Forever hill

男は夢に追われる孤独なランナー

菊花賞で秋競馬最初の勝負

2008-10-26 17:12:08 | ギャンブル

この秋は忙しくて競馬ができませんでした。菊花賞が最初の勝負です。

菊花賞の思い出は少し古くなりますが、何と言ってもハイセイコータケホープのライバル対決です。

当時はハイセイコーブームでダービーでタケホープの三着に負けたのですが、依然として人気がありました。「ハイセイコーのために働いているんだ」と、パドックで声がかかったとか。

自分もそのひとりでブームに乗って初めて馬券を買ったのが1973菊花賞です。

の直線ハイセイコーとタケホープ内外離れて同時に入線。写真判定でハイセイコーは惜しくもハナ差二着。優勝したタケホープの騎手は武豊の父武邦彦でした。

当時は枠連だけですが920円的中し、これに味をしめ競馬にはまりました。

さて今年の菊花賞の軸馬は・・・。

ダービー1、3着のディープスカイブラックシェルが出てこないので、当然ダービーで本命にして4着で地団駄踏んだ9マイネルチャールズからいきます。10スマイルジャックのダービー2着はフロックだと思う。

マイネルチャールズは夏から三戦目体調ベスト。先行力があるので距離も持つ。心配は馬主のジンクスだが、3着でいいですから。三冠とも指定席9番枠でツキもある。

ヒモの検討・・・。

神戸新聞杯組が強いが1、2着馬が出てこないので混戦だ。着順二桁木曜体重大幅増を除くと残るのは、5ナムラクレセント、6ロードアリエス、11ミッキーチアフル、12ヤマニンキングリー、14オウケンブルースリ。10スマイルジャックは休み明けとはいえ、前走負けすぎ。

セントライト組からは18ダイワワイルドボア。別路線からは8スマートギア、17ダイシンプランだけ。

あなたの夢は何ですか、私の夢はマイネルチャールズです。

結論 三連複軸一頭 9-5、6、8、11、12、14、17、18 8頭買い

追記

久しぶりに大興奮しました。直線入口で9マイネルチャールズが先頭に立った時は声を張り上げたのですが、差されると思いました。全身を使っての走りに余裕がなかった。

それに比べると優勝した14オウケンブルースリの走りは見事なもので、馬力が全然違いました。実績上位二馬がいないこのレースは新興勢力が上でした。

3着の5ナムラクレセントも夏までは条件馬でした。

納得いかないのが2着の1フローテーション。ダービー8着だから買えないことはないが、調教見た人はわかると思うけどヨレヨレだったのに。

三連複 1-5-14 92,720円 ハズレ  三連単 14-1-5 523,990円

競馬は益々わからなくなりました。これで今年のGⅠは二連勝のあと十連敗です。でも気持ちはもう天皇賞・秋にいってます。


ちよ散歩⑥旧川越街道白子宿

2008-10-24 01:54:21 | まち歩き

ちよ散歩、今回は旧川越街道白子宿まで歩きます。

001旧川越街道は、板橋宿までは中山道をきます。

そして、この平尾追分で中山道と分かれます。

板橋宿平尾追分から、スタートします。

画像右が旧中山道中宿で、左の首都高下の新中山道(17号線)が旧川越街道となります。

17号線の歩道を行くと、すぐに四ツ又ワインロードへの丁字路となり左に曲がります。

004四ツ又商店街は、名前が変わり道路も広がり真ん中に公園ができました。

公園には首都高の支柱が建ち地下には駐車場ができ、様変わりしました。

旧川越街道と当時の高田道(板橋宿から高田・雑司が谷へ至る道)が交差する十字路を、四ツ又と称しました。

旧川越街道は、大名参勤交代の中山道の迂回路として使われました。

それゆえ、当時から四ツ又は賑わっていました。

山手通りを渡り、遊座大山商店街へと入って行きます。

007右隅の建物が板橋区立文化会館です。

昔、文化会館は大山区民館と呼ばれていて区民館通りと言ってました。

文化会館を過ぎると、人ごみが増えてきます。

やがて、踏切があり東上線大山駅となります。

 

012踏切を越えると、アーケードのあるハッピーロードと名前も変わります。

さらに、雑踏の激しさが増します。

おそらく自分が思うに、この商店街は板橋区隨一の賑わいを見せる所ではないでしょうか。

こちらは、以前は大山美観街と言っていました。

 

ハッピーロードを抜け、ここで初めて新川越街道(254号線)に出あいます。

016すぐ右に曲がりると、大山福地蔵尊があります。

江戸後期文化文政の頃、おふくさんという行者が来て人々の難病苦業を癒し慕われておりました。

地元大山の人々によりおふく地蔵として祀られ、現在に至っています。

 

新道に、もどります

019次の交差点で、画像右斜めに入っていくのが旧道です。

この辺りから、下頭橋(げとうばし)までが上板橋宿とされています。

途中、防災辻広場辻のいずみという井戸のポンプを見つけました。

 

 

022次に、和菓子工房辰屋かぎやに寄りました。

江戸時代板橋で菓子問屋開業後、伝馬宿場の鍵を預かりました。

それにより、鍵屋の商号をもらい鍵屋の屋号で商売していました。

明治に廃業しましたが、栗原登喜雄氏が辰年であることから辰屋かぎやとして復興したそうです。

中板橋駅に通じる丁字路を過ぎ、さらに歩いて行きます。

024_2しばらく行くと、石神井川に架かる下頭橋があります。

この橋の名前の由来は、諸説あるようです。

そのひとつが、橋のたもとで物乞いをしていた六蔵がいました。

その六蔵の金をもとに、石橋に架け替えられたからというものです。

 

027橋のたもとには六蔵祠(ろくぞうし)がありますが、これは六蔵の道徳を讃えて建てられました。

橋を渡ると、真っすぐではなく左斜めに入って行くのが旧道です。

すぐに、新道と環七との板橋中央陸橋交差点へ出ます。

 

しばらくは、新道を行くことになります。

033歩き続けると、やがて新道の真ん中に五本けやきが見えてきます。

五本けやきは、元上板橋村長飯島弥十郎家の屋敷の一部でした。

道路用地となり切り倒される予定でしたが、同家の強い要望があってこの木を避け道路は完成しました。

今では、ドライバーの心を癒すオアシス的存在となっています。

五本けやきから、新道を少しもどります。

042_2右に入る旧道があり、上板南口銀座へと入って行きます。

しばらくすると子育地蔵尊があり、中に二体の地蔵尊が見えます。

三体あったのですが荒廃して、いつしか二体になっていたといいます。

宝田半二郎氏が、大正の頃現在の場所へ移しました。

 

047この辺りは下練馬宿で、川越寄りから上宿・中宿・下宿と呼びました。

川越街道は、「栗(九里)より(四里)うまい十三里」川越いもの宣伝にも一役買いました。

街道沿いにあった、大きな御屋敷のけやきの大木です。

道路を隔てたマンションにまで、枝が伸びています。

 

環八がトンネルで抜ける、ちょうど真上に来ました。

049ここに、下練馬の道標があります。

右が、旧川越街道とふじ大山道との分岐点に建てられた大山道道標です。

左は、東高野山道道標練馬区高野台長命寺への道しるべです。

長命寺は、紀伊高野山を模して伽藍を整え山号を東高野山と称しています。

 

 

056ここらで、商店街は北一商店街から北町商店街となっていきます。

しばらく進むと、浅間神社下練馬富士塚があります。

これは富士塚で、上の社が頂上で右下の石標には八合目とあります。

ミニ富士登山の体験ができ、これまでの街道歩きではいたる所に富士塚が見られました。

富士信仰が盛んになると、富士山に登れない人のために冨士山の溶岩を持ってきて身近に自家製の富士山を造ってしまったといいます。

059すぐに、北町観音堂があります。

仁王像に守られているのは、北町聖観音坐像(真ん中奥)です。

1682(天和2年)の造立で、高さ2.7mで区内最大の石仏です。

仁王像はその翌年に造立で、右は阿形像(あぎょうぞう)左は吽形像(うんぎょうぞう)です。

北町観音堂は、旧川越街道と徳丸・赤塚への分岐道の目印ともなっていました。

061東武練馬駅を過ぎると、急に人も車も少なくなり旧道を進みます。

途中、北町三丁目西停留所前に昔の面影を残す竹屋さんがあり手作りの竹製品が並んでいました。

 

 

やがて旧道は新道に吸収され、また新道の歩道を行きます。

下赤塚駅の雑踏を過ぎたところで、そば処満る賀で昼食と休憩です。

064地下鉄赤塚駅入口の所に、騎馬武者像があります。

これは鎌倉古道の標識で、至かまくら・至はやせと書いてあります。

広い歩道を歩いて行くと、光が丘公園入口の交差点となります。

光が丘は、昔はグラントハイツと言って米軍居住地でした。

当時の新道沿いには、英語で書かれた看板の店が多く見られました。

 

067坂を下り切ると、小冶兵衛窪庚申尊があります。

青面金剛三猿の上に座っている坐像彫刻は、珍しいそうです。

庚申(かのえさる)の日に人々が集まり豊作や健康を祈る行事を庚申待といい、その供養に建てたのが庚申塔です。

庚申様は、道祖神として守り神ともなっています。

庚申信仰については、(ちよ散歩②旧中山道板橋宿参照)。

071成増駅付近の雑踏を越えて行くと、この八坂神社があります。

その案内板によると、八坂神社の右の道が旧道だそうです。

八坂神社は、京都の八坂神社勧請したと言われています。

ここから白子川の間には新田宿の集落があり、白子川へ下るため急坂となっていて新田坂と呼ばれました。

八坂神社のそばには新田坂石造物群があり、道祖神や常夜燈などが置かれていました。

新田坂を下り、新田宿を歩いて行きます。

075白子川にかかる白子橋を、渡ります。

この橋の欄干には、白子になじみが深い清水かつらの作詞した「くつが鳴る」の歌詞が刻まれています。

清水かつらは、後半生を白子で過ごし次々と童謡を発表しました。

「叱られて」「雀の学校」「夕焼けこやけ」などを、作詞しています。

次の交差点を左に曲がり、わかりにくいですが郵便局手前の小道を右に曲がります。

077奥まったところに、熊野神社があります。

中世熊野信仰は、全国的に武士や民衆の間に広まりました。

この熊野神社も、白子の鎮守さまとして守られてきました。

 

 

081左の奥には、開運洞窟めぐりと書かれている洞窟の入口がありました。

中に入ってみると、真っ暗で何も見えません。

手探りで進むのですが、恐怖を感じ何度も引き返そうとしました。

出口の明かりが見えた時はホッとしましたが、運が開けるのでしょうか。

 

085熊野神社の右側に、ここにも富士塚がありました。

境内神社の冨嶽神社も、あります。

やはり富士登山が出来るようになっていて頂上まで登りましたが、こちらはつつじの木で覆われていました。

 

また旧道にもどると、先程の郵便局の所です。

086この辺りが、白子宿中宿らしいのですが面影はありません。

信号を渡り、道は急な上り坂の大坂へと入って行きます。

その坂下に、格子が見事なやっと白子宿らしいりっぱな旧家を見つけました。

この旧家を、白子宿のゴールとします。

最後に、白子宿から成増駅に向かいました。

092北口に、清水かつら作詞の「みどりのそよ風」の碑を見つけました。

この歌は学校の音楽授業で習ったのでしょうか、すんなりと歌うことが出来ました。

 

 

098本日のおみやげは、辰屋かぎやの冷やしうす塩豆大福(こしあん)です。

やっぱり、大福はこしあんにかぎります。

 

 

-ちよ散歩⑥旧川越街道白子宿・おわり-      


ちよ散歩⑤日光御成道本郷追分

2008-10-13 18:08:33 | まち歩き

ちよ散歩、今回は前回の続きで日光御成道(岩槻街道)本郷追分まで歩きます。

前回ゴールの西ヶ原一里塚から、スタートします。

004本郷通りを行くと、御殿前(ごでんまえ)遺跡の土器がありました。

この遺跡は、先土器時代から近世にわたる複合遺跡です。

なかでも奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡郡衙(ぐんが・地方役所)と推定されています。

その中心部分が、この一帯です。

さらに行くと、左側に長い参道があります。

006この参道は、平塚神社のものです。

この神社の創立は平安後期で、源の棟梁八幡太郎義家とその兄弟二郎義綱三郎義光を御祭神として祀っています。

 

 

本郷通りが右に曲がる角の歩道橋を、渡ります。

その角にあるのが、旧古河庭園です。

016_2この土地は陸奥宗光の別邸でしたが、次男が古河財閥の養子になって古河家の所有となりました。

この庭園は、土地の高低差を利用しています。

小高い丘には、洋館を建て斜面には洋風庭園を配しています。

そして、低地には日本庭園を配したのが特徴です。

駒込駅に向かって行くと、上り坂になります。

024坂の途中、駒込妙義坂子育地蔵尊があります。

江戸時代、駒込の今井家子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を造立しました。

以来、地元有志によって毎月念仏供養が営まれていました。

 

駒込駅を通り、御菓子司中里に寄り道です。

030 このレンガ塀は、六義園(りくぎえん)です。

この庭園は、柳沢吉保が1702(元禄15年)に築園しました。

和歌の趣味を基調とする、回遊式築山泉水大名庭園です。

 

 

032園名は、古今集の序文にある和歌の分類の六体に由来したものです。

分類の六体とは、そえ歌・かぞえ歌・なぞらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌のことを言います。

明治に入って、三菱の創業者である岩崎弥太郎の別邸となりました。

 

本郷通りを行くと、上富士前の交差点を通ります。

046この上冨士の富士は、これから行く富士神社のことでしょうか。

この神社は、本郷にあったのですが加賀藩の上屋敷ができる時現地に移転しました。

山嶽信仰として富士講ができ、ミニ「お富士さん」が多数できました。

ここは、駒込のお富士さんと言われました。

富士神社から、少し奥に寄道です。

048文京九中の前の道を行くと、天祖神社があります。

ここにも、縁結び子育地蔵尊がありました。

1189(文治5年)源頼朝奥州藤原氏追討の途中、霊夢のとおりに松の大木の枝にかかった伊勢神宮のお札を見つけたといいます。

それで、この地に天照大神を祀ったというのが起源です。

本郷通りにもどり、また歩きます

053山門と相当長い参道がある寺があり、諏訪山吉祥寺です。

これは入口の山門で、1802(享和2年)再建されました。

1657(明暦3年)に類焼し、水道橋から現在地に移転しました。

僧侶の養成機関として栴檀林をもち、一千名の学僧が学んでいました。

 

056これは、吉祥寺境内にある経蔵(きょうぞう)といって図書収蔵庫です。

1804(文化元年)古いきまりによって再建したものと考えられています。

意匠と技術の粋をこうしたみごとなものであり、都内に残る江戸時代建造唯一の経蔵として貴重なものです。

なお、この寺の墓所には二宮尊徳、榎本武揚の墓があります。

本郷通りを、反対側に渡ります。

062南谷寺があり、ここに江戸五色不動のひとつ目赤不動尊があります。

鷹狩りの途中、動坂赤目不動尊に立ち寄った家光から現在の土地を賜わりました。

目黒・目白に対して、目赤不動尊とせよの銘を受け移りました。

 

また少し行くと、本駒込一丁目交差点です。

067右に天栄寺があり、門前にあるのが駒込土物店(つちものだな)跡です。

神田、千住とともに、江戸三大市場のひとつでした。

有名な駒込なす以外にも、大根・人参など土のついた野菜である「土物」が取引されたので土物店と言われました。

後に、豊島区に移転して巣鴨豊島青果市場となって現在に至っています。

 

少し 行くと、異様なものが見えてきます。

068これは、浄心寺の大きな立ち姿の布袋様です。

東大農学部が見えてくると、本郷追分のゴールです。

ここで、中山道とぶつかります。

昭和40年まで、この辺りの町名を駒込追分町といいました。

中山道と日光御成道との分かれる所なので、追分町と名づけました。

 

073_2日本橋方面から見た、本郷追分の画像です。

真っすぐ進むのが日光御成道で、左に曲がるのが中山道です。

分かれる角にあるのが1751(宝暦元年)創業の高崎屋で、その前には一里塚があったそうです。

ちょうど、本郷追分にそばの増田屋があり昼食です。

ここから日本橋までは、旧中山道と同じです。

日本橋までは(ちよ散歩③旧中山道日本橋参照)で歩いていますので、日光御成道は走破したことになります。

075本日のおみやげは、駒込中里の揚最中(左)と南蛮焼(右)です。

 

 

 

-ちよ散歩⑤日光御成道・おわり- 


ちよ散歩④日光御成道王子

2008-10-08 01:49:43 | まち歩き

ちよ散歩、今回は赤羽から日光御成道(岩槻街道)王子まで歩きます。

001 JR赤羽駅東口から、スタートします。

赤羽駅西口は都市開発ですっかり変わってしまいましたが、東口の方は昔の面影が残っています。

川口に向かって線路沿いの道が、日光御成道です。

まずは、荒川までの日光御成道を逆方向に歩きます。

線路沿いの道を、真っすぐ歩いて行きます。

003真正面に、宝幢院(ほうどういん)があります。

入口脇の石道標には、東・川口善光寺道、日光岩付道と刻まれています。

東へ行くのが岩槻街道で、幸手宿日光街道に合流する道筋です。

江戸幕府歴代将軍が日光へ社参するための専用街道としたので、日光御成道とも呼ばれました。

 

東に向かうと、環八通りの赤羽交差点です。

012ここにあった都電赤羽は、地下鉄南北線赤羽岩淵駅に変わりました。

交差点から細い道を斜めに入ると、大満寺正光寺があります。

正光寺に寄ってみると、山門しかない寺の境内に観音様が建っていました。

本堂は1978(昭和53年)火災により焼失したままで再建されてなく、境内に青銅製の聖観音菩薩像が建っています。

 

岩槻街道に、もどります。

018すぐに小山酒店があり、酒樽の看板が見えます。

ここには都内ではめずらしい造り酒屋小山酒造があり、銘柄は丸眞正宗です。

岩淵は、岩槻街道最初の宿場で問屋場跡之碑がありました。

 

岩槻街道は、新荒川大橋を渡って川口宿へと続きます。

ひとまず街道から離れ、右に曲がり新河岸川にかかる岩淵橋を渡り荒川土手を歩きます。

024_3しばらく行くと、新旧岩淵水門が見えてきます。

左が赤色旧岩淵水門で、右が青色新岩淵水門です。

今までの雑踏が、うそのように静かです。

 

 

027昔、隅田川の洪水を防ぐため放水路人工の川)を作りました。

この放水路(現荒川)と隅田川の地点に、作られたのが旧岩淵水門です。

旧水門は、1924(大正13年)完成です。

水門には、洪水防止・川浄化・水運流量確保の役目がありました。

029少し下流にあるのが、新岩淵水門です。

旧水門の老朽化に伴い、1982(昭和57年)に完成しました。

荒川放水路は、1965(昭和40年)に名称が荒川となりました。

同時に、荒川本流の通称隅田川は正式に河川名称隅田川と命名されました。

ちなみに、隅田川は岩淵水門より上流は新河岸川と名称が変わります。

ここより、土手を下りると荒川知水資料館があります。

034_2その前にあるのが、この荒川放水路完成記念碑です。

荒川放水路は、完成までに二十年余を費やしており多大なる犠牲と労役を払った難工事でした。

当時の工事関係者一同が、犠牲者を弔うため建立しました。

台座は富士川の転石を、銘板の模様には桜草があしらわれています。

新河岸川の志茂橋を渡って、赤羽駅にもどります。

西口に出て、日光御成道を王子に向かい再びスタートします。

035この階段のある小高い丘が、稲付城跡です。

この丘の上には、静勝寺(じょうしょうじ)があります。

城跡は、現在の境内一帯にあたりで太田道灌が築城したと言われています。

太田道灌は、室町時代の武将で江戸城を築いたことで知られています。

静勝寺境内の道灌堂厨子内には、太田道灌坐像が安置されています。

 

040さらに進むとこの竜宮城のような楼閣を乗せた鐘楼門が見え、そこが普門院です。

納骨堂も、イスラムのような異様な雰囲気がありました。

 

 

 

交番を右に曲がった道を進んで行くと、真正寺坂になります。

坂の北側に真正寺があったのですが、廃寺となり今は坂名だけが残りました。

042その曲がってすぐにあるのが、庚申塔です。

「これよりいたはしみち」と刻まれていて、日光御成道と中山道を結ぶ道筋だったことがわかります。

真正寺坂なので縁起をかつぎ、「しんしょう昇る」と言って上ったそうです。

 

 

埼京線のガードをくぐり歩いて行くと、公園の所に階段があります。

登ってみると、若宮八幡神社イチョウの大木がありました。

だらだら坂の清水坂を上ると、環七通り馬坂交差点です。

051ここを横断して進むと、西音寺があります。

門前左にあるのが、この六角柱の石塔六角憧(ろっかくどう)です。

1752(宝暦3年)造立、阿弥陀三尊六地蔵がくっきり浮き彫りされている珍しいものです。

 

 

歩いて行くとまた小高い丘があり、これが十条冨士塚です。

十条地域の人々が、江戸時代以来冨士信仰に基づく祭儀を行ってきた場所です。

冨士山を模倣して、ミニ冨士山が作ってあります。

057さらに歩くと、地福寺があります。

門前にあるこの六地蔵のうち、一番左のお地蔵様が「王子の三地蔵尊」の内の一尊です。

台座に、三猿を施した庚申地蔵の形式をとっています

 

姥ヶ橋方面から来た大通りに合流し、しばらく歩いて左に細く曲がりくねった坂道を下ります。

065この坂は三平坂と言い、下り終わるとすぐに名主の滝公園の入口です。

王子村の名主畑野孫八が自邸に開いた江戸情緒豊かな庭園で、台地の斜面を巧みに利用し自然の風景を取入れています。

画像は、緑に囲まれた女滝です。

 

名主の滝公園を出て、道なりに進み王子稲荷の坂を上って行きます。

070_4坂の中程に、王子稲荷神社への入口があります。

この神社は、落語「王子の狐」の舞台としても知られています。

凧市が有名で、毎年2月午の日凧市が開催されます。

境内に凧屋が店を出し、神社から授与される「火防御守護の凧守」を求める人々で賑わいます。

再び、急な王子稲荷の坂を上り先程の大通りに出ます。

079左に曲がって、しばらく行くと王子神社があります。

鎌倉時代、領主豊島氏紀州熊野権現を勧請しました。

「若一王子宮」と称し、それからは王子権現として親しまれました。

王子の地名も、ここに由来しています。

 

075これは、王子田楽の絵図です。

王子田楽は、豊かな実りと無事を祈って奉納される伝統芸能です。

毎年8月王子神社の例祭で行われる、全国でも数少ない芸能です。

花笠をつけ鼓・筰(ささら)・太鼓方が、笛に合わせて踊ります。

 

082王子神社からすぐに、石神井川に架かる音無橋 になります。

手前の階段を下りると、川一帯が音無親水公園となっています。

この王子付近の石神井川を音無川と呼んだのは、王子の由来と同じで熊野本宮の近くにある音無川に因んだものです。

 

王子駅まで進み、歩道橋を渡って飛鳥山公園に向かいます。    

088途中、都電王子駅の踏切を渡ります。

吉宗は鷹狩りの際、しばしば飛鳥山を訪れました。

また、1270本の山桜の苗木を植栽しました。

後日、江戸庶民に開放され桜の名所として有名となりました。

 

099_2飛鳥山公園には、三つの博物館があります。

紙の博物館(閉鎖中)、北区飛鳥山博物館、そして渋沢史料館です。

これは、渋沢史料館入口にある渋沢栄一石像です。

ここいらで、公園内にある飛鳥山さくら亭で昼食と休憩です。

 

109_2飛鳥山公園の南側一帯には、渋沢栄一の自邸が所在していました。

旧邸の庭園であった所は、現在「旧渋沢庭園」として公開されています。

これは、青淵文庫(せいえんぶんこ)です。

渋沢栄一が、80歳と子爵の昇格祝いに寄贈されたものです。

文庫ですが、外国からの賓客をもてなす場としても使われました。

105 これは、晩香蘆(ばんこうろ)で喜寿の祝いに贈られた洋風茶屋です。

なお晩香蘆の名は、バンガローの音に当てはめ自作の詩「菊花晩節香」から採ったと言われています。

住居等主要部分は、1945(昭和20年)の空襲で消失しました。

青淵文庫と晩香蘆の二棟のみ、現存しています。

飛鳥山公園を出て、本郷通りを歩いて行きます。

114すると、ゴールの西ヶ原一里塚が見えてきます。

日光御成道では、本郷追分の次で日本橋からは二番目となります。

旧位置に保存されている都区内唯一の一里塚で、貴重な文化財です。

非常に、江戸時代の雰囲気がある一里塚です。

 

067本日のおみやげは、王子稲荷前にある石鍋商店名物久寿餅です。

 

 

 

-ちよ散歩④日光御成道王子・おわり-