Forever hill

男は夢に追われる孤独なランナー

ちよ旅15岩淵水門

2016-09-11 16:45:05 | まち歩き

ちよ、今回は隅田川荒川を繋ぐ岩淵水門を見に行きます。

岩淵水門のある岩淵は、岩槻街道江戸から来るとひとつめの宿場になります。

将軍日光参詣の際使用されたことから、岩槻街道は日光御成道(にっこうおなりどう)とも呼ばれました。

その岩槻の宿場にあるのが、大観音様がいる正光寺です。(上)

8年前に来た時は、周りには何もなく空き地の中に観音様だけが立っていました。

現在では、本堂その他が再建されています。

荒川の土手を行くと、岩淵水門が見えてきます。(上)

左の赤い水門が旧岩淵水門(通称赤水門)で、右の青い水門が現在の岩淵水門(青水門)です。

さて水門に行く前に、土手の麓にある荒川知水資料館で知識を仕入れます。

 

資料館の前に展示してあるものは、船堀閘門(ふなぼりこうもん)頭頂部です。(左上)

閘門とは、水位に高低差がある河川などの間に船の行き来を行うため設置された施設です。

船堀閘門は荒川放水路新中川の間に造られましたが、1979(昭和54)に撤去されました。

もうひとつ展示されているのは、京成押上線旧荒川橋梁基礎杭です。(右上)

この松杭は、新橋梁に切り替わるまで約75年間橋を支える基礎として地中に埋まっていました。

荒川放水路と旧岩淵水門の完成を記念して、工事関係者が建てた記念碑です。(上)

度重なる洪水被害を受けてきた隅田川・荒川沿いでは、抜本的な治水対策として人工河川の開削が急がれました。

1911(明治44)に着手され、想像を絶する苦難のうえに1930(昭和5)に完成したのが荒川放水路です。

名称は1965(昭和40)荒川放水路は荒川に、荒川本流の通称隅田川は正式に隅田川となりました。

  

荒川放水路事業の一環として、荒川と隅田川の分かれる地点に造られたのが旧岩淵水門(赤水門)です。(上)

1916(大正5)に工事は始まり、1924(大正13)に竣工しました。

この時、荒川放水路と岩淵水門の工事責任者に任命されたのが青山 士(あおやま あきら)です。

彼は自費でパナマ運河工事に唯一の日本人技師として参加し、世界最先端の土木技術を学んできました。

赤水門は、すでに役目を終えています。

 

赤水門を抜けた小島にあるのが、鉄のオブジェ「月を射る」です。(左上)

河川敷に設置することを条件に公募した、荒川リバーアートコンテスト特賞作品です。

この作品は無垢の鉄棒を溶断し、一本づつ積み上げて制作しています。(右上)

  

旧岩淵水門(赤水門)の老朽化ゃ地盤沈下のため、1982(昭和57)約300m下流に造られたのが現在の岩淵水門(青水門)です。(上)

平常時では、全面開放して船の通行確保と隅田川の水質浄化に役立っています。

また増水時には、水門を閉めて荒川の水が隅田川に流入するのを防いでいます。

こうして荒川放水路と岩淵水門の完成により、隅田川・荒川沿いの人たちは洪水から解放され一気に都市化が進みます。

岩淵水門から隅田川下流を見渡せば、高層ビル群の向こうにしっかりと東京スカイツリーが見ることができます。(上)

今日のおみやげは、なしです。

―ちよ旅15岩淵水門・おわり―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ちよ旅13王子稲荷神社

2016-01-10 18:18:04 | まち歩き

8か月ぶりのちよ、今回は初詣を兼ねて王子稲荷神社に詣でます。

王子稲荷神社は、その昔岸稲荷と称してこの地に祀られた社でした。

その後、この辺りは紀州熊野神社を勧請して王子神社を祀ったところから地名も王子と改まりました。

それに伴い、この社も王子稲荷神社と改称されました。

王子駅西口名主の滝の方へ歩いて行くと、左側に入口の門があります。(上)

ただし、境内にはいなり幼稚園があり開園中はこの門は閉まっています。

その時には手前の坂を上って行くと、坂の途中に車が通れる入口があります。

 

鳥居をくぐり階段を上って行くと、華麗な拝殿が現れます。(左上・右上)

社殿は、11代将軍家斉公によって1822(文政5)に新規再建されたものでした。

ところが、戦時中の空襲によって本殿などは大破されてしまいました。

ただ、この拝殿だけは空襲からも逃れ文化文政時代の粋を今に伝えています。

なお、本殿は1960(昭和35)に再建されています。

おみくじは、「吉」でした。

 

拝殿の右脇を奥に進むと、本宮が鎮座します。(左上) 

さらに、その横を行くと赤い鳥居が続きます。(右上)

 

鳥居を抜けたところにあるのが、この御石様(おもかる石)です。(上)

願い事を念じながら、この石を持ち上げます。

軽く感じたら願い事が叶いやすく、重く感じたら叶いづらいとの言い伝えがあります。

ちなみに、持ってみましたがものすごく重かったです。

願いが叶うには、まだまだ努力が必要ということでしょう。

 

すぐ横の階段を上ると、狐の穴跡があります。(上)

この辺り昔は小高い森でが安住していたそうで、これはその跡と言われ保存されています。

落語「王子の狐」は、当時の模様をよく伝えています。

また、広重作の「装束榎」には王子稲荷にお参りすべく大榎のもとへ集まる装束を整えた狐や狐火が描かれています。

その浮世絵を再現するため、大晦日に「狐の行列」が行われています。

人が狐に化けて狐面などで装束を整え提灯の灯をかざして、装束稲荷から王子稲荷まで大行列するのです。

坂の途中の入り口付近にある、ユーモラスな顔をした狐です。(上)

毎年2月の初午には、縁起の凧を商う「凧市」が境内で開かれています。

これは、江戸中期より「火防守護の凧守(奴凧)」が授与されたことに因みます。

帰りは、駅までの途中にある石鍋商店でおみやげを買います。

久寿餅がよかったのですが売り切れで、今日のおみやげはあんみつです。(上)

ーちよ旅13王子稲荷神社・おわりー

 

 

 


ちよ旅10目黒不動尊

2015-04-20 22:16:26 | まち歩き

ちよ、今回は目黒不動尊のまわりを散策します。

目黒駅から目黒川に下るメインロードの目黒通り、その左手にある細い道に入ります。

かなりの急勾配ですが、この坂が江戸時代富士見の名所として知られた行人坂(ぎょうにんさか)です。(上)

寛永の頃湯殿山(現山形県)から来た行人(仏道修行者)が、この坂の途中にお堂を建て修行を始めました。

するとしだいに多くの行人が集まり住むようになり、この坂は行人坂と呼ばれるようになったそうです。

 

そのお堂とは、行人坂の途中にある大円寺のことです。(左上)

湯殿山から来たのは高僧行人の大海法師で、のちに家康から寺号大円寺を与えられます。

大円寺境内には石仏群があり、これは斜面に並ぶ五百羅漢です。(右上)

1772(明和9)大円寺から出火した大火事で、多くの死者が出ました。

その供養のために造られたのが、始まりとされています。

行人坂を下ると、江戸時代では貴重なアーチ形石橋が架かっていたと言われる太鼓橋に出ます。

太鼓橋から目黒川を望むと、両岸には桜並木がぎっしりです。(上)

 

山手通りを越えて行くと、いよいよ目黒不動尊です。

仁王門を通りぬけると、急階段の男坂があります。(左上)

目黒不動は通称で、正式名は瀧泉寺(りゅうせんじ)と言います。

808(大同3)慈覚大師が開創したと言われ、江戸時代3代将軍家光の頃より幕府の厚い保護を受けています。

男坂を上ると、大本堂です。(右上)

目黒不動は五色不動のひとつで、目黒の地名や駅名の由来にもなっています。

これで五色不動のうち、行ってないのは目黄不動だけとなりました。

目黒不動近くにあるのが、五百羅漢が安置されているその名も五百羅漢寺です。

五百羅漢の内部は撮影NGなので、羅漢堂の回廊を撮りました。(上)

この中に、木彫の五百羅漢が並んでいます。

元々江戸本所にあったのですが、1908(明治41)目黒に移ってきました。

現存305体の仏像は、ほとんどが松雲元慶禅師によって十数年をかけて彫造したものだそうです。

目黒通りに出て、駅とは反対方向に進みます。

 

すると、バスの停留所(左上)や交差点(右上)に「元競馬場」の名前が現れます。

この地では、1907(明治40)目黒競馬場が開設され競馬が開催されていました。

それは、1933(昭和8)府中に移転されるまで明治・大正・昭和と続きました。

1932(昭和7)には記念すべき第1回ダービーが、この地で行われています。

そばには、目黒競馬場跡の碑があります。(上)

この碑は、当時の歴史を伝え残すように第50回ダービーを記念して建立されました。

目黒競馬場は目黒駅から近いということが災いして住宅地化の波におされ、府中に移転されることになります。

 

競馬場のあった一帯は、現在では住宅密集地となっています。 

その中にも、当時のコースそのままに曲がっている道路が残っています。(左上)

コースでいうと向こう正面を進んだ所にあるのが、さくらの里街かど公園です。

ここにある桜の木は、目黒競馬場があった当時の樹木と言われています。(右上)

目黒通りを、駅の方へ向います。

山手通りとの交差点の角に、大鳥神社があります。(上)

江戸時代、目黒不動・金比羅権現と並び目黒の三社様と言われました。

毎年11月に酉の市(とりのいち)が開かれ、太々神楽(だいだいかぐら)が神前で舞われます。

 

目黒川に架かる、目黒新橋です。(左上)

江戸時代初期より、橋がこの位置にあったと確認されています。

西へ下る、一方通行の権之助坂です。(右上)

元禄時代に権之助坂が開かれ、主要交通路は行人坂からこの坂に移ってきます。

名前の由来は菅沼権之助ですが、諸説があります。

その後、交通量の増大とともに権之助坂の途中からバイパス(東へ向かう一方通行)が設けられます。

権之助坂は、西へ向かう一方通行の道路となっていきます。

この坂を上ると、目黒駅です。

今日のおみやげは、目黒不動の恵比寿様です。(上)

目黒不動は、山手七福神巡りの恵比寿様に当たります。

この恵比寿様の底には穴が開いていて、そこにおみくじが入っています。

ちなみに、おみくじは末吉でした。

―ちよ旅10目黒不動尊・おわりー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ちよ旅9板橋区砲兵本廠

2015-03-28 20:12:08 | まち歩き

ちよ、今回は消失が心配される板橋区砲兵本廠(ほうへいほんしょう)の遺構を探しに行きます。

板橋区砲兵本廠とは、明治政府旧加賀藩江戸下屋敷跡一帯に造った火薬製造所のことです。

1876(明治9)「陸軍砲兵本廠板橋属廠」として創業を開始しました。

  

加賀西公園にある、圧磨機圧輪(あつまきあつりん)記念碑です。(上) 

この圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造するための機械です。

圧磨機は水車の動力で動くため、石神井川が流れるこの場所は最適でした。

しかし当所で無煙火薬が製造されるようになり、1906(明治39)圧磨機圧輪は使用されなくなりました。

1922(大正11)圧磨機圧輪をそのまま記念碑とし、戦後この地に移転されました。

同じ公園内に、1903(明治36)火薬製造所有志が建立した招魂之碑があります。(上)

黒色火薬は取扱いが難しく爆発事故がよくあったそうで、これは火薬製造の課程等で亡くなった方々を悼んで建てたものです。

「陸軍砲兵本廠板橋属廠」は、最終的に1940(昭和15)「東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所(通称二造)」と名称が変わっていきます。

そして、1945(昭和20)終戦で閉鎖になるまで続きました。

これから、二造時代の遺構を探って行きます。

 

野口研究所の正門で、ここには二造時代に火薬研究所が置かれていました。(左上)

構内には、当時からの構造物が残されています。(右上)

これは、野口研究所の敷地内に残る電気軌道(トロッコ)線路敷跡です。(上 

電気軌道は十条銃包製造所王子製薬場と結び、物資や人の運搬に大きな役割を果たしました。 

加賀公園にあるこの小高い山は、旧加賀藩下屋敷の庭園にあった築山の跡です。

中腹に残るコンクリート製の構築物は、火薬研究所で行われていた弾道検査管(爆速測定管)の標的跡です。(上)

長さ十数m内径686mmのコンクリート製弾道検査管で、トンネル射場と呼ばれていました。

 

金沢橋から見た石神井川ですが、桜はまだ五分咲きと言ったところでしょうか。(上)

 

埼京線に架かる十条台橋から、南側を見たところです。

線路両側にあるコンクリートの土台は、トロッコの軌道設置のため建設された跨線橋(こせんきょう)跡です。(上)

  

二造の一部は、戦後の払下げ後も学校・工場・研究所等として利用されました。

これらも二造時代からの建物と思われるもので、理化学研究所・板橋分所(左上、中上)と愛歯技工専門学校です。(右上)

 

石神井川沿いのみどり橋緑地に、レンガのモニュメントがあります。(左上)

このモニュメントは、二造時代ここの敷地にあったレンガ造建物の壁をかたどっています。

そして、その一部には当時のレンガ造建物の壁をそのまま保存利用しています。(右上)

桜越しの帝京大学附属病院ですが、桜はまだ五分咲きです。(上)

 

民家の前にある二造との境界線に置かれたと見られる石柱で、陸軍用地と書かれています。(左上)

金沢小学校の校庭には、二造で使用していた消火栓が保存されています。(右上)

星の印は、陸軍のマークです。

こういった遺構は、戦争を風化させないためにも残していってもらいたいものです。

ーちよ旅9板橋区砲兵本廠・おわりー 

 

 

 

 

 

 


ちよ旅8根岸競馬場跡

2015-02-22 16:58:07 | まち歩き

ちよ、今回は根岸競馬場跡を見に行きます。

遺構が好きで、ここは6年ぶりになりますが見事な遺構が存在します。

今では、競馬場跡地は巨大な根岸森林公園となっています。

  

 その根岸森林公園の一部にあるのが、「根岸競馬記念公苑・馬の博物館」です。(左上)

 馬の博物館では、馬と人とのかかわりを歴史から競馬まで幅広い分野で紹介されています。

中庭に建つトキノミノル像で、はるか遠くにこれから行く遺構が見えます。(右上)

トキノミノルは10戦10勝の負け知らずで1951(昭和26年)の日本ダービーを制しましたが、その17日後に破傷風で急死しました。

ダービーを勝つために生まれてきた幻の馬と言われ、像の土台前面には「幻乃馬」と書かれています。

根岸競馬記念公苑には「ポニーセンター」があり、今は天皇賞馬マイネルキッツが入厩しているそうです。

 

これが競馬場跡地の壮大な根岸森林公園で、どこまでも芝生が続いています。(上)

この場所は競馬場でいうとまだ内馬場で、本馬場のコースはさらにこの外側にあったようです。

右回りで1周約1600mコース幅20mと狭く、急なカーブと坂で構成され難度の高いコースのひとつとされました。

  

これが、貴重な遺構の根岸競馬場の1等馬見所(観客スタンド)です。(上)

1860年代に横浜で始まった近代競馬は、1866(慶応2年)日本初の洋式競馬場である根岸競馬場が完成して本格化します。

しかし、1923(大正12年)関東大震災によって半壊します。

1930(昭和5年)アメリカ人J・H・モーガン設計による新スタンドが完成し、各地で建設されるスタンドモデルにもなりました。

3年後の1933(昭和8年)には、現在の東京競馬場が開設されています。

J・H・モーガンは、当時の横浜洋館の設計を数多く手掛けています。

残っているのはその新スタンドの1等馬見所(4,500人収容)だけですが、となりにもっと大きな2等馬見所(12,000人収容)がありました。

3つの大きな柱はエレベーターホールで、小窓はふさがれていますがガラス張りだったそうです。

 2等馬見所と下見所(パドック)は、老朽化のため1988(昭和63年)に解体されました。

競馬場は当時高級な社交場で、入場料だけでも1等馬見所が5円2等馬見所が2円でかなり高価だったと思われます。

  

スタンド前の本馬場あたりは米軍駐留地となっていて立ち入れないので、正面からはこれが精一杯の画像です。(左上)

この広場は、設計者の名をとってモーガン広場と呼ばれています。(右上)

根岸競馬場は途中横浜競馬場に名称が変わりますが、1943(昭和18年)閉鎖となり海軍省に接収されるまで続きました。

今にも倒れそうで老朽化が心配されますが、横浜市にはぜひ補強修復をしてこの貴重な歴史遺構を残していってもらいたいものです。

さて、ここから伊勢佐木町まで歩きます。

 

神奈川県のご当地ラーメンとなっている、サンマーメン(生馬麺)を食べに行きます。

伊勢佐木町には元祖と言われる玉泉亭があり、そこに入ります。(左上)

サンマーメンとは、もやしや野菜などのあんをかけたラーメンのことです。(右上)

もう少しあんにとろみがあれば、最高でした。

さらに歩くと、伊勢佐木町を一躍全国的に有名にした「青江三奈 伊勢佐木町ブルース」の看板がありました。(上)

この前には歌碑があり、楽譜と歌詞の書かれたレリーフがあります。

スイッチを押すと、1分間「伊勢佐木町ブルース」が流れます。

作詞はあの川内康範で、ため息から始まる刺激的な歌でした。

 

「カステラ1番 電話は2番 3時のおやつは文明堂」のフレーズと、「クマのカンカン踊り」のCMを憶えていますか。

そのCMでおなじみの横浜文明堂本店(伊勢佐木町4丁目店)に寄ります。(上)

ドラ焼きを持ったドラえもんが、迎えてくれます。

今日のおみやげは、文明堂の「極上 金カステラ」です。(上)

このカステラは、卵黄を増量して食感が一段としっとりして底のザラメもたっぷりの逸品です。

さらに、手焼きなのは伊勢佐木町と関内の直営店限定品です。

味は最高でしたが、ザラメ1コの大きさがもう少し小さいと食べ易いのですが。

ーちよ旅8根岸競馬場跡・おわりー