Forever hill

男は夢に追われる孤独なランナー

有馬記念復活する馬は

2008-12-27 21:06:13 | ギャンブル

早いものでもう有馬記念になってしまった。競馬をやっていると一年が短く感じる。

今年の成績はGⅠにかぎると19戦6勝13敗で、もちろん大幅赤字だ。有馬記念で土壇場大逆転を狙う。毎年言っているような気がする。

有馬記念の思い出はあり過ぎてこまる。

まずは1973競馬を始めるきっかけとなったハイセイコーが出た有馬記念。天皇賞馬タニノチカラと人気を分けたハイセイコーは互いにマークし合う間に、ストロングエイト⑩人気、ニットウチドリ⑪が逃げてしまい有馬史上初の枠連万馬券となった。ハイセイコーは三着で自分はハイセイコーの複勝をしこたま買っていて儲かった思い出がある。

大穴で記憶にあるのは1991あっと驚くダイユウサク⑭、これは買ってやった友人が当てて御祝儀に一万円もらった。次の年1992大逃げのメジロパーマー⑮で馬連31,550円、やはり買ってやった職場の女性が500円当てた。

有馬記念にはキーワードがある。それは「復活」だ。

1990オグリキャップの奇跡の復活にはみなさんにも強烈な記憶があるでしょう。「オグリ、オグリ」の大合唱、そして涙の引退。他にも復活劇では1993トウカイテイオー、三度目の骨折をしてほぼ一年ぶりの有馬でこれを制した。1998グラスワンダーも有馬で復活し、翌年宝塚、有馬と勝ってグランプリ三連覇する。

さて、今年はどの馬が復活するのか、あるいは強い馬が勝つのか。軸馬は・・・。

ウオッカが出ていれば当然勝ち負けだろう。そのウオッカがいなければ現時点では最強の牝馬13ダイワスカーレットを軸にする。先行して粘る力は牡馬にも驚異だ。

もう一頭の軸馬は「復活」そして引退の9メイショウサムソンだ。武豊ともども人馬の復活にかける。

ヒモの検討・・・。

外人騎手の三頭は外せない。デムーロ8スクリーンヒーローペリエ7アルナスラインルメール5フローテーション

あとは10マツリダゴッホ、12アサクサキングスを押さえれば完璧。

6エアシェイディ、11ドリームジャーニーはGⅠでは足りない。1カワカミプリンセスは牡馬相手ではきつい。

結論

三連単二頭軸マルチ13、9-8、7、5、10、12 30点買い

追記

やったぞ、13ダイワスカーレット逃げ切り三十七年ぶり牝馬の有馬制覇。安勝マジックも馬の力があってこそ。予想どおりはここまで。

9メイショウサムソンには引退レースでの「復活」に賭けたが八着に沈んだ。

「復活」はマラソンランナーの14アドマイヤモナークだった。最低人気で気楽にしんがりから行って直線はじけた。ダイワスカーレットが逃げたからこその二着だろう。

三着6エアシェイディ、四着11ドリームジャーニー。自分の買ったヒモたちはどこへ行ってしまったのだろう。

三連単 13-14-6 985,580円 ハズレ

興奮したがカスリもしなかったので悔しさはない。今年も大幅赤字で終わった。

また来年中山金杯でお会いしましょう。


ちよ散歩⑩神代植物公園

2008-12-18 00:31:23 | まち歩き

ちよ散歩、今回は「ちよ散歩⑦善福寺公園」の続きで神代植物公園までの公園めぐりです。

003ちよ散歩⑦で断念した、井の頭公園からスタートします。

井の頭公園はJR吉祥寺駅からすぐのところにあり、京王井の頭線井の頭公園駅もあります。

1917(大正6年)開園で、正式名称は井の頭恩賜公園です。

 

 

 

006井の頭公園は、井の頭池・御殿山・西園・第二公園四区域に分かれています。

井の頭池は、三宝寺池、善福寺池と同じで湧水からできています。

上水道として、最も古い神田上水の源でありました。

 

 

 

井の頭池をあとにして、吉祥寺通りを行くと玉川上水を渡ります。

015さらに、西園のはずれに三鷹の森ジブリ美術館があります。

受付では、大きなトトロが迎えてくれました。(ガラスが反射して画像見にくいです)

 

 

 

 

吉祥寺通りを行き、狐久保の交差点を右に曲がり連雀通りを進みます。

022しばらくすると、この禅林寺があります。

ここには、太宰治森鴎外(森林太郎)のお墓があります。

太宰治は、1948(昭和23年)玉川上水で心中により死去しました。

毎年、誕生日である6月19日に桜桃忌が行われます。

 

 

019_2これは太宰治のお墓で、その向かい側に森鴎外のお墓があります。

太宰の墓が森鴎外の向かいに建てられたのは、森を尊敬していた太宰自身の希望によるものです。

 

 

 

 

連雀通りを黙々と歩くと、井田新田の交差点があり左に曲がります。

024しばらく行くと、右に国際基督教大学の入口があります。

門から撮った画像で、桜並木が続いています。

この辺りには東京神学大ルーテル学院大などがあり、文教地区となっています。

 

 

 

真っすぐ進み、大沢の交差点を右に行きます。

025ちょうど、基督教大の裏門の所で東八道路に出ます。

その歩道を行くと、道をはさんで両側に広がる野川公園に出ます。

画像は、野川かしの木橋です。

 

 

 

031東八道路右側は野川が流れていて、川が公園の中心です。

野川は、国分寺崖線の下から湧き出た水を集めて流れています。

このわき水広場には、湧水が小川となって流れています。

 

 

 

041東八道路に架かる一之橋を渡り、道路左側の野川公園へと入って行きます。

こちらは、大芝生・自由広場など相当にだだっ広いです。

それもそのはず、以前はゴルフ場だったそうです。

ぐるっとひと回りして、この南東門よりやっと公園から出ます。

 

 

040出た所にあるのが、この近藤勇生家跡です。

近藤勇は、1834(天保5年)この地に生まれ育ちました。

現在の跡地は、1943(昭和18年)に家が取り壊されるまで使用していた井戸(産湯の井戸)を残すのみです。

 

 

 

すぐ前の人見街道を、大沢の方にもどります。

036近藤家の菩提寺である、龍源寺があります。

門前に、この近藤勇の銅像がありました。

近藤勇は新撰組で活躍しますが、1868(明治元年)板橋宿で処刑されました。

享年三十五歳、この寺にお墓があります。

 

 

龍源寺をあとにして、南に向かうと視界が開けます。

047そこに、調布飛行場が見えてきます。

飛行場の手前に、囲むようにあるのが武蔵の森公園です。

公園には、この掩体壕(えんたいごう)が二基保存されています。

掩体壕とは軍用機を空襲から守るための格納庫で、その目的は残り少ない飛行機を温存するためでした。

 

 

046これは、格納されていた戦闘機「飛燕」の縮尺模型です。

掩体壕は戦況が悪化する1944(昭和19年)頃から、コンクリートや土塁で約六十基が短期間に造られました。

 

 

 

 

調布飛行場へ、向かいます。

051ここには、戦時中首都防衛のため陸軍飛行部隊が配置されていました。

現在では、伊豆大島・新島・神津島へ小型機が運行されています。

 

 

 

 

056いろいろな形の小型機が、見えます。

左奥の建物は、プロペラカフェのある日本エアロテックです。

右奥の大きな建物は、味の素サッカースタジアムです。

プロペラカフェではグッズを買いましたが、店内には管制塔の交信する声が流れています。

 

 

また野川沿いを進み、天文台通りを左に曲って行きます。

062坂を上って行くと、国立天文台三鷹キャンパスがあります。

ここは、一部公開されていて見学ができます。

入口で記帳して、見学ガイドをもらいワッペンを付けます。

 

 

 

063これは、第一赤道儀室です。

1921(大正10年)の建設で、キャンパス内現存最古の建物です。

円筒形の観測室の外側に、バルコニーがあるのが特徴です。

六十年にわたり太陽黒点のスケッチ観測などが、行われました。

 

 

 

069アインシュタイン塔の愛称で呼ばれる、太陽分光写真儀室です。

1930(昭和5年)の建設で、塔全体が望遠鏡の筒の役割を果たしているため「塔望遠鏡」とも呼ばれています。

愛称の由来は、ドイツ天体物理観測所「アインシュタイン塔」にあります。

その塔は、相対性理論を太陽光の観測から検証する目的で建てられました。

この建物も、同じ構造と機能を持っているためそう呼ばれました。

 

 

075見学コース一番奥に位置するのが、この自動光電子午環です。

1982(昭和57年)建設で、周りは広い芝生となっています。

この観測施設は天体の精密位置観測に使われ、そのため特殊な工夫が施された望遠鏡(子午環)を設置しています。

 

 

 

国立天文台をあとにして、武蔵境通りに向かって歩きます。

081そこにあるのが、ゴールの神代植物公園です。

戦時中にあった、神代緑地(防空緑地)の名称を引きつぎました。

開園は1961(昭和36年)で、広さは約25万㎡あります。

 

 

 

085これは、バラ園に囲まれた噴水池です。

公園内を歩いて、深大寺門から外へ出ます。

 

 

 

 

深大寺と言えば手打ちそばですが、ちょうど歩き疲れた所にあったのが深大寺手打ちそば松葉茶屋です。

ものすごい、こしでした。

最後に、深大寺に寄ります。

093参道に下る坂の途中にある乾門から、深大寺に入ります。

元三大師堂から本堂へ、そしてこれが山門です。

1865(慶応元年)の大火でも、災禍を免れた建物のひとつです。

 

 

 

095深大寺門参道の、店並みです。

1889(明治22年)に神代村が誕生し、1955(昭和30年)調布町神代町が合併し調布市となります。

その後、住所表示の変更で深大寺を名乗る多くの町名が誕生しました。

そのせいで、神代という公園名称の由来がわかりにくくなりました。

 

 

002

本日のおみやげは、調布飛行場内プロペラカフェの「スカイシャーク」です。

 

 

 

 

-ちよ散歩⑩神代植物園・おわり-  

 

 

 

 

 

 


ちよ散歩⑨皇居一周

2008-12-11 23:48:16 | まち歩き

ちよ散歩、今回は皇居を一周します。

128馬場先門の交差点より、スタートします。

日比谷濠沿い、やなぎイチョウ並木のコントラストがきれいです。

江戸城は、明治維新後に皇居となりました。

1949(昭和24年)西の丸下及びお濠の地域が、皇居外苑として一般に開放されました。

 

 

その皇居外苑に、入って行きます。

006まず、楠木正成公銅像があります。

楠木正成は、皇室に対する忠臣として名を知られています。

後醍醐天皇朝廷政治を支えますが、かつてともに鎌倉幕府を滅亡させた足利尊氏に敗れ湊川で自害します。

 

 

 

内堀通りを渡り、砂利道を進み二重橋に向かいます。

010_3二重橋と思われているこのめがね橋は、「正門石橋」と言うそうです。

この石橋の奥に「正門鉄橋」があり、これが二重橋と呼ばれています。

江戸時代この鉄橋は木製で、濠が深いので橋桁を上下二重に組んでいたため二重橋と呼ばれていました。               

 

 

 

二重橋濠沿いを、行きます。

014_2皇居前広場は、松林がきれいに手入れされています。

その向こうには、丸の内オフィスビル街を望むことができます。

やがて、坂下門外の変で知られる坂下門となります。

 

 

 

019蛤濠と、左が坂下門で奥の建物は宮内庁です。

坂下門外の変とは、1862(万延3年)尊攘派水戸浪士六名が老中安藤信正を襲撃し負傷させた事件です。

この事件以来、幕府権威の失墜が加速しました。

 

 

 

蛤濠沿いを、歩きます。 

023やがて、桔梗門があり濠も桔梗濠と名前が変わります。

手前の角にあるのは巽櫓で、奥が桔梗門ですがこの辺りはよく見る風景ではないでしょうか。

 

 

 

 

内掘通りを渡って、行幸通りに寄ります。

030行幸通りのイチョウ並木は、すでに散り始めていましたがきれいでした。

行幸通りとなりに、和田倉噴水公園があります。

ここには舞い上がる大噴水と、滝のように流れる噴水があります。

これは、流れる噴水の方です。

 

 

033いよいよ、この大手門から皇居東御苑に入ります。

入口で、番号札をもらいます。

皇居東地区は、皇居附属庭園として整備されました。

1968(昭和43年)から、一般公開されています。

 

 

042まず番所が三つ残っていて、同心番所百人番所、大番所と続きます。

番所とは警備の詰所で、城の奥に行く程上の役人が詰めていました。

これは百人番所で、鉄砲百人組と呼ばれた四組が昼夜交代で詰めていました。

 

 

 

本丸跡に、入って行きます。

048左手前の方に、よくご存知の松之大廊下跡の碑がありました。

1701(元禄14年)、刃傷(にんじょう)事件のあった所です。

その後、赤穂浪士の討入りにつながっていきます。

廊下に沿った襖戸に、松と千鳥が描かれていたのが名前の由来です。

 

 

049これが本丸大芝生で、今は枯れていますが夏には緑色に染まります。

この大芝生は相当広いですが、開放されています。

画像、正面ずっと奥の芝生辺りが大奥の跡だそうです。

 

 

 

051大芝生の右側に休憩所があり、その裏に展望台があります。

これは、展望台からの眺めです。

眼下には、二の丸雑木林が見え紅葉がきれいです。

その奥には回遊式庭園である二の丸庭園がありますが、その辺りも見学自由です。

 

 

大芝生を、歩いて行きます。

056すると、江戸城天守閣跡であるこの天守台があります。

江戸幕府天守閣が完成したのは、1638(寛永15年)です。

三代将軍家光の代で、外層五層の大きな天守閣だったそうです。

ところが、19年後の明暦の大火(振袖火事)で全焼してしまいました。

以後、再建はしていません。

 

061この北桔橋門(きたはねばしもん)から、皇居東御苑を出ます。

番号札を返します。

残念だったのは、唯一の三重櫓である富士見櫓が工事で見られなかったことです。

櫓(やぐら)とは、倉庫や防御の役割をもった建物のことです。

 

 

歩道橋を渡って、北の丸公園へと入って行きます。

063北の丸公園が一般開放されたのは、1969(昭和44年)です。

右には国立公文書館、そのとなりには国立近代美術館があります。

さらに、首都高速の上を通って行くと科学技術館があります。

そこを訪れた小学生の団体などで、人が溢れていました。

 

 

071さらに歩いて行くと、日本武道館があります。

1964(昭和39年)、青少年身心練成の大道場として創建されました。

実際は、東京オリンピック柔道会場として建てられたものです。

その東京オリンピックの柔道無差別級では、日本柔道がヘーシンク(オランダ)に敗れたのです。

 

 

073

皇居外苑・皇居東御苑・北の丸公園と歩いて来ました。

一般開放で公開されている所は、この田安門で終わりとなります。

田安門を出て、靖国通りの九段坂を上ります。

かつての九段坂は、現在とは比較にならないほど勾配がきつかったと言われています。

 

 

靖国通りを渡り、靖国神社へ向かいます。

078第二鳥居より、神門・拝殿を望みます。

幕末から大東亜戦争までに戦没された人々を、お祀りしています。

 

 

 

 

083これは、神門の菊の御紋章です。

靖国神社の起源は、明治天皇のお考えによるものです。

お国のために命を捧げた人々のみたまを慰めるために、東京招魂社として1869(明治2年)創立されました。

その後、1879(明治12年)靖国神社と改称しました。

 

 

靖国通りをもどり、千鳥ヶ淵の所で右に曲がります。

086再び、お濠沿いの千鳥ヶ淵緑道を行きます。

で有名ですが、今はこのように紅葉がきれいです。

緑道を歩いて行くと、右側に千鳥ヶ淵戦没者墓苑があります。

 

 

 

089この墓苑は、先の大戦において海外で亡くなられた戦没者の御遺骨を納めるため1959(昭和34年)建設されました。

「無名戦没者の墓」です。

手前が前屋で、奥が納骨室のある本屋で六角形の形をしています。

人のおとずれは、少ないです。

この日は暖かかったので、ここのベンチで先ほど買っておいたオムレツ弁当を食べました。

 

千鳥ヶ淵戦没者墓苑から、三番町の交差点を左に曲がります。

098_2半蔵濠沿いの千鳥ヶ淵公園を、歩いて行きます。

やがて、この半蔵門が見えてきます。

この門の名前は、近くに服部半蔵の屋敷があったことに由来します。

江戸時代甲州街道に通じ、非常時に甲府(幕府天領)へ避難させる手はずになっていたと言われています。

 

 

101お濠は、半蔵濠から桜田濠になります。

内堀通り沿いには、国立劇場最高裁判所が立ち並びます。

この桜田濠沿いの歩道を下って行くと、三宅坂の交差点となります。

ここで、お濠と別れて国会議事堂に向かいます。

 

 

106議事堂の周りは、警察官ばかりであまりウロチョロ出来ない状況です。

それと逆光がきつくて、これが精一杯の国会議事堂の画像です。

 

 

 

 

憲政記念館(創設時は尾崎行雄記念会館)へと、入って行きます。

108まず、この時計塔が目に付きました。

これは、噴水池・花壇とともに1960(昭和35年)に完成したものです。

時計は、尾崎行雄を称えてスイスから贈られたものでした。

現在は、国産のものに変わっています。

1日4回チャイムが鳴ります。

 

 

112次に、この日本水準原点標庫なるものがありました。

1891(明治24年)、全国統一された標高決定のための基準として水準点が創設 されました。

これは、その水準原点標を保護するため建設されました。

建物は、ローマ風神殿建築に倣い本格的な模範建築です。

 

 

再び、桜田濠沿いを歩きます。

122すぐに、この桜田門に着きます。

桜田門と言えば、後にそびえる警視庁桜田門外の変です。

桜田門外の変は、1860(万延元年)水戸浪士たちが反対勢力を弾圧していた大老井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件です。

 

 

 

桜田門をくぐります。

125再び、松林の美しい皇居外苑となります。

ここがゴールで、皇居を一周したことになります。

見られなかった門としては、平川門・清水門・乾門の三つです。

 

 

 

129今日のおみやげは、皇居東御苑売店で買った菊の御紋入りの財布です。

 

 

 

 

-ちよ散歩⑨皇居一周・おわり-