Forever hill

男は夢に追われる孤独なランナー

ファイティング原田の大番狂わせ

2009-03-04 17:19:11 | スポーツ

1965(昭和四十年)「黄金のバンタム、史上最強の王者エデル・ジョフレ(ブラジル)来日」新聞の活字が躍った。

世界バンタム級チャンピオンエデル・ジョフレが来日した。戦績は49戦無敗で、過去8度の防衛戦はすべてKO勝ちという怪物だった。

迎え撃つ挑戦者は若きファイティング原田。自分が初めてファンになったプロボクサーで、フライ級からバンタム級へクラスを上げての挑戦だった。

自分はこの王者が来日した時から恐ろしくて、自分が戦うわけではないのに怖かった。とうてい原田が勝てる相手だとは思っていなかった。KO負けする場面ばかりが頭にちらついた。

5月18日名古屋世界バンタム級タイトルマッチのゴングが鳴った。当時はプロレスとともにボクシングも人気があり、国民的スポーツだった。テレビの視聴率は50%を超えたのではないか。自分は緊張のあまり気持ち悪くなった。

試合は・・・。原田は初回から挑戦者らしく怖いもの知らずで前へ前へと突進していった。時たまパンチをもらったが一進一退だった。当時世界戦は15回制で、終盤はスタミナ勝負のところがあった。原田はけっしてパンチ力がある方ではなかったが、スタミナにはめっぽう自信がありそれに基づくラッシュ戦法が武器となっていた。とうとう怪物相手に15回を戦い抜き、勝敗は判定に持ち込まれた。とにかく原田がKO負けしなかったのがうれしかったのを憶えている。

判定の結果、原田が2-1の僅差で勝ち最強王者ジョフレに初黒星をつけ新チャンピオンとなる。これは「世紀の大番狂わせ」となり世界中を驚かせた。自分は夢心地で雄叫びを上げた。

 

原田はこれで二階級制覇となった。これより三年前原田は世界フライ級チャンピオンポーン・キングピッチ(タイ)に挑戦し、11回KO勝ちでタイトルを獲得しているのだった。

こちらの試合の方が強烈な記憶がある。11回原田はチャンピオンをコーナーに追いつめるとラッシュの嵐で何十発という連打を打ち続けKO勝ちした。原田は19歳という若さで白井義男以来日本人二人目の世界チャンピオンとなったのだ。この時初めてファイティング原田を知り、応援するようになる。しかしタイで行われたリターンマッチでは負けてしまう。

そのすぐ後原田のライバル海老原博幸がキングピッチに挑戦し1回鮮やかなKO勝ちでチャンピオンとなるが、原田と同じようにリターンマッチで敗れてしまう。このライバルは以前新人戦でぶつかりその時は原田が勝っていた。

 

世界バンタム級チャンピオンとなった原田は初防衛戦を完勝して、翌年2度目の防衛戦相手に元チャンピオンのジョフレを選んだ。いわばリターンマッチだったが、今度は負けるのではないかという心配をよそに3-0の判定で決着をつけた。

これは知らなかったのだが、ジョフレはその後クラスを上げ世界フェザー級の王座を獲得している。生涯78戦しているが、負けたのは原田の2戦だけだそうだ。

原田の3度目の防衛戦相手は修行時代負けを喫していたジョー・メデル(メキシコ)だった。メデルは「ロープ際の魔術師」と呼ばれテクニシャンであった。しかし原田は危なげなく若い頃の雪辱を果たした。

原田は4度目の防衛戦に勝ち、5度目の防衛戦に選んだ相手はライオネル・ローズ(オーストラリア)だった。原田はこのローズに判定で破れ5度目の防衛戦に失敗する。ローズは原田を倒したことにより国民的ヒーローとなる。

 

その後、原田はさらに階級を上げフェザー級でチャンピオンのジョニー・ファメション(オーストラリア)に敵地で挑戦する。この試合原田は3度のダウンを奪うも疑惑の判定負けとなる。

1970(昭和45年)1月東京で再度ファメションに挑戦するも14回KO負けする。その3週間後原田は引退を表明した。原田は生涯日本人ボクサーには負けていない。

原田は現在日本ボクシング協会会長を勤め、アメリカで日本人ボクサーとしてはただひとり世界の殿堂入りを果たしている。

当時は階級も少なく、協会もひとつで世界にチャンピオンは11人しかいなかった。そのうえで最強の王者ジョフレを破ったことはとてつもないことで、それを殿堂入りしたことで世界が認めているのだ。

当時世界中を驚かせた「世紀の大番狂わせ」としては、ファイティング原田がジョフレを破ったのと翌年イングランドで行われたワールドカップサッカー北朝鮮イタリアを1-0で破ったのが双璧であろう。

報知新聞「主役再び」を参考にしました。

 



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