落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

犬の天国

2007年05月20日 | book
『ティンブクトゥ』ポール・オースター著 柴田元幸訳
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主人公は犬。でもファンタジーじゃない。
ミスター・ボーンズの飼い主はウィリアム・G・クリスマスという詩人。“飼い主”だけど“主人”じゃない。いつもそばにいて、寝るところ・食べるものを与えてはくれるけれど、ふたりの関係は主従とか上下とかそういうものはない。あえていうなら、“友人”、“相棒”みたいな間柄。
ウィリーはホームレスだったけど、ミスター・ボーンズは彼といられるだけで幸せだった。おなかがすいていても、寒くても、ウィリーがいっしょにいれば怖くなかった。でも、ウィリーはもうすぐ死ぬ。彼が死んだらどうすればいいんだろう?

飼い主とともに生き、呼吸する生き物、犬。
日本にも忠犬ハチ公なんて地名にまでなった犬がいますね。
けど思うに犬の方では意識して忠誠を尽くしてるつもりなんかない。彼らは生まれながら、そばにいて自分を求めてくれる人を自らの一部として生きる動物なのだ。飼い主を慕う、愛するということは、彼らにとって食べたり眠ったり性交したりすること同様、生きていくうえで当り前の行為なのだと思う。

ミスター・ボーンズはウィリーのおしゃべりを聞いているうちに人の言葉を解するようになり、自分でも喋りたいと願うようになる。
もちろんそんなことは生物学的には不可能だ。
だが犬を飼った経験のある方はおわかりかと思うが、犬は実際かなり高度なレベルで人の言葉を理解しているのではないだろうか。いや、ある部分では言葉以上に飼い主の心情や状況を深く理解しているようにも思える。どんくさくて“お手”“おすわり”“ふせ”もろくにできない犬でも、飼い主が悲しんでるとか、悩んでるとか、怒ってるとか、苦しんでるとか、逆に喜んでるとか、浮かれてるなどという感情は相当ダイレクトに感じとっていることは間違いない。知らない人が近づいてきても、相手が犬好きか犬嫌いかを瞬時に判別する。
そんな豊かな感受性の根源はやはり、「愛されたい」「求められたい」という犬の基本的欲求によるものだと思う。感じたことを分析し、正しい行動に反映できるかどうかはまた別問題ではあるが。
ミスター・ボーンズもとくに利口な犬ではない。少なくとも外見的にはごくあたりまえの雑種犬でしかない。彼がウィリーを信じ、ウィリーがいてくれるだけで充足し、ウィリーの思い出に頼り、ウィリーと同じ“ティンブクトゥ”に行きたいと願うのは、彼が犬だからだ。
しかしそれほどまでに絶対的な愛を生き抜くとは、なんと美しく幸せな生涯だろう。
ウィリーなしにミスター・ボーンズの人生は成立しない。それを憐れということもできる。けれど少なくとも、彼は自分では「これでよかったんだ」と一片の疑いもなく信じている。
それでいいではないですか?

ちなみにタイトルの“ティンブクトゥ”とはウィリーの説明によれば天国のような死後の世界のこと。
由来はトンブクトゥ(Tombouctou)という現在世界遺産に指定されている西アフリカはマリ共和国の都市名。古来より南北アフリカやヨーロッパの商人が行き交う交易拠点だったことからこの地にまつわる多くの伝説や物語が広く伝播し、「異国」「遠い地」の比喩として“ティンブクトゥ”という表現が使われるようになったそうだ。