ちよ旅、今回は目黒不動尊のまわりを散策します。
目黒駅から目黒川に下るメインロードの目黒通り、その左手にある細い道に入ります。
かなりの急勾配ですが、この坂が江戸時代富士見の名所として知られた行人坂(ぎょうにんさか)です。(上)
寛永の頃湯殿山(現山形県)から来た行人(仏道修行者)が、この坂の途中にお堂を建て修行を始めました。
するとしだいに多くの行人が集まり住むようになり、この坂は行人坂と呼ばれるようになったそうです。
そのお堂とは、行人坂の途中にある大円寺のことです。(左上)
湯殿山から来たのは高僧行人の大海法師で、のちに家康から寺号大円寺を与えられます。
大円寺境内には石仏群があり、これは斜面に並ぶ五百羅漢です。(右上)
1772(明和9)大円寺から出火した大火事で、多くの死者が出ました。
その供養のために造られたのが、始まりとされています。
行人坂を下ると、江戸時代では貴重なアーチ形石橋が架かっていたと言われる太鼓橋に出ます。
太鼓橋から目黒川を望むと、両岸には桜並木がぎっしりです。(上)
山手通りを越えて行くと、いよいよ目黒不動尊です。
仁王門を通りぬけると、急階段の男坂があります。(左上)
目黒不動は通称で、正式名は瀧泉寺(りゅうせんじ)と言います。
808(大同3)慈覚大師が開創したと言われ、江戸時代3代将軍家光の頃より幕府の厚い保護を受けています。
男坂を上ると、大本堂です。(右上)
目黒不動は五色不動のひとつで、目黒の地名や駅名の由来にもなっています。
これで五色不動のうち、行ってないのは目黄不動だけとなりました。
目黒不動近くにあるのが、五百羅漢が安置されているその名も五百羅漢寺です。
五百羅漢の内部は撮影NGなので、羅漢堂の回廊を撮りました。(上)
この中に、木彫の五百羅漢が並んでいます。
元々江戸本所にあったのですが、1908(明治41)目黒に移ってきました。
現存305体の仏像は、ほとんどが松雲元慶禅師によって十数年をかけて彫造したものだそうです。
目黒通りに出て、駅とは反対方向に進みます。
すると、バスの停留所(左上)や交差点(右上)に「元競馬場」の名前が現れます。
この地では、1907(明治40)目黒競馬場が開設され競馬が開催されていました。
それは、1933(昭和8)府中に移転されるまで明治・大正・昭和と続きました。
1932(昭和7)には記念すべき第1回ダービーが、この地で行われています。
そばには、目黒競馬場跡の碑があります。(上)
この碑は、当時の歴史を伝え残すように第50回ダービーを記念して建立されました。
目黒競馬場は目黒駅から近いということが災いして住宅地化の波におされ、府中に移転されることになります。
競馬場のあった一帯は、現在では住宅密集地となっています。
その中にも、当時のコースそのままに曲がっている道路が残っています。(左上)
コースでいうと向こう正面を進んだ所にあるのが、さくらの里街かど公園です。
ここにある桜の木は、目黒競馬場があった当時の樹木と言われています。(右上)
目黒通りを、駅の方へ向います。
山手通りとの交差点の角に、大鳥神社があります。(上)
江戸時代、目黒不動・金比羅権現と並び目黒の三社様と言われました。
毎年11月に酉の市(とりのいち)が開かれ、太々神楽(だいだいかぐら)が神前で舞われます。
目黒川に架かる、目黒新橋です。(左上)
江戸時代初期より、橋がこの位置にあったと確認されています。
西へ下る、一方通行の権之助坂です。(右上)
元禄時代に権之助坂が開かれ、主要交通路は行人坂からこの坂に移ってきます。
名前の由来は菅沼権之助ですが、諸説があります。
その後、交通量の増大とともに権之助坂の途中からバイパス(東へ向かう一方通行)が設けられます。
権之助坂は、西へ向かう一方通行の道路となっていきます。
この坂を上ると、目黒駅です。
今日のおみやげは、目黒不動の恵比寿様です。(上)
目黒不動は、山手七福神巡りの恵比寿様に当たります。
この恵比寿様の底には穴が開いていて、そこにおみくじが入っています。
ちなみに、おみくじは末吉でした。
―ちよ旅10目黒不動尊・おわりー