなく病死している。それでも、彼や彼の捜査方法を是として追従する捜査員の拷問によって、未決収容中に亡くなった人までいることを考えれば、紅林刑事の強引な捜査を野放しにした警察組織の責任はもっと追求されて然るべきなのではないかと思う。

浜松連続殺人事件のパートでは、紅林刑事が初動で重大なミスを犯したことで、その後の被害を未然に防ぐことすらできなかったという致命的な大失態が生じたにもかかわらず、そのミスがきちんと検証されないまま見過ごされた警察組織の穴が克明に描かれている。紅林刑事は名刑事などではなく、客観的なプロファイリング能力が著しく欠けていた。その点を、著者は彼の過去のキャリアから紐解いている。
あるいはこのとき、紅林刑事がやらかしたことがもっと重要視されていたら、その後に続く冤罪事件も防ぐことができたはずだ。冤罪事件は無辜の人を犯罪者と決めつけて有形無形の暴力に晒すという人権侵害だけでなく、本物の真犯人を放置し社会の安全を脅かすという、より広範な罪を伴う。
それが誰が見ても呆れるほど低レベルな失敗に端を発していることが、綺麗に整理されて記されている。

これは紅林刑事個人や、その時代の静岡県警だけの問題ではない。
そもそも警察の役割のトッププライオリティはあくまで「社会の秩序と安全を守ること」であって、「犯罪者を逮捕、送検する」のは単純にその目的のための手段のひとつに過ぎない。
私個人の目から見ると、このふたつの職務の関係性は日本だけでなくどこの社会でもあまり重視されていないように感じる。
無辜の人を犯罪者と決めつけて真犯人を捕り逃すなどということは、「社会の秩序と安全を守ること」という最重要任務のまったく逆で、断じて許されていいはずのない国家の犯罪にあたる。
日本のメディアは容疑者が逮捕された時点であたかも事件が解決したかのように、真犯人と決まったわけでもない容疑者のプライバシーまで蹂躙して騒ぎ立てるが、これも立派な「名誉毀損」という罪になる。容疑者が起訴されようが不起訴になろうが、彼らは反省したり謝罪したりなんかしない。警察の発表を素直に報道しただけで、自分たちには何の落ち度もないとしてけろっとしている。多くの視聴者も同様なのだろう。

でも、一度考えてみてほしい。
社会に冤罪がある限り、それは明日にでもあなた自身に降りかかって来るかもしれない。
身に覚えのない容疑で警察に連れていかれ、劣悪な環境に閉じ込められ、何日も家族にも友だちにも会うこともできず、隣近所や職場ではありもしない噂をたてられ、場合によっては仕事も家庭も失うことさえある。
それは誰の身にも起こり得ることなのだ。
避けようのないことだ。残念なことに。

二俣事件の容疑者となった少年は事件当時18歳。裁判で最終的に無罪を勝ち取るまで、7年もの歳月を要した。
10代後半から20代前半の青春真っ盛りの年代を、彼は「罪人」として生きることを強いられた。彼の家族もまた、犯罪者の家族として社会から孤立させられた。
真犯人は未だに見つかっていない。
こんなことは、これだけ科学技術が発達したいま、決して繰り返されるべきではない。
それは警察だけでなく、われわれ自身の問題でもあると、私は思っている。

しかしこの本の最後の最後の伏線の回収は凄いね。
主要登場人物のほとんどが仮名で書かれたノンフィクション「小説」だけど、後書きで著者本人が「(特定の箇所を除いて)すべて事実に即している」と書いているのがその通りだとするなら、この作品そのものが、著者・安東能明氏の手で「書かれるべくして書かれた」ものだということになる。
そんなこと、あるんだね。
事実は、小説より奇なり。


関連リンク
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