Forever hill

男は夢に追われる孤独なランナー

ちよ旅12高梁と備中松山城

2015-05-25 22:21:42 | 旅行記

ちよ、今回も前回の続きで備中松山城その城下町である高梁(たかはし)の街を散策します。

「現存12天守」のうち最後に残ったのが備中松山城で、ここに行けば完全制覇となります。

 

岡山駅から伯備線特急やくも9号で高梁に向います。(左上)

やくも号の運転席の仕切りはガラス張りなので、前方の景色がよく見えます。(右上)

楽しみな駅弁は、栗おこわ弁当です。(上)

高梁駅に着いて、高梁テクテクマップをもらって散策に出発です。

城見通りを行くと、この建物があります。

1904(明治37)建築された旧高梁尋常高等小学校本館です。(上)

この本館の保存活用を図るため、1978(昭和53)高梁市郷土資料館として開館しました。

 

美観地区の紺屋川と桜並木です。(左上)

1889(明治22)に建設された高梁キリスト教会堂です。(右上)

この教会堂は、現存する県内最古の教会堂です。

   

石火矢町の武家屋敷に、やって来ました。

150石どりの旧埴原家(左上)と、漆喰壁の長屋門が美しい旧折井家(右上)です。

この辺りは、映画「男はつらいよ」「バッテリー」のロケ地になっています。

 

いよいよ、備中松山城への遊歩道に入って行きます。(左上)

途中に、大石内蔵助腰掛石なるものがありました。(右上)

水谷家断絶の後、城を受取りにきたのが播州赤穂の大内内蔵助でした。

城代として登城の際、この石に腰掛けて休息したと伝えられています。

この遊歩道も、竹田城跡の登山道と同じ位きついです。

何回も休みながら、シャルトバス終点のふいご峠までたどり着きました。

ここから城までは、さらに約700m20分かかります。

  

やっと石垣が見えてきましたが、これは中太鼓丸櫓跡です。(左上)

伝達手段として使われた太鼓丸櫓の一つで、太鼓の合図の中継地点でした。

いよいよ城の入り口の大手門跡ですが、登城道に対して矩折り(かねおり・直角に曲がる)となっています。(中上)

内部は高い石垣で囲まれた枡形構造で、防御に対して工夫をこらし実戦向きに築かれています。(右上)

  

まさに、山城ならではの大手門右手にそびえる石垣群です。(左上)

天然の岩盤の上に石垣を築き、さらに土塀を建てています。

三の平櫓東土塀で、四角い矢狭間と丸い筒狭間を備えている現存する土塀です。(中上)

二の丸まで登ってきて、ようやく天守が見えてきます。(右上)

天守のある山城の中では、最も高い所(標高430m)にあります。

本丸からの現存する天守です。(上)

1240(延応2)地頭秋庭三郎重信大松山(現天守より北側の峰)に砦を築いたのが始まりです。

現在の天守は小松山にあり、1683(天和3)水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。

「現存12天守」の中では、唯一の山城です。

 

天守二階からの眺めです。(左上)

天守北側にある二重櫓で、天然の岩盤の上に石垣を築き建てられています。(右上)

備中松山城の中では、天守・土塀とともに現存する建築のひとつです。

秋から冬にかけて雲海が発生して、備中松山城も天空の山城となります。

これで、「現存12天守」の完全制覇(写真を撮っただけのも含む)成りました。

帰りは疲れてしまい、シャトルバスでふもとの駐車場まで下りました。

その後、タクシーで高梁駅に出て特急やくも18号で岡山に帰りました。

帰りの新幹線で食べた、駅弁のままかりと鰆(さわら)セット寿司なめらかフルーツゼリーです。(上)

今日のおみやげは、岡山名物のままかり生酢漬けと桃泉果(とうせんか)です。

桃泉果は、まるごとひとつの白桃をゼリーが包んでいます。(上)

―ちよ旅12高梁と備中松山城・おわりー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ちよ旅11竹田城跡

2015-05-19 17:01:06 | 旅行記

ちよ、今回は日本のマチュピチュ・天空の城と言われる竹田城跡を訪れます。

遺構好きにとってこの日本屈指の山城遺構は、絶対に行きたいところのひとつです。

 

開業当時の形に改装された、東京駅丸の内北口ドームの天井です。(上)

東京駅からのぞみ103号で出発します。

列車旅の楽しみは、何と言っても駅弁です。

まずは、「あなご寿司三昧」です。(上)

3時間で姫路に着きました。

せっかくですので、約5年をかけて天守閣の修理を終えた姫路城を見に行きます。

最も変わったのは屋根の部分で、屋根瓦の継ぎ目に目地漆喰を使用したことです。

白鷺城は、前にも増して白く輝いていました。(上)

姫路城は戦争の空襲にも奇跡的に生き残り、現存12天守のひとつです。

先を急ぎますので、姫路城は写真を撮っただけです。

姫路駅に帰ると、名物の「明石焼き」がありました。(上)

たこ焼きに比べると中がとろとろで、だし汁をつけて食べます。

  

姫路から播但線はまかぜ3号(左上)に乗って、竹田駅(右上)に着きました。

踏切を渡って駅裏登山道より、標高353mの山頂にある竹田城跡に挑みます。

この登山道は工事で通行止だったのですが、最近になって通れるようになりました。

 

これは登ってすぐのところにある、竹田城の城主や家臣たちの屋敷の遺構です。(左上)

険しい登山道ですが、昔の人も登城の折にはこの道を登ったと考えられています。(右上)

山頂に近づくにつれて、勾配がさらにきつくなります。

進んでは休みを何回も繰り返して、ようやく竹田城跡にたどり着きました。

  

  

1443(嘉吉3)山名氏赤松氏との対立の中、最前線基地として但馬守護大名山名宗全が築城したとされています。

以後太田垣氏が7代にわたって城主となりますが、1580(天正8)羽柴秀吉の但馬征伐により落城します。

最後の城主赤松広秀が豪壮な石積みの城郭を整備したと言われていますが、1600(慶長5)関ヶ原の役のあと廃城となっていきます。

  

  

山頂に石垣だけが残っている雰囲気から、規模は小さいものの日本のマチュピチュと呼ばれています。

秋から冬にかけて朝霧が発生し、雲海に包まれた竹田城跡はまさに天空の城となります。

帰りも舗装道路ではなく、表米神社登山道から下ります。

こちらもかなりの急勾配ですが、下りは少しは楽でなんとか無事に下りてきました。

 

登山道の名前のとおり、下りてくると表米神社に着きます。

境内には、土俵を囲んで六段の貴重な石積み相撲桟敷があります。(左上)

手前には舞台もあって、歌舞伎の見学にも使用されたと考えられます。

下りてきた表米神社の参道を、ふり返って見たところです。(右上)

当初の予定では、竹田城跡の全景が見渡せる立雲峡の展望台に登るつもりでしたが・・・。

思った以上に疲れ果てて、断念しました。

このあとはまかぜ6号で姫路に戻り、山陽新幹線岡山に出て泊まりました。

―ちよ旅11竹田城跡・おわりー