ちよ散歩、今回は旧川越街道を白子宿まで歩きます。
旧川越街道は、板橋宿までは中山道をきます。
そして、この平尾追分で中山道と分かれます。
板橋宿平尾追分から、スタートします。
画像右が旧中山道の中宿で、左の首都高下の新中山道(17号線)が旧川越街道となります。
17号線の歩道を行くと、すぐに四ツ又ワインロードへの丁字路となり左に曲がります。
四ツ又商店街は、名前が変わり道路も広がり真ん中に公園ができました。
公園には首都高の支柱が建ち地下には駐車場ができ、様変わりしました。
旧川越街道と当時の高田道(板橋宿から高田・雑司が谷へ至る道)が交差する十字路を、四ツ又と称しました。
旧川越街道は、大名参勤交代の中山道の迂回路として使われました。
それゆえ、当時から四ツ又は賑わっていました。
山手通りを渡り、遊座大山商店街へと入って行きます。
右隅の建物が板橋区立文化会館です。
昔、文化会館は大山区民館と呼ばれていて区民館通りと言ってました。
文化会館を過ぎると、人ごみが増えてきます。
やがて、踏切があり東上線の大山駅となります。
踏切を越えると、アーケードのあるハッピーロードと名前も変わります。
さらに、雑踏の激しさが増します。
おそらく自分が思うに、この商店街は板橋区隨一の賑わいを見せる所ではないでしょうか。
こちらは、以前は大山美観街と言っていました。
ハッピーロードを抜け、ここで初めて新川越街道(254号線)に出あいます。
すぐ右に曲がりると、大山福地蔵尊があります。
江戸後期文化文政の頃、おふくさんという行者が来て人々の難病苦業を癒し慕われておりました。
地元大山の人々によりおふく地蔵として祀られ、現在に至っています。
新道に、もどります
次の交差点で、画像右斜めに入っていくのが旧道です。
この辺りから、下頭橋(げとうばし)までが上板橋宿とされています。
途中、防災辻広場で辻のいずみという井戸のポンプを見つけました。
次に、和菓子工房辰屋かぎやに寄りました。
江戸時代板橋で菓子問屋開業後、伝馬宿場の鍵を預かりました。
それにより、鍵屋の商号をもらい鍵屋の屋号で商売していました。
明治に廃業しましたが、栗原登喜雄氏が辰年であることから辰屋かぎやとして復興したそうです。
中板橋駅に通じる丁字路を過ぎ、さらに歩いて行きます。
しばらく行くと、石神井川に架かる下頭橋があります。
この橋の名前の由来は、諸説あるようです。
そのひとつが、橋のたもとで物乞いをしていた六蔵がいました。
その六蔵の金をもとに、石橋に架け替えられたからというものです。
橋のたもとには六蔵祠(ろくぞうし)がありますが、これは六蔵の道徳を讃えて建てられました。
橋を渡ると、真っすぐではなく左斜めに入って行くのが旧道です。
すぐに、新道と環七との板橋中央陸橋交差点へ出ます。
しばらくは、新道を行くことになります。
歩き続けると、やがて新道の真ん中に五本けやきが見えてきます。
五本けやきは、元上板橋村長飯島弥十郎家の屋敷の一部でした。
道路用地となり切り倒される予定でしたが、同家の強い要望があってこの木を避け道路は完成しました。
今では、ドライバーの心を癒すオアシス的存在となっています。
五本けやきから、新道を少しもどります。
右に入る旧道があり、上板南口銀座へと入って行きます。
しばらくすると子育地蔵尊があり、中に二体の地蔵尊が見えます。
三体あったのですが荒廃して、いつしか二体になっていたといいます。
宝田半二郎氏が、大正の頃現在の場所へ移しました。
この辺りは下練馬宿で、川越寄りから上宿・中宿・下宿と呼びました。
川越街道は、「栗(九里)より(四里)うまい十三里」 と川越いもの宣伝にも一役買いました。
街道沿いにあった、大きな御屋敷のけやきの大木です。
道路を隔てたマンションにまで、枝が伸びています。
環八がトンネルで抜ける、ちょうど真上に来ました。
ここに、下練馬の道標があります。
右が、旧川越街道とふじ大山道との分岐点に建てられた大山道道標です。
左は、東高野山道道標で練馬区高野台の長命寺への道しるべです。
長命寺は、紀伊高野山を模して伽藍を整え山号を東高野山と称しています。
ここらで、商店街は北一商店街から北町商店街となっていきます。
しばらく進むと、浅間神社と下練馬の富士塚があります。
これは富士塚で、上の社が頂上で右下の石標には八合目とあります。
ミニ富士登山の体験ができ、これまでの街道歩きではいたる所に富士塚が見られました。
富士信仰が盛んになると、富士山に登れない人のために冨士山の溶岩を持ってきて身近に自家製の富士山を造ってしまったといいます。
すぐに、北町観音堂があります。
仁王像に守られているのは、北町聖観音坐像(真ん中奥)です。
1682(天和2年)の造立で、高さ2.7mで区内最大の石仏です。
仁王像はその翌年に造立で、右は阿形像(あぎょうぞう)左は吽形像(うんぎょうぞう)です。
北町観音堂は、旧川越街道と徳丸・赤塚への分岐道の目印ともなっていました。
東武練馬駅を過ぎると、急に人も車も少なくなり旧道を進みます。
途中、北町三丁目西停留所前に昔の面影を残す竹屋さんがあり手作りの竹製品が並んでいました。
やがて旧道は新道に吸収され、また新道の歩道を行きます。
下赤塚駅の雑踏を過ぎたところで、そば処満る賀で昼食と休憩です。
地下鉄赤塚駅入口の所に、騎馬武者像があります。
これは鎌倉古道の標識で、至かまくら・至はやせと書いてあります。
広い歩道を歩いて行くと、光が丘公園入口の交差点となります。
光が丘は、昔はグラントハイツと言って米軍居住地でした。
当時の新道沿いには、英語で書かれた看板の店が多く見られました。
坂を下り切ると、小冶兵衛窪庚申尊があります。
青面金剛が三猿の上に座っている坐像彫刻は、珍しいそうです。
庚申(かのえさる)の日に人々が集まり豊作や健康を祈る行事を庚申待といい、その供養に建てたのが庚申塔です。
庚申様は、道祖神として守り神ともなっています。
庚申信仰については、(ちよ散歩②旧中山道板橋宿参照)。
成増駅付近の雑踏を越えて行くと、この八坂神社があります。
その案内板によると、八坂神社の右の道が旧道だそうです。
八坂神社は、京都の八坂神社を勧請したと言われています。
ここから白子川の間には新田宿の集落があり、白子川へ下るため急坂となっていて新田坂と呼ばれました。
八坂神社のそばには新田坂石造物群があり、道祖神や常夜燈などが置かれていました。
新田坂を下り、新田宿を歩いて行きます。
白子川にかかる白子橋を、渡ります。
この橋の欄干には、白子になじみが深い清水かつらの作詞した「くつが鳴る」の歌詞が刻まれています。
清水かつらは、後半生を白子で過ごし次々と童謡を発表しました。
「叱られて」「雀の学校」「夕焼けこやけ」などを、作詞しています。
次の交差点を左に曲がり、わかりにくいですが郵便局手前の小道を右に曲がります。
奥まったところに、熊野神社があります。
中世熊野信仰は、全国的に武士や民衆の間に広まりました。
この熊野神社も、白子の鎮守さまとして守られてきました。
左の奥には、開運洞窟めぐりと書かれている洞窟の入口がありました。
中に入ってみると、真っ暗で何も見えません。
手探りで進むのですが、恐怖を感じ何度も引き返そうとしました。
出口の明かりが見えた時はホッとしましたが、運が開けるのでしょうか。
熊野神社の右側に、ここにも富士塚がありました。
境内神社の冨嶽神社も、あります。
やはり富士登山が出来るようになっていて頂上まで登りましたが、こちらはつつじの木で覆われていました。
また旧道にもどると、先程の郵便局の所です。
この辺りが、白子宿中宿らしいのですが面影はありません。
信号を渡り、道は急な上り坂の大坂へと入って行きます。
その坂下に、格子が見事なやっと白子宿らしいりっぱな旧家を見つけました。
この旧家を、白子宿のゴールとします。
最後に、白子宿から成増駅に向かいました。
北口に、清水かつら作詞の「みどりのそよ風」の碑を見つけました。
この歌は学校の音楽授業で習ったのでしょうか、すんなりと歌うことが出来ました。
本日のおみやげは、辰屋かぎやの冷やしうす塩豆大福(こしあん)です。
やっぱり、大福はこしあんにかぎります。
-ちよ散歩⑥旧川越街道白子宿・おわり-